【全国の山・天狗のはなし】  

▼20:山形県の山

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▼03:羽黒山・水天狗円光坊

【略文】
山形県羽黒山には毛色の変わった怪人がいることになっています。
その名を水天狗円光坊というそうです。この天狗は、護符に火災水
災除・厄難消滅とありますので、は水難除けの担当天狗なのでしょ
うか。円光坊は口がとがった天狗です。髪を伸ばし後ろでしばった
総髪姿をしています。
▼03:羽黒山・水天狗円光坊

【本文】
 山形県羽黒山には毛色の変わった怪人がいることになっていま
す。その名を水天狗円光坊という。この天狗は、羽黒山開運「七千
日護摩行者長教」の護符(ごふ)に影像があります。それには、も
うひとりの怪人(天狗)羽黒山三光坊とならんで向かい合って立っ
ています。

 円光坊と三光坊のふたりは天狗のような姿をしていて、その下に
は火炎を中心に、15匹のカラス天狗が囲んでいます。この護符に
は火災水災除・厄難消滅とありますので、水天狗円光坊は水難除け
の担当天狗なのでしょうか。

 円光坊は羽黒山に登るため、舟で最上川を行き来する人々の安全
を守護する天狗だといわれています。この舟便はかつては近畿地方、
陸前、陸中など日本海側からの羽黒山を信仰する人たちの大半を運
んだといいます。

 円光坊は口がとがった天狗です。髪を伸ばし後ろでしばった総髪
姿。差した刀の柄を左手で握り、右手で頭の上までのびる金剛(こ
んごう)杖をついて、白無垢の行者の姿で輪袈裟を掛け、沓(くつ)
をはいて岩に上に立っています。

 この護符に火災水災除・厄難消滅とあるところから水天狗円光坊
は、水難除け担当の天狗なのでしょうか。水天狗のすむ場所として、
研究家は最上川の水の上か、川底か。陸にすむとすれば陸羽西線清
川駅から少し最上川上流の戸川にある仙人堂周辺ではないかといっ
ています。

 昔から羽黒山へ向かう人や、羽黒修験の山伏たちは必ずこの仙人
堂へ参拝してから登ったといいます。仙人堂は源義経の家来であっ
た天狗・常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)をまつる廟(びょう)
と伝えられているところです。仙人堂のあるあたりをかつては「山
ノ内」と呼んだといいます。

 要するにこのあたり一帯がすでに羽黒山の山内の登山口に当たっ
ていたのだろうということです。いずれにしても水天狗は全国唯一
の水の天狗であり水難守護の天狗神ではないかともされています。

 さて、水天狗円光坊がすむ羽黒山は、出羽三山の羽黒山、月山、
湯殿山の一つ。この三山がまとまった信仰対象となったのは中世後
期のことらしいという。それより前は、湯殿山を奥ノ院として、「羽
黒山・月山・鳥海山」で三山とするか、「羽黒山・月山・葉山」を
三山とする試みもあったという。

 この三山も和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、
熊野那智大社)を模してできたものらしく、もとは天台系修験者が
活躍していた地だったという。いまでは羽黒山修験本宗あが独立し、
またそれとはべつに三山神社などの団結などで、羽黒修験の根拠地
になっています。

 三山詣でが盛んになってのは江戸時代に入ってからで、手向(と
うげ)地区、大網地区、注連掛(しめかけ)地区、肘折(ひじおり)
地区、岩根沢地区、本道寺地区、大井沢地区の7つもの登拝口があ
りました。羽黒山修験は一大勢力をもち、「武家不入」の特権をも
ち、坊も衆徒の数も膨大になっていきました。

 しかし、明治維新の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)で一山は崩壊
してしまいました。ただ民俗的な三山信仰では、今日まで一貫した
信望を集め、東日本中心に、「三山講」の石碑や搖拝所としての塚
もよく見かけます。冬の期間は、積雪で三山のうち、月山と湯殿山
への登山が困難なため、羽黒山に三神合祭殿(山形県羽黒町手向)
で行われています。

 出羽三山も昔は、ほかと同じように女人禁制でしたが、どういう
わけか羽黒山だけ女性の入山が許された山だったといいます。羽黒
の名は、三山を開山したといわれる蜂子皇子(はちこのみこ)を誘
導した3本足のカラスの黒い羽の色(羽が黒)に由来しているとい
う。

 山頂には出羽神社(羽黒神社)があり、伊?波(いでは)神をま
つっています。伊?波(いでは)の神は、倉稲魂(うがのみたま)
命のことだともされる穀物の神。羽黒山はそもそも、飛鳥時代第32
代崇峻(すしゅん)天皇の時代(在位587〜592)、聖徳太子が甲
斐の黒駒に乗って仏教繁盛の霊地を求めて全国を回っていました。

 たまたま出羽国にかかったとき、紫雲たなびく山がそびえている
のを見て、「こここそ仏・菩薩の霊地なり」と訪ね確かめたところ、
大杉の根本に正観音の霊像がおわすのを見出しました。

 一方、そのころ崇峻(すしゅん)天皇の第3皇子に参弗梨(さん
ふつり・参払理とも)の大臣という皇子がいました。「この人は御
顔醜く、眦(まなじり)長く髪の中に入り、口は脇深く耳の根をと
おり、鼻は下がること一寸、面の長さ一尺」もの異相の持ち主で、
このためか春日(とうぐう)にも立たなかった…」(「出羽国羽黒山
建立の次第」)だという。

 その「余りにも暴荒なる相なるによって、北海の浜辺に捨てられ
たと書く本もあります。捨てられた太子は仏門に入り、聖徳太子を
師として修行に励み、法名を弘海(こうかい)といっていました。
やがて聖徳太子の教えに従い観音さまがあらわれた霊地に向ったの
でした。そして三本足のカラスの導きで、羽黒山の阿久谷というと
ころに入り、そこで聖観音の霊像を感得したとされています。

 阿久谷で修行した皇子は国司の腰痛を治したり、村人のさまざま
な苦しみを取り除きました。人々は喜び皇子を能除(のうじょ)太
子(または能除仙)と呼んで感謝したという。

 そのころ、毎夜のように光る不思議な流木が酒田の港に浮いてい
たという。能除太子はその流木で、妙見大菩薩と軍荼利明王の仏像
を彫って、聖観音像とあわせて羽黒三所権現としてお寺にまつりま
した。それから能除太子は月山を開き、また湯殿山を開いたと伝え
ます(ただ、真言宗系の湯殿山4ヶ寺では、能除太子ではなく弘法
大師が開山したとしているという)。

 その後、役行者もここを訪れ、一山を中興したということになっ
ています。ただ開山説はあくまで伝説の話らしい。一方、ここを根
拠地とする羽黒修験は、はじめ天台系の本山派(熊野修験)に属し
ていたそうですが、のちに真言系の当山派(吉野修験)に転じたと
いう。そういういきさつから、やはりここを開山したのは弘法大師
にしたいところです。

 このようにして出羽三山は、その後多くの修験者たちによって聖
地として大発展していきます。いまでは史上初の女性行者も出現し
ているとか。時代は変わりました。この山の行事として、大みそか
に行われる出羽三山神社の松例祭(しょうれいさい)は有名です。

 松尾芭蕉は元禄2年(1689・江戸中期)に羽黒山から月山、湯殿
山に登っており、『おくのほそ道』に「…坊に帰れば、阿闍梨(あ
じゃり)の需(もとめ)に依(より)て、三山巡礼の句々短冊に書
(く)。涼しさやほの三か月の羽黒山。雲の峰幾つ崩て月の山。語
られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな」などと記しています。




▼羽黒山【データ】
【所在地】
・山形県鶴岡市羽黒(旧東田川郡羽黒町)。JR羽越本線鶴岡駅の
東南東14キロ。JR羽越本線鶴岡駅からバス、羽黒山停留所下車。
写真測量による標高点(414m)がある。
【位置】
・標高点:北緯38度42分8.91秒、東経139度58分57.75秒
【地図】
・2万5千分1地形図名:「羽黒山(酒田)」

▼【参考文献】
・『おくのほそ道』松尾芭蕉。元禄15年(1702年)刊:『おくのほ
そ道』(岩波文庫)荻原恭男(やすお)校注(岩波書店)1993年(平
成5)
・『角川日本地名大辞典6・山形県』誉田慶恩ほか編(角川書店)1981
年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書5・出羽三山と東北修験の研究』戸川安章
(とがわあんしょう)編(名著出版)1975年(昭和50)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本歴史地名大系6・山形県の地名』(平凡社)1990年(平成2)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

 

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