第6章 不思議なはなし

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この章の目次
 
 ・(1)天狗のはなし ・(2)大山開山良弁僧正 ・(3)大山の雨乞い
 ・(4)ヤビツ峠の餓鬼道 ・(5)日本武尊の足跡 ・(6)デエラボッチ
 ・(7)水無川と弘法大師 ・(8)世附の産神問答 ・(9)広沢寺のとうふ地蔵

 ・コラム「大山まいり」

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■(1)天狗のはなし

 大山に登ると、あちこちに天狗の文字が目につきます。登山口の
おみやげ屋に売っている天狗の面、ケーブル途中の大山寺わきの天
狗の祠、大山山頂の阿夫利神社本社にも大天狗小天狗と書かれた狛
犬があり、下社わきにも天狗の石碑が立っています。

 もともと大山は天狗の山で、大天狗小天狗がたくさん住んでいる
といわれます。その親玉は、相模大山伯耆(ほうき)坊という名前
の天狗で、日本八大天狗にも名を連ねるほどの大物です。

 大天狗の中でも、大物といわれる天狗には名前がついています。
伯耆坊はその名のように、もとは鳥取県伯耆大山に住んでいました。
ここ神奈川県の相模大山には、別の天狗相模坊が住んでいたのだそ
うです。

 それが平安時代中期ころ、どういうわけか相模坊が香川県の白峰
に引っ越しました。崇徳上皇・藤原頼長と後白河天皇・藤原忠通が
対立した保元の乱で、敗れて讃岐(香川県)に流された崇徳院を慰
めるため、夜な夜や訪れた天狗はこの相模坊です。

 一方、伯耆大山にいた伯耆坊は、南北朝抗争以後、伯耆の大山寺
衆徒が宮方派と武家方派に分かれ、争い憎しみあう合うありさまに、
あきれます。あっちの坊を焼いたり、こっちの寺を焼かれたりし、
あげくの果ては大山寺を炎上させ、衆徒も離散するという荒廃ぶり。

 そんな山を見限ったのか、天狗伯耆坊は相模大山に移ってしまい
ました。その後、伯耆大山の大山寺も復興し、衆徒も集まるように
なり、いまでは伯耆大山清光坊という天狗が支配しているのだそう
です。

 相模大山に移った伯耆坊は、大山寺わきに祠も建てられ、盛んに
なった大山まいりの人たちに信仰されます。昔、大山寺はいまの阿
夫利神社下社の所にありました。

 明治初年(1868)、神仏分離令が出ると、大山寺は取り壊さ
れ、のちいまの所に再建。同時に天狗の祠も、現在の寺のわき、禊
の水の滝の前に移転しました。

 大山には、伯耆坊のほかにもう一狗、阿夫利山道昭坊がいるとい
います。これは平田篤胤がが、門人の中尾玄伸が大山まいりの時、
道昭坊に会い、背負われて空を飛んで頂上まで往復したというはな
しを著書に書いています。

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■(2)大山開山良弁僧正

 大山を開山したのは良弁(ろうべん)という僧正です。良弁は、
鎌倉の出身で奈良東大寺の初代別当というエライ人。その誕生には、
こんなはなしがあります。

 昔、鎌倉に子どものいない夫婦が住んでいました。さびしい夫婦
は「どうか子どもをお授けください」と神仏に祈っていました。祈
りが通じたのか、やがて玉のような男の子が生まれ、夫婦は大喜び、
大切に育てていました。

 ところがある日、金色に輝くワシが飛んできて、男の子をそれこ
そわしづかみにしてさらっていきました。

 この金色のワシは、遠くなら東大寺二月堂のスギの木に子どもを
ひっかけて飛び去りました。その時、山王の使いであるサルが現れ、
助け下ろして義淵僧正に渡したといいます。男の子は金鷲童子と名
づけられ育てられます。

 さらわれた老夫婦は、嘆き悲しみ、子どもを捜しに全国を歩きま
す。ちょうど奈良にさしかかった時、金鷲童子のうわさを耳にし、
訪ねていって再会しました。良弁は、父母といっしょに故郷の鎌倉
に帰ったということです。

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■(3)大山の雨乞い

 農耕生活にとって水は必要不可欠なもの。雨を降らすのに霊験あ
らたかとあれば、民衆の信仰を集めます。

 大山は、一名雨降山というほど雨乞いに効き目があるといいます。
雨乞いの方法は、その土地によっていろいろですが、相模原では、
二人の代表が大山の不動さまに参拝し、竜ノ滝の水をびんにつめて
持ち帰ります。帰り道、休んだりすると、そこに雨が降ってうので、
休まないのだそうです。

 持ち帰った代表は、村の鎮守さまに村人を集め、びんの中の霊水
をまきながら、「降ってきた、降ってきた」と叫び、願をかけます。
そうすると、必ず近いうちに雨が降るのだといいます。願いが達成
すると、やはり二人でお初穂(お金)をつつみ、お礼参りをします。

 ちなみに、阿夫利神社の祭神は、大山祇(おおやまづみ)神と、
風雨雷神などの神である大雷神(おおいかづちのかみ)、それに水
の神さまの高?神(たかおかみがみ)。まつられている三神のうち
二神が雨や水に関係のある神さま、さぞかし効きめがあったことで
しょう。

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■(4)ヤビツ峠の餓鬼道

 いまのヤビツ峠よりもやや西側、岳ノ台と二股峰の鞍部にある旧
ヤビツ峠のおはなしです。

 ここは以前は、札掛集落に食糧などの物資を運ぶ大事な峠でした。
ある冬、何日も雨降りが続き、札掛の食糧も乏しくなりました。心
配になった秦野の荷揚げ役の加藤老人は、力自慢の若者に食糧を背
負わせて札掛に向かいました。

 やがてヤビツ峠にさしかかると、どうも腹が減ってやりきれませ
ん。無理して歩いていましたが、腰がふらついてだんだん歩けなく
り、ついにヒザではうようなしまつです。それでも懸命にはって峠
を越すと、不思議になおります。充分に食べておいてもそのありさ
ま。

 その昔、このあたりは甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康との激
戦の場。戦いに敗れ、傷ついて餓死した武士の亡霊が、食べ物を探
してさまよっているのだといいます。そのため、村人はここを餓鬼
道と呼び、必ず亡霊に食べ物を供えてから、峠を越えるようになっ
たということです。

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■(5)日本武尊の足跡

 表尾根二ノ塔のベンチのわきに「日本武尊(やまとたけるのみこ
と)足跡」と書かれた道標があります。

 菩提集落へ通じる道をしばらく下ると、左手にあるくぼ地がそれ
だといいます。これは秦野市菩提の大平に伝わるはなしです。

 その昔、日本武尊が東征のおり、静岡県の富士市と沼寿司にまた
がる浮島ガ原から、大山に向かう途中、ここにやってきました。の
どが渇きましたが、水がありません。

 そこで、武尊は岩石の上に乗り、力足を踏みました。すると俄然、
水が湧きだしたといいます。いまでも岩石の上に、たて36センチ、
よこ23センチの足跡に似たへこみがあり、この岩から出る水は干
ばつの年でも涸れることがないそうです。

 何年か前の6月、雨の中、その足跡を訪ねました。ちょっとした
くぼ地に岩石がいくつかころがっています。たしかにへこんだ岩石
はありましたが、風化してよくわかりません。昔は、そばに石碑が
あったそうですが、明応7年(1498)の大地震で地中に埋没し
たといいます。

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■(6)デエラボッチ

 大昔、デエラボッチという巨人がいました。巨人は、富士を背負
って西の方から東へ旅していましたが、さすがに富士山を背負って
いては重い。

 みると、腰かけるのにちょうどいい高さに大山があります。富士
山を後におろし、デエラボッチは大山に腰かけ、相模川の水を両手
ですくい、何杯も飲みました。

 しばらく休み、元気が出てきたので、、「よいしょ」と立ちあがろ
うとしましたが、富士山が根を生やしたのか持ちあがりません。

 デエラボッチは、もっと力を入れて立とうとすると、両足が地面
にもぐり、背負い縄がプツンと切れます。仕方なく、縄の代用に藤
づるを探しましたが、相模原の大地には一本もありません。

 そこで、富士山を背負うのをあきらめ、房総方面へ旅を続けまし
た。両足のもぐったあとはJR横浜線淵野辺駅の鹿沼としょうぶ沼
だといいます。デーデッポーなどの名で、あちこちに語りつがれて
います。

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■(7)水無川と弘法大師

 丹沢の沢登りをする時、一番最初に覚えるのがこの水無川です。
この川は、山間部では水量は決して少なくないのですが、盆地へ出
ると伏流になり、河の床面が現れます。

 この川の名について、こんな伝説があります。昔、この川には橋
がなく、渡し船を利用していました。ある日、旅先で、父親の急病
を知らされた孝行息子が、あわてて家に帰ろうとしますが、ここま
で来る間にお金を使い果たしてしまいました。

 息子は、一生懸命に渡してくれるように頼みましたが、船頭は聞
いてくれません。そこで仕方なく、裸になって川を渡りますが、途
中で足をとられ、水死してしまいました。

 たまたまこの地を訪れていた弘法大師は、このはなしを聞いて、
その船頭に仏の慈悲を説き聞かせますが、船頭は逆に竿を振りあげ
てなぐりかかるしまつ。そこで、大師は持っていた錫杖を川床に突
きさすと、水は錫杖に吸い込まれ、干上がってしまいました。以後、
この川は、水のない川になってしまったということです。

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■(8)世附の産神問答

 その昔、ある巡礼が途中で夜になってしまい、仕方なく道端のサ
エノ神の祠にもぐりこみ、一夜を明かしました。夜中になると、話
し声がします。「おい、サエノ神どん、行かねぇか」「いやオレは客
人がいるから、みんなで行ってくれねぇか」。

 巡礼はウトウトしながら聞いていましたが、しばらくして、「サ
エノ神どん、いま帰ったヨ」の声。「どうだった?」「ウン、男の子
だ。あれは十五までの寿命だ。川で果てる運命だ」。

 不思議なことだと、翌朝、村を回ってみると、たしかにいましが
た男の子が生まれた家があります。早速、ゆうべのはなしをし、子
どもを守るため信心するようにすすめました。

 やがて、その子が十五歳になり、毎日のように釣りに出かけます。
ある日、男の子は釣竿をいくつにも折って家に帰ってきました。

 「きょうは、妙なことがあった。弁当を広げていたら、川の方か
ら男の子が来て、おめえはきょうで命が終わる運命だが、おやじが
信心深いので60まで命を預けるいわれた」と、不思議そうに話し
たということです。

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■(9)広沢寺のとうふ地蔵

 その昔、七沢村に豆腐屋がありました。ある朝、主人が戸を開け
ると、夕べ降った雪の上に誰かの足跡がついています。

 主人は、「せっかく豆腐を買いに来てくれたのに気の毒なことを
した」と思い、足跡は、山を登り沢を越え、広沢寺の地蔵堂の前で
なくなっています。

 まさかお地蔵さんが豆腐を買いに来たのでは? と半信半疑なが
ら、豆腐屋の主人はお堂の前に豆腐を供えて帰りました。 

 その夜、主人が寝ていると、枕もとに地蔵が現れ、「豆腐を届け
てくれた礼をいうぞ。わしは豆腐が大好きなので、豆腐屋のない及
川村からここに移ってきた。これからも豆腐を供えてもらいたい。
供えてくれれば、この村に入ってくる疫病を追い払ってあげよう」
というお告げ。

 それからは、この地蔵を「とうふ地蔵」と呼ぶようになりました。
いまは本道に安置して、和尚さんが豆腐をあげています。

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■コラム「大山まいり」

 大山の石尊大権現は、雨乞いに効くというので、初めは近隣農家
の信仰を集めていました。

 しかし、時がたつにつれ、雨乞いだけでなく豊作祈願、無病息災、
商売繁盛、家内安全、防災招福などにも霊験あらたかだとされ、江
戸期には、関東、東海一円に大山講が組織されました。全盛期、関
東諸州の講の数は四千組、それに加入する講中は五〇万といわれま
す。それが夏に集中して押しかけるのですから、たまりません。何
十万という参詣人が、あっちへゾロゾロ、こっちへウロウロ。

 茶店や旅館はここぞとばかり、カワユイ娘を雇って旅人たちを呼
び込み、街道の物乞いまでがかきいれ時と、しつこくつきまとった
ということです。

 大山まいりは、大きな納太刀(木太刀)をかついでやってきて、
奉納しました。下社の奥にいまもかかっている太刀は、その名残で
す。明治に鉄道が通りましたが、そんな大太刀を車内に持ち込まれ
てはたまりません。持ち込み禁止で、この風習はすたれてしまいま
した。

(第6章 終わり)

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