【全国の山・天狗のはなし】  

▼22:栃木県の山

……………………

▼02:日光・古峰ヶ原の天狗隼人坊

【略文】
古峰神社は、もと山伏の道場だったが、明治の廃仏棄釈で神道に
切り替えた神社。しかし参拝者は天狗がお目当てに来たという。
ここは三つの石が重なっている古峰神社の奥社。抜けるような青
空。ベンチに陣取りガスに火をつけ、ラーメンをつくります。時
間が止まったようなひとときでした。
・栃木県鹿沼市
▼22-02:日光・古峰ヶ原の天狗隼人坊

本文】
 古峰ヶ原(こぶがはら)は栃木県鹿沼市の西部にあり、足尾山
地の中心をなす標高1300m内外の高原。ここは天狗の信仰で有名
な古峰ヶ原信仰の聖地です。このあたり日光山までの山岳地域は、
かつて修験者の行場となっていたといい、いまも禅頂行者道の名
が残っています。

 古峰ヶ原は日光開山の勝道上人が修行した所だと伝えています。
勝道の行場だとする「三枚石(岩)」や、回峰行場のひとつである
「深山巴」(じんせんともえ)の宿もあります。古峰ヶ原信仰の中
心古峰神社は、そのふもとにあり、祭神は日本武尊になっていま
す。神社の起源については多くの伝説があります。

 そのひとつ、この地に住んでいた「石原氏」のところに、入峰
修行の僧たちが訪ねてきて道案内を頼むようになり、やがて修行
僧が日光山から「金剛童子」の像を当地に移して金剛堂を建てた
のがはじめという。

 日光を開山した勝道上人が来る前から、この辺りを守ってきた
のが先住の石原氏。石原氏の先祖は、前鬼後鬼の子の妙童鬼だと
いうのです。(役ノ行者の「弟子系譜」では、後鬼自体が妙童鬼だ
とあり、ごっちゃになっていますが)。

 その石原氏の子孫がこの地で代々前鬼隼人と名のっていたとい
う。前鬼後鬼というのは、奈良県大峰山で修業した役ノ行者の忠
実な夫婦の従者で、行者と一緒に全国諸々の山を巡峰して回った
天狗です。

 こうして石原氏と天狗は、切っても切れない関係で、参拝者も
天狗の霊力を信じ各地から大勢参詣に訪れていました。こんな山
伏の修行道場だった古峰神社でしたが明治になり一大転機が訪れ
ます。明治維新の神仏分離、廃仏棄釈の暴動です。

 そんな中、古峰神社はいち早く神道に転換、神仏混合などとい
っていたら神社、社宝など破壊されかねません。いままで神社名
を「コブ」と読ませていたものを「フルミネ」神社に変更、祭神
まで「大山祇(ずみ)の神」から、関東地方に縁の深い「日本武
尊」(やまとたける)に変えてしまいました。

 しかし、いくら表看板を塗り替えても、昔ながらの民衆は、天
狗に密着して離れません。仕方なく神社側は、天狗の吹聴はあえ
てせず、宿坊に奉納された天狗面を掛け、唱える唱文や、前触れ
の大太鼓などに、天狗の雰囲気を漂わせたりしているようです。

 ここの御利益はとくに火防の信仰が強く、江戸時代中期より講
組織が生まれ、代参形式で参詣が行われ、講は北海道から甲信越
地方にまでおよび、総数約2万ともいわれています。

 突然ですが、『遠野物語』にこんな記述があります。古峰の神さ
まは、山芋が好きで遠野地方の信者は、お参りの時、いつでも家
で一番できのよい山芋を持参して供えるという。

 ある時、欲の深い男が何も持たずやってきて、気まずく思い、「う
っかり忘れてきました」というと、「いや、心配ない。すぐ取りに
行かせます」という。……なにか気にかかる返事でしたが、次の
朝、「夕べ使いの者が、あなたの家を探したが、山芋は見つからな
かったそうです。

 それで少々見せしめの印をしてきたといってました」。??……。
うす気味悪く思った欲深男が、家に帰ってみると納屋が焼けてい
たという。火事が起きた日にちもあの日と符合しているという。

また講中のくじ引きで、登山に外れた家は、できのよい芋を屋根
の上に載せる習慣がありました。翌朝になると芋はなくなってい
て、あとで古峰神社から礼状が届くのだという。

 ある家では、いい芋は自分の家で食べるためとっておいて、細
いものばかりを屋根に置いていたところ、その後その家は火事に
なったといいます。これは昭和10年(1935)ごろ書かれたもので、
それにいまから12、3年前のことであったとあるから、大正末ごろ
の話のようです。

 そのほか、この山には狭い庭で屈強な大男が大勢で相撲をとっ
たり、同時に剣術の稽古をしていますが、どうみてもそんなこと
できそうにない狭い庭だったという。この山の天狗の霊威譚はい
ちいち紹介していたらきりがありません。

 それよりここの天狗古峰ヶ原隼人坊の存在感を示す出来事があ
りました。江戸後期の文政8年(1825)将軍家斉(いえなり)が、
日光東照宮に参拝するというお達しがあったのです。

 そこでその前年の文政7年(1824)に、日光社参奉行の水野出
羽守(でわのかみ)の名で、こんな高札が日光の剣ヶ峰(横根山
付近)に建てられました。

 「来年酉年四月日光 御宮御参詣被仰出依之是迄其御山ニ住居
候天狗并降魔神 御参詣相済候?其御山可立退者也 文政七申七月
 水野出羽守印 天狗并降魔神江 (筆者屋代太郎)」。これは、「日
光の山中に居住する天狗ならびに魔神どもは、将軍社参が済むま
で御山を立ち退いてどこかへ移住せよ」と命じた高札です。

 しかし幕府の命令でも、暴れ天狗たちが相手では心もとないと
思ったのか、大物天狗の古峰ヶ原隼人坊の名前を借りて副書きを
つけました。

 それには、「将軍家が日光へ参詣されるについて、幕府の重役衆
が山中に制札を建てられたのは、誠に尤もなことであるから、ご
参詣中、日光山に住んでいる大小天狗たちは、京都の鞍馬山、愛
宕山、静岡県の秋葉山、九州福岡県の彦山に分散されたい。前鬼
隼人印 日光住居、大小天狗中江」とあります。

 日光には、家康の化身だという東光坊天狗がいるなずです。東
光坊が押さえきれなかった日光奥山の天狗たちも、古峰ヶ原の隼
人坊天狗にはかなわなかったというエピソードです。この話は、
当時江戸中の評判になり、そのことを書いた随筆類も幾種類かあ
るそうです。

 このことがあってから、古峰ヶ原の隼人坊天狗は全国に名が知
れ渡ったということです。ちなみに翌年の将軍日光東照宮参拝は
行われなかったという。

 日光中禅寺湖から夕日岳に登りテント泊。翌日そこから南下、
行者岳の先、大天狗之大神につきました。ここは三つの石が重な
っている古峰神社の奥社。適当に開けた気持ちのいい平地です。
社の中に大石が食い込んでいます。

 扉には天狗のうちわが飾られています。かつてここにあった道
場で山伏たちが修行したとの立て札があります。抜けるような青
空。ベンチに陣取りガスに火をつけます。立ち上る湯気、ほおば
るラーメンがやたらとうまい。時間が止まったようなひとときで
す。心いくまで休んだあと、古峰神社を目指して尾根を下ったの
でありました。




▼古峰ヶ原三枚石【データ】
【所在地】
・栃木県鹿沼市。東武鉄道日光線新鹿沼駅からバス、終点古峰神
社下車。さらに歩いて2時間で三枚石。お堂と石碑、ベンチなど
がある。地形図に三枚石の地名と鳥居マークのみ記載。
【位置】
・三枚石:北緯36度38分19.48秒、東経139度30分34.32秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「古峰原(宇都宮)」

▼【参考文献】
・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・
宮本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『図聚 天狗列伝・東日本編』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭
和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『遠野物語拾遺・99』柳田国男:角川文庫「遠野物語拾遺・99」19
79年(昭和54)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系9・栃木県の地名』寶月圭吾ほか(平凡社)
1988年(昭和63)

 

…………………………………

【とよだ 時】 山と田園風物漫画
……………………………………
 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

 

【目次】へ戻る
………………………………………………………………………………………………