【全国の山・天狗のはなし】  

▼23:茨城県の山

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▼23-01「筑波法印」

【略文】
「西に富士がね、東に筑波」と江戸の人々に親しまれた筑波山。親
神を邪険にした富士の神、筑波の神は丁重にもてなしたため筑波山
はいつまでも繁栄できる…。筑波山はなにかと富士山に対し競争意
識が働いているようです。ここにいるという筑波法印天狗は関東で
最も古く、修験者が唱えるお経「天狗経」にも登場する超大物天
狗。しかし、いまのように観光化された山になっては天狗の「て」
の気配もありません。

(本文は下記にあります)
▼23-01「筑波法印」

【本文】
毎日とはいきませんがトレーニングに、近くの神社の階段を上り下
りしています。神社の欄干から西南に富士山、北北東に筑波山が望
めます。ストレッチをしながらいまごろはどちらの山も賑やかだろ
うなと思いながら眺めます。「西に富士がね、東に筑波」と江戸の
人々に親しまれた筑波山。そもそも筑波山は富士山に対し、なにか
と競争意識があるようです。

柳田國男も「日本の伝説」(神いくさ)のなかで「常陸の筑波山が、
低いけれども富士よりよい山だといってそのいわれを語り伝えてお
りました。…(筑波山はいまのように繁栄しているのは、親神を邪
険にした富士の神に対し、筑波の神は丁重にもてなしたからである)
…。これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人が、伝えて
いた昔話」と書いています。

この話のもとは奈良時代の養老年間717〜724年成立の「常陸国風
土記」という本。筑波の郡の条にこんなことが出ています。「古老
がいうことには…昔、祖(みおや)の神尊(かみのみこと・母神)
が多くの(御子)神たちのところをお巡りになって、駿河の国の富
慈(ふじ・富士)岳(やま)にお着きになり、一夜の宿をと頼みま
した。

しかし、富士の神は新嘗祭で忙しいからと、一夜の宿を断りました。
神祖尊(みおやのみこと)はなげき恨んで「この山は生涯冬も夏も
雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしてし
まおう」といい、今度は常陸の筑波山に行き、宿を乞うた。筑波山
は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った。喜んだ祖
の神尊(母神)は、晴ればれと歓んでお歌いになった。

愛乎我胤(いとしいわがこよ) 巍哉神宮(たかいかみのみやよ)
 天地竝斉(あめつちとともに) 日月共同(ひつきとともに) 
人民集賀(ひとらつどいよろこび) 飲食富豊(たべものゆたかに)
 代々無絶(よよたえず) 日日弥栄(ひましにさかえ) 千秋万
歳(とこしえに) 遊楽不窮(あそびきわまらじ) このことがあ
って福慈の岳は人々が往きつどい、歌い舞い飲んだり食べたり、今
にいたるまで絶えないのだ」とあり、有名な話になっています。

そもそも「筑波」とは同書によれば「筑波の県(あがた)は、久
しい以前には紀(き)の国といっていた。美万貴(みまき)天皇
(崇神天皇)の治世に、采女臣(うねめのおみ)の友属(ともがら
・属類)の筑?命(つくはのみこと)を紀の国の国造(くにのみや
っこ)に遣わされた。

この時筑?命は『私自身の名前を国名につけて後の世までいい伝え
させるようにしたいものだ』といって、ただちにもとの名称(紀の
国)を改めて、こんどは筑波と称した」ということである。また、
風俗(くにぶり)の説(ことわざ)に「握飯筑波の国」というとも
付記してあります。これは山が握り飯に似ており、食べる時に手を
つくので「筑波」といったことにちなんでいます。

筑波山は水郷筑波国定公園に属しています。頂上からは関東平野
が一望。東に太平洋、西に富士山、南に霞ヶ浦、北に日光、那須
の連山など気のままです。筑波山は、朝は藍色、昼は緑色、夕は
紫色と時間によって山肌を変えるといわれています。江戸時代結
城に滞在した与謝蕪村が「ゆく春やむらさきけむる筑波山」とも
詠んでいます。そんなところから紫色は筑波山の代名詞になって
いて、紫の峰という異名もあります。

筑波山はご存じのように男体山(西峰)と女体山(東峰)の双耳
峰です。双方ともふもとの筑波山神社(祭神:伊弉諾尊(いざな
ぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の奥の院になってい
て、当然のことながら男体山頂には男神の伊弉諾尊(筑波男大神
・つくばおのおおかみ)、女体山には女神の伊弉冉尊(筑波女大神
・つくばめのおおかみ)をまつっています。

筑波山といえば有名なのがガマの油売り。酒に酔ったガマの油売り
が、少し深く切りすぎてしまい、売り物のガマの油を多量に塗り付
けますも血が止まらなくなりました。そこであわてて傷薬を売りに
来たのも忘れ、集まっている客に向かって、傷薬を持っている者は
いないかたずねる「ガマの油」の落語もあります。名物のガマの石
は、山頂の御幸ヶ原(みゆきがはら)の中ほどにあり、大口を開
けているようなガマの形の自然石で、立身出世、商売繁盛にご利
益があるそうです(『全国神社仏閣御利益小事典』)。毎年8月1、
2日には筑波山神社で奇祭ガマ祭りも行われています。

この山は姿が美しいため、『万葉集』をはじめとして、多くの歌書
に記されていますが、なかでも『小倉百人一首』の「筑波禰(ね)
の峰より落つる男女川(みなのがわ)恋ぞ積もりて淵となりぬる
 陽成院(ようぜいいん)」が有名なところ。筑波山はまた、奈良
期の花卉双蝶八鏡と7世紀から12世紀にかけての土師器、須恵器、
陶器類が数多く発見されているという、山岳信仰の聖地でもあり
まこに筑波山寺を開きました。その後、真言宗知足院中禅寺となり、
神仏習合の筑波大権現として栄えました。

しかし、明治維新後の廃仏棄釈で知足院は破却されてしまいまし
た。その跡地に筑波山神社を再興していまに至っています。坂東
三十三ヶ所観音霊場の第25番札所にもなっています。また、1864
年(元治1)、水戸藩士天狗党の藤田小四郎一派が、攘夷の急先鋒
となってこの山に立て籠もり、幕府軍と一戦をまじえた「筑波の天
狗騒ぎ」も知られるところです。

さらに筑波郡筑波町と真壁郡紫尾村との山頂境界争いも起きていま
す。これは明治以来つづいてきた紛争。結局、1982年(昭和57)
東京高等裁判所の判決で筑波町(1988年1月31日につくば市に編
入し消滅)が勝訴したという事件もありました。

筑波山には筑波法印という天狗がいることになっています。天狗に
は大天狗、中天狗、小天狗、カラス天狗、木の葉天狗、白狼(はく
ろう)天狗などなどがいますが、その辺によくある天狗話などはカ
ラス天狗や小天狗などの名もないこわっぱ天狗の話。筑波法印は鼻
の大きい大天狗のなかでも名前まであり、また関東でも最も古い天
狗で謡曲にも出ており、修験者が天狗に祈念をこめる時唱えるお
経「天狗経」にも登場します。

さらに役ノ行者の岩橋づくりの時の天狗揃えにも出てくる超大物
天狗なのです。それもそのはず、天狗になる前は筑波山の開山徳一
上人だというのです。徳一上人は奈良時代の公卿藤原仲麻呂の子。
関東から東北にかけて多くの寺院を創建しました。開山したお寺は
筑波寺をはじめ、60余ヶ所にもおよぶというのですから立派なお
坊さんです。

しかしいまは上り下りするケーブルカーたロープウェイ。ずらりと
ならぶ茶店、子供たちが走り回るような観光化された筑波山。神職
たちも「天狗などそんなものはいない」といい切っているほど忘れ
られた筑波法印。天狗研究者の落胆は大きいようです。


▼筑波山【データ】
【所在地】
・茨城県つくば市と桜川市(旧真壁郡真壁町)との境。つくばエ
クスプレスでつくば駅からバス、筑波山神社入口、ケーブルカーで
筑波山頂駅、男体山(西峰871m)まで15分、女体山(東峰最高
点877m・1等三角点のある所876m)まで15分。

【位置】
・女体山877m最高地点:北緯36度13分31.36秒、東経140度6分24.
95秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「筑波(水戸)」(別の図葉名と重ならず)。

【参考文献】
・『角川日本地名大辞典8・茨城県』竹内理三(角川書店)1991年
(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『常陸国風土記』:(『風土記』(東洋文庫145)吉野裕訳(平凡社)
1988年(昭和63)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

 

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