【全国の山・天狗のはなし】  

▼24:群馬県の山

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▼01:赤城山の天狗・杉ノ坊

【略文】
赤城山は赤き山。日光男体山の神との戦いに敗れた赤城神の血で
山が赤く染まり、その名がついたという。ここにすむ杉ノ坊天狗
は、和歌山県の興国寺を一晩で再建したという。この伝説は、群
馬県側と和歌山県側にも伝わっているから不思議です。この天狗
は、天狗になる前は「了儒」という行者ではないかという。
・群馬県勢多郡富士見村赤城山。

▼01:赤城山の天狗・杉ノ坊

【本文】
 国定忠治でおなじみの赤城山(あかぎやま・さん)は、上毛三
山のひとつ。標高1400mあたりの新坂平一帯は、初夏、群落する
レンゲツツジが満開になり、その見事さは有名です。赤城山の名
は、ムカデになった赤城山の神が、ヘビになった日光の神と戦っ
て負傷。山の木々が血で赤く染まったので、赤木山といったのが
はじまりだという(江戸初期の儒学者林羅山「二荒山神伝」)。

 ここには赤城山という峰はなく、黒檜山(くろびさん・1828m)
をはじめとする外輪山と中央火口丘との総称。赤城山は平安時代
初期の大同2年(807)に、日光を開山した勝道上人というえらい
お坊さんによって開かれたとされています。火口原には火口原湖
の大沼(おおぬま、おの)と、火口湖の小沼(こぬま、この)が
あります。

 大沼の東岸の最高峰である黒檜山の山ろくに赤城神社がありま
す。赤城神社は全国には関東地方を中心にして約300社の赤城神
社があるといわれる名刹。千葉県流山市には赤城神社がまつられた
小さな山があります。

 ここは江戸川沿いにあるのですが、その昔、大洪水の時、上流か
ら赤城山の一部が流れてきたのだという伝説があるそうです。そう
いえば江戸川上流の利根川は赤城山の西ろくを流れています。市名
の「流山」はそんなことから来ているという。

 それはともかく、赤城山は赤城と日光の神争いや、赤城と榛名
の神争いの伝説は有名ですが、そのほか、天狗伝説もあります。
それもそんじょそこらの小ワッパ(童)天狗と大違い。大天狗の
なかでも、赤城山杉ノ坊(さんのぼう)という名前まである大物
天狗です。赤城神社は大沼神を祭った社ですが、そのそばの飛鳥
社(ひちょうしゃ)には、天狗を祭ってあるというのです。

 『前上野志』という本に「大沼大塔には本社(赤城明神)の他
に、飛鳥社(天狗を祭る)、開山堂(了儒法師とて、長楽寺(※月
船)?海(ちんかい)和尚に随従せる行者を、開山と推せり)な
どありし」とあります。赤城山大沼湖畔の飛鳥社は天狗祠だとい
うのです。

 赤城山を開山したとされる了儒法師とは赤城山中で30年あまり
も修行したという行者。了儒法師が随従したという月船?海(げっせ
んちんかい)和尚との出会いも奇妙です。そもそも長楽寺月船?海
和尚というのは、群馬県新田郡世良田村の長楽寺の法照(ほっし
ょう)禅師のことだという。

 月船?海和尚は、弘安5年幕府の命により長楽寺第5世住職と
なり、延慶(えんきょう)元年(1308)没し、朝廷より法照禅師の
諡(おくりな)を貰ったエライ坊さん。『赤城秘文』によると、鎌
倉時代中期の弘安年間(1278〜1288)のころ、その法照禅師があ
るとき赤城山に登ると、ひとりの行者の出迎えを受けました。

 「赤城山ニ一練行(修行を熱心に練りあげること)ノ人有リ。
三十余年、影、山ヲ出ズ。木食澗飲、氷雪不凍、多クノ神異有リ。
儘、天狗ヲ友トシテ善シ。所謂魔界ナリ。タマタマ師、赤(※甚
だしく)?(※きょう・高い山)ニ陟(のぼ)リ、霊区ヲ逍遥ス。
練行ノ人、出テ迎エ、受法シテ勝因ヲ結ブ。乃チ号シテ了儒ト曰
ウ。是ヨリ一州学師ノ道者、赤城門徒ト称シ、彼ヲ以テ儒翁ノ祖
ト為シ、時ノ人、之ヲ尊ブコト神ノ如クナリ」とあります。

 法照禅師が赤城山に登っていくと、一人の行者の出迎えを受け
ました。その行者は、木の実を食べ、谷の水を飲みながら修行を
しているという。そんななか、30年以上も山を降りたことがなく、
氷雪にも凍えないというから 人間わざではありません。そしてい
つも天狗を友として暮らしているというのです。

 その行者が、法照禅師(?海(ちんかい)和尚)が登ってきた
と知って、禅師の弟子になりたくて出迎えたのだという。そこで
法照禅師は、その行者に法を授けて「了儒」という法号を与えま
した。開山堂の本尊はこの了儒法師であるという。

 この了儒の30数年にわたる修行の様子から、天狗研究者は赤城
山の大天狗杉ノ坊は、この了儒行者の化身ではないかと推定して
います。

 ところで、江戸時代中期、寛延2年(1749)刊行の著者不詳と
も神谷養勇軒著ともいわれる『新著聞集』(しんちょもんじゅう)
に、「天狗一夜にして法燈寺(ほっとうじ)をつくる」という一文
があります。

 法燈寺は、和歌山県の由良(ゆら)町にある臨済宗の鷲峰山興
国寺(じゅぶざんこうこくじ)というお寺。ここを開山した法燈
(ほっとう)国師の名前から法燈寺とも呼ばれていました。

 先の『新著聞集』によると、この寺はどうしたわけか、たびた
び火災が起こるのです。そこで仕方なく住職は、草葺きの仮の庵
に住んでいました。

 ある時一人の旅の僧が来て「この寺が火災にあうのは、開山し
た法燈国師の文字からきている。法燈の文字は、水去り火登ると
書くからだ。(法の字はサンズイ(水)に去る。燈は火へんに登る
と書く)。ただお望みなら、わしが建ててやってもよい。しかしそ
れもついには焼失してしまうが、護摩堂だけは残るだろう。わし
は上州(群馬県)赤城山の杉ノ坊(さんのぼう)というものだ。」
と言い残し、僧は寺から去っていきました。

 しばらくして住職は再建を決意し、ふたりの若い僧を群馬県の
赤城山に使いに出しました。赤城山に着いて若い僧は、びっくり
仰天。杉ノ坊はここにすむ天狗の大親分だったのです。ビクつく
ふたりに、杉ノ坊は建設の日取りを決め、若い僧たちを山伏2人
の背中に乗せて、空を飛んで紀州(和歌山県)へ送ったという。

 約束の日、村人がお寺に近寄らないようにしていました。夜に
なり、数十万人もの人声がして、なにやら大工事がはじまったら
しく、一晩中物音がつづきました。夜があけてみると、見事七堂
伽藍(がらん)が出来上がっていたという。しかし杉ノ坊がいっ
たとおり、やがてまた火災に見まわれましたが、護摩堂だけは残
ったというのです。

 紅葉真っ盛りのころ、由良町興国寺を訪れました。地元の小学
生たちや父兄が、参道途中の公園にならんでおやつを食べていま
す。境内にはいると大きな天狗堂があり、暗い堂内に日本一、二
の魔除け天狗面が、まっ赤になってにらんでいます。

 売店で厄よけのお札を買いました。「えっ。天狗を調べて歩いて
いるんですか。面白そうですね。」と、若い僧侶が竹箒の手を休め
て笑いかけています。それにしてもこの話は群馬県側に伝わるだ
けでなく、和歌山県側でも伝承されています。

 由良町の興国寺のパンフレットや町の教育委員会発行の『由良
町の文化財』にも記載されているのです。当時、こんなに離れた
和歌山と群馬の間にどんなことがあったんでしょうか。それとも
山伏たちが群馬県に移り住んできてからこの話を広めたのでしょ
うか。



▼赤城山大沼湖畔飛鳥社【データ】
【所在地】
・赤城山大沼湖畔飛鳥社:群馬県勢多郡富士見村赤城山小鳥ヶ島。
両毛線前橋駅の北北東20キロ。JR両毛線前橋駅からバス、大洞
下車、歩いて20分で大沼湖畔飛鳥社
【位置】
・北緯36度33分09.44秒、東経139度11分00.45秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「赤城山(宇都宮)」

▼【参考文献】
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・
宮本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書16・修験道の伝承文化』五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書・17』(修験道史料集1・東日本編)五来
重編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新著聞集』(神谷養勇軒著):『日本随筆大成第二期第5巻』日
本随筆大成編輯部編(吉川弘文館)1994年(平成6)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳(三樹書房)1977年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳風土記・4』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説大系4・北関東』渡邊昭五ほか(みずうみ書房)1986
年(昭和61)
・『日本歴史地名大系10・群馬県の地名』尾崎喜左雄ほか(平凡社)
1987年(昭和62)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
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