第5章 石仏のはなし

…………………………

この章の目次

 ・(1)大山の阿夫利神社 ・(2)大山寺 ・(3)塔ノ岳尊仏岩の石仏
 ・(4)鍋割峠の石仏 ・(5)天社神 ・(6)秦野の厄神 ・(7)岳ノ台の風神
 ・(8)札掛の丹沢山神社 ・(9)大野山の竜集大権現 ・(10)高松山のビリ堂
 ・(11)神縄の頼政神社 ・(12)三神峠の大道祖神 ・(13)丹沢湖畔の神仏
 ・(14)奥山の神仏 ・(15)箒沢の箒杉 ・(16)善波峠の石仏

 ・コラム「丹沢の修験道」

………………………………………

■(1)大山の阿夫利神社

 山行の途中、登山口で山道で、あるいは山頂で、神社や石仏、石
祠などをよく見ます。そんな神仏を知るのも、山の楽しみをひろげ
ます。

 あまりにも大きな大山の阿夫利(あふり)神社。大山山頂に本社
と摂社、中腹ケーブルの終点に下社があります。本社には山の神と
も呼ばれる太山祇(おおやまづみ)大神、攝社の奥宮には大雷神(お
おいかづちのかみ)、前社に水を司る高?神(たかおかみかみ)を
まつってあります。

 大山は遠い海上からも見え、船の位置を確認する当て山にもされ
ました。そんなことから、航海の守り神鳥石楠船神(とりいわくす
ふねのかみ)を山頂にまつりましたが、いまはありません。

 また、大山山頂には大きな岩石があり、農業にかかせない水を司
る神などが、この岩に天下ると信じられていました。そのため、こ
の岩石をあがめて石尊社、石尊大権現などと呼ばれるようになりま
した。

 江戸時代に盛んだった大山まいり。なぜか登山口で豆腐を買い、
食べながら登ったのだそうです。それに由来して阿夫利神社下社わ
きに、豆腐の碑が立てられています。

……………………………………

■(2)大山寺

 ケーブルの不動前駅にある大山寺。真言宗大覚寺派のお寺で、雨
降山大山寺(あふりさんたいさんじ)が正式な呼び方。大山不動と
か石尊権現ともいうのだそうです。

 名前のように不動さまがご本尊。開山は、天平勝宝7年(755)
の奈良時代。奈良の東大寺初代別当で、鎌倉出身とも滋賀県とも福
井県出身ともいわれる良弁(ろうべん)僧正という坊さんです。

 良弁はそれより三年前、東国聖地を巡礼していた際、大山に登り、
生身の不動尊を感得したのだそうです。その後、奈良に帰り、御

願寺にと朝廷に請うたといいます。

 平安時代になると、山岳仏教が盛んになり、修験道が組織化され
てくると、大山寺もその影響を受けて山岳修験の中心道場になり、
阿夫利神社も支配下におく隆盛ぶり。

 江戸時代になると、大山まいりが大流行。関東、東海などにも大
山講が組織されました。

 しかし、明治の神仏分離令で、それまであった下社の所から、い
まの所に移転。現在は、訪れる人も少なくなってしまいました。

……………………………………

■(3)塔ノ岳尊仏岩の石仏

 塔ノ岳や尊仏山荘の名前のもとである、お塔と呼ばれた尊仏岩。
大正12年(1923)の関東大震災で崩れた土台が、山頂の北西
にあります。

 この大岩には拘留孫仏(くるそんぶつ)をまつってありました。
倶留孫仏とも書き、過去七仏の一つ。これはお釈迦さまのように悟
りをひらき、仏陀になれた人が過去に七人いたとする考えだとかで、
拘留孫はその第四の仏。

 いまの賢劫(けんごう)の世に出現する千仏の中でも最高の仏さ
まで、迦葉(かしょう)という姓だと、こむずかしいことがモノの
本に書いてありました。

 また、尊仏岩には、雷神が住むといわれ、雨乞いの時はその岩の
穴に棒をさし込み、ひっかきまわしたそうです。穴の中にいる雷神
を怒らせ、雨を降らせようとしたのです。

 いまはその土台に、二体の石仏と、尊仏と書いた石碑がコケむし
ています。その近くに、昔は金華山なんとか寺という名のお寺があ
ったとか。塔ノ岳山頂にも拘留孫仏と書いた石碑と石祠があります。

……………………………………

■(4)鍋割峠石仏

 富士山が大きく見える鍋割山から急坂を下ると、鍋割峠に出ます。
スズタケが群生している中の十字路に、馬頭観音があります。

 馬頭観音とは変化観音の一つで、本来はインドの古代聖典「リグ
・ベーダ」に出てくるベードウ王の神話に関係があるといわれます。

 しかし、農山村の馬頭観音は、もっと素朴なもの。かつて馬は農
家の労働力として大事にされ、家族同様に扱われていました。だか
ら、死んだ飼い馬に供養塔を立て、また馬頭観音をまつり、馬の安
全と健康を祈りました。

 馬頭観音信仰がはやったのは鎌倉時代。大事な武器として使った
武士の間でのことでした。それが江戸時代になると、馬の神さまに
なって庶民に定着。石碑や石像が路傍や峠道に立てられました。

 ここ鍋割峠は、寄集落からユーシンへの重要な峠道。また、玄倉
の人たちは、塔ノ岳のお祭りには雨山峠を越え、鍋割峠から尊仏の
土平に下り、塔ノ岳の水庭あたりから尊仏岩への道をお参りに登っ
たということです。

……………………………………

■(5)天社神

天社神
丹沢山麓の集落で、天社神と書かれた石碑をよく見ます。天社神と
は、神さま関係の辞典にもない、変わった神さまだそうです。天社
は天赦で、暦の砂天赦日のことではないかといいます。

 天赦日は「万事をなすに障りなしという最高の大吉日」。暦の中
で吉日は天一天上と社日、天赦の日だけが吉日で、あとは丙午(ひ
のえうま)、十方暮、庚申、三伏、犯土、三隣亡など凶日ばかり。

 これは、中国は戦国時代から漢の時代にできた陰陽五行説にもと
づく考え方。万物一切は木火土金水(もっかどごんすい)の五つの
要素からなっているとされ、それを陰と陽につけます。

 すなわち、木火は陽に、金水は陰に属し、土はその中間だとし、
その消長で天地の災い、人の運勢を説明しようとするやっかいなも
の。

 また、暦に社日という土地の守護神をまつる日があります。春秋
の彼岸に最も近い戊(つちのえ)の日で吉日です。この吉日どうし
である社日と天赦が結びつき、天社神という神さまになったのだろ
うというけれど…。

……………………………………

■(6)秦野の厄神

 ヤビツ峠や大山への登り口、蓑毛。その手前の寺山集落にある鹿
島神社の境内に、厄病神をまつる社があります。

 社の中には、さらに祠をすえ、その前にサカキやご幣が供えてあ
り、入り口には「厄神大権現」という木札がかかっています。

 厄病神は、赤痢などの疫病を流行させる恐ろしい神。昔の人は、
この神を手厚くまつってしずめさせ、祠の中に封じ込めようとしま
した。

 また、所によっては、疫病神送りのお祭りをして、体よく村から
送り出そうとします。この神は、村の外から侵入するとも考えられ、
村境に大きなぞうりをぶら下げる所もあります。村内にこんなぞう
りをはくような、強い大きな人間がいるゾとおどかし、疫病神を退
散させようとするわけです。

 ある年の春、この神社を訪れました。格子の間からカメラをのぞ
かせて写真を撮りましたが、なにも写っていません。まさかとりつ
かれたんじゃないだろうな……と、しばらくの間心配でした。

……………………………………

■(7)岳の台の風神

 日本には、厄病の神もあれば風の神もおわします。いまでこそテ
レビで、天気図や気象衛星からの雲の動きを見られますが、昔の人
は、突然吹き出し、またしずまる風を不思議に思い、暴風におのの
いて神を感じました。

 この風神をしずめるため、疫病神と同じように、お祭りをしてご
機嫌をとったり、鎌を竿の先に結びつけて庭先に立て、風を切って
しまおうとする祭りをします。

 ヤビツ峠近くの岳ノ台にも風神の祠があります。ここは、大山と
塔ノ岳の間にあり、それぞれの山が大きな壁になっていて、その間
を風が吹き抜けるため、麓によく被害をもたらしました。そこで、
石祠を立てて風神をまつり、しずめようとしたものです。

 風神の最初の記録は、「古事記」や「日本書紀」に「吹(ふ)き
揆(はら)ふ気化して神となりし風神」とあります。志那津彦命(し
なつひこのみこと)と志那津比売命(しなつひめのみこと)の男女
二体神をさしていますが、私たち庶民には、風袋を背負ったあの風
神サンのほうが親しみがあります。

……………………………………

■(8)札掛の丹沢山神社

 東丹沢の山あいのの集落、札掛。江戸時代、東丹沢一帯は幕府の
直轄地で、樹木の伐採はご法度でした。盗伐を防ぐため、煤ヶ谷、
宮ヶ瀬、寺山、横野などの村人が、幕府役人に代わって札掛まで巡
回しました。

 その札掛に丹沢山神社があります。なぜこんな所に? と思うか
もしれませんが、昔、丹沢といえば蛭ヶ岳や西丹沢をいっていたの
ではなく、このあたりの東丹沢をさしたのだそうです。

 なるほど、それなら納得です。古くから札掛集落の守り神で、山
仕事の安全無事を願う山神だったのでしょう。社の格子の奥に「舟
澤山神社」と刻んだ大石があります。社の前には、こわれかかった
鳥居に腐りかけたしめ縄がぶら下がっています。

 晩秋、ヤビツ峠から札掛を訪ねました。丹沢山神社前で昼食、早
速拝見に行きます。さんざん写真を撮り、スケッチさせてもらいま
したが、さい銭10円では少なかったかもしれないなァ。

……………………………………

■(9)大野山の竜集大権現

 広い山頂が牧場になっている大野山。休憩所の北側には、コンク
リートでつくった台の上に石祠があります。

 これは、竜集大権現の祠で、かつて南北朝時代、南朝の武将たち
が旗あげの時まつったものと伝えます。

 大野山は「王ノ山」の意味。王とは後醍醐天皇のことで、山頂に
後醍醐天皇をまつってあったといいます。

 そういえば、このあたりは南北朝時代の南朝にちなむ伝承が多く、
山北にあった河村城も南朝方についています。

 大野山山頂から、東に5分ほど下がった所をイヌ(犬)クビリと
いいます。イヌとはオオカミのことで、昔、このあたりにオオカミ
が出没して人々を襲いました。

 困った村人は、ここにワナを仕掛けて待つこと数日。ついにくび
って退治したといいます。そのオオカミの頭がい骨が、深沢地区に
まだあり、昭和32年に専門家の鑑定でニホンオオカミの骨である
ことが立証されたそうです。

……………………………………

■(10)高松山のビリ堂

 高松山は文字どおり、植物のマツに関係のある山名だといいます。
その高松山の南側にある「ビリ堂」は、お堂の基礎だけが残ってい
て、そばに江戸時代後期に立てられた馬頭観音の石仏、大小二体が
あります。

 ビリ堂のビリは、ビリっけつのこと。最下位つまり最奥となり、
いちばん山奥にあるお堂の意味なのだそうです。

 こんな山奥に、馬頭観音があるなんて……。きっと山仕事の荷役
場をまつってあるにちがいありません。ビリ堂は、高松山からの帰
り、ハイカーが必ず休む所になっています。

 この山の登山口は尺里です。「ひさり」と読み、地形図にもルビ
をふってあります。

 しかし、昔は「久里」と書いていたといいます。「風土記」には
「久里・久佐利」とありますが、明治時代の地図には「尺里」にな
っているそうです。

 かつて、大日本帝国参謀本部陸地測量部という、オッカナイ所が
地図をつくる時、写し間違えものが、そのままになっているのだと
いうことです。

……………………………………

■(11)神縄の頼政神社

 小田急新松田駅から西丹沢行きのバスに乗り、丹沢湖へのトンネ
ルに入る手前で見えるのが神縄集落です。バス停先の道を西へ歩い
ていくと、源頼政をまつる「頼政神社」があります。源頼政は、源
平争乱時代の武将。平治の乱では、同族の義朝を捨てて、平家方に
味方したため、「平家にあらずんば人にあらず」といわれた時代、
頼政は源氏の身ながら従三位という破格の待遇に浴します。

 その後、源氏の世にしようと志し、以仁(もちひと)王にすすめ
て平家討伐をはかり、京都宇治川に戦陣を張りました。が、戦いに
利なく、治承4年(1180)、平等院で自殺。頼政七七歳の時だ
ったそうです。

 ここ、神縄集落の頼政神社境内のトチノキは、「かながわの名木
100選」のひとつです。昔、天候不順な飢きんのの年には、この
トチノキの実を食べたおかげで、何人もの村人の命が救われたと立
て札に書かれています。神社の先は、ダム公園に続く道。布縄で鳴
らす鈴の音に混じって公園の音楽が聞こえていました。

……………………………………

■(12)三神峠の大道祖神

 神縄集落からバス道沿いに歩くと、神縄隧道です。このトンネル
の上は、昔、神縄と玄倉集落を結ぶ古道で、三神峠と呼ばれていま
した。

 その峠には、名前のように三体の神像が草の中に埋もれています。
いちばん左側のは、一つの石に二体の像があり、まん中のものは一
体の神像があって、いちばん右側は、前が割れて小さくなっていま
す。

 この割れてしまった神像が、大道祖神(オオザイノカミ)だとい
い、イポ取りに効験ある道祖神なのだそうです。この神に願をかけ
るには、まず荒縄でこの像をしばり、イポがとれるとほどいてやる
のだといいます。つまり、神さまをおどかして願いをかなえさせる
わけです。

 あとの二神も風化していて、文字が読めません。地元の人たちに
開いても、はっきりしません。いろいろ調査、研究している人の話
では、ほかの二神は「水神」と、カイコの神の「蚕影山」ではない
かという説もあります。

……………………………………

■(13)丹沢湖の神仏

 丹沢湖ダムサイト入り口の南側小尾根の見晴台近くに、神尾田神
社があります。神社わきの小道には石祠や石仏が並んでいます。

 山ノ神、馬頭観音、庚申など、割れた所を補修されたりしてたた
ずんでいます。ダム工事で丹沢湖ができる前、水没する地区から移
転したのだろうといわれています。

 この見晴台から尾根続きに、三神峠へ出て、左手車道に下りると、
神縄トンネルバス停です。そこから玄倉へ向かう途中の沢沿いに、
川天狗と白竜神の碑があります。

 川天狗とは、宮天狗、海天狗、川天狗、道天狗などと続く天狗の
一種で、河童に近いものではないかといわれています。そういえば、
口がくちばしの形で、河童の口に似ています。

 白竜は天帝の使者であり、字のとおり、白色の竜だといいます。
水を司るこれらの石碑も、丹沢湖ができる時、水没した集落からこ
こに移されたのでしょう。

 そこからほどなく、玄倉の集落に入ります。この集落の菩提は黄
檗(おうばく)宗実相寺。寛文10年(1670)に臨済宗から改
宗したお寺で、境内には、供養塔、観音像などに並んで青面金剛像
が立っています。

 青面金剛は、もと帝釈天の使者で、顔の色が青い金剛童子。六臂
三眼(ろっぴさんがん)の忿怒相をしていますが、いつか庚申信仰
と結びつけられ、庚申の申が猿と読むことから、「見ざる聞かざる
言わざる」の三猿像が彫られています。

 この供養塔は、その下にニワトリの絵、上部に日月を刻み、右手
に剣や槍を持っている像になっています。

 この玄倉集落から東へ二時間の所にある山神峠。峠の左手に山神
宮と水神宮の石碑が並んでいます。水神は普通、峠などではなく、
沢や池などにまつられるもの。山ノ神と並んでいるのは、このあた
りの谷や沢筋は台風などでよく荒れる所。そのため、安全なこの峠
に合祀したのだろうと聞きました。

 かなり以前の四月はじめ、小学生の息子と山神峠からユーシンへ
と歩きました。総ケヤキ造りという社も朽ちた山神峠から見る檜洞
丸、蛭ヶ岳などが、先日降った雪でまっ白です。峠から先、崩壊し
た山道から次々に飛び出すヤマドリやシカに驚かされました。

……………………………………

■(14)奥山の神仏

 西丹沢の盟主といわれる檜洞丸にも祠があります。祠は東を向い
ており、里宮は麓のある山北町にある「寒田神社」だといいます。

 祭神は、天孫降臨の時に道案内をした「猿田彦命」と、各地の山
ノ神の総元締めである「大山祇(おおやまづみ)神」、そして大国
主命(おおくにぬしのみこと)とも呼ばれる「大己貴命(おおなむ
ちのみこと)」の三柱です。この冬に訪れた時は、どういうわけか、
大山の阿夫利神社のお札が添えられていました。

 丹沢でいちばん高い蛭ヶ岳。別名は薬師岳で、実際に昔、石の薬
師増があったといいます。だから、山頂にあるのは薬師如来の祠か
と思っていたのですが、あれは毘盧舎那(びるしゃなぶつ)仏の祠
で、薬師岳というのは蛭ヶ岳のすぐ北側のピークをいうのだという
説があります。

 ヘェー、そういえば蛭ヶ岳の山名は、毘盧紗那の「ビル」からき
ているともいいます。ヤジウマ根性で、あの説この説、もんな取り
入れてしまうのが、この本の特徴の一つ。学術的でないのが、気楽
なところです。

 最近、祠が壊れて心配していましたが、補修されたのを見てホッ
としています。この祠のわきにも、「御岳山」「八海山大神」「三笠
大神」「一山霊神」などと書かれた石碑が、草の中に埋もれていま
す。

 丹沢主脈縦走の末端である焼山。その山頂近くに三つの石碑が建
っています。ここはいまでこそ津久井町になっていますが、以前は
鳥屋、青野原、青根の旧三村の境界で、入会地になっていました。

 山仕事の村境となれば、とかく紛争がつきものです。その上、境
界争いからくる失火からか、たびたび火事があり、山の名前にまで
なるしまつです。

 このため、三つの村は「なんとかすべェ」と話し合った結果、境
界をはっきりさせるため、それぞれの村がそれぞれの祠を建てるこ
とにしました。

 この祠は、三つとも「境界権現」をまつり、青根社は青根のほう
を、鳥屋社は鳥屋のほうを、青野原社は青野原のほうを向いていて、
これを建ててからあまり火事はなくなったといいます。この神さま
は、いっぺんに三つの家持ちになったというわけです。

……………………………………

■(15)箒沢の箒杉

 天に向かってまっすぐ伸びるスギ。巨木になったスギは、何とな
く神さびた感じがし、ご神木として祠をつくったり、しめ縄を張っ
たりします。

 スギの木そのものを神としてあがめる、杉山神社、大杉神社もあ
るほどです。スギとはスグ(直ぐ)の意味で、スクスクとまっすぐ
伸びるからだと聞いたことがあります。

 ここ山北町箒沢の西丹沢バス停近くの箒杉は、樹齢二千年(実際
は7,800年から1,200年くらい?)ともいわれ、木の高さ
45m、根本の周囲12.5m、目通り幹囲10.5mという、ま
さに巨木。

 その昔、あまりのみごとさに、関白禁令によって伐採を禁じられ
たそうで、周囲から宝木(ほうき)と呼ばれたのがいつか「箒」の
字をあてられ、箒杉になったということです。

 箒杉にはしめ縄が巻かれ、根本には祠や鳥居が建てられ、まさに
杉神です。近くに、熊野権現社や稲荷の祠も建てられています。

……………………………………

■(16)善波峠の石仏

 大山から南に派生する尾根を便宜上、大山南陵と呼んでいます。
蓑毛越から浅間山、高取山を過ぎてしばらく、善波峠という切り通
しがあります。

 かつてここは、江戸赤坂から三軒茶屋を通り、多摩川、相模川を
渡り、足柄峠に至る東海道の脇往還。参勤交代の人馬でにぎわい、
大正時代まで県道として利用された所。

 いまは、峠に馬頭観音や道祖神などがひっそりと並んでいます。
昔、馬が交通や農作業に、大切な労働力でした。大住軍団が坂東に
設置されてから、また、箕輪駅があったころは、農家の人が馬を引
き、交代で役に服したといいます。そんなことから、家族同様に苦
楽をともにした愛馬を供養するため、こんな峠に馬頭観音を建立し
ました。

 以前は、この峠の近くに大きなエノキの木があって、その下に茶
屋がありました。また、数基の地蔵さんが立ち、その上にある石の
灯籠の御夜灯が旅人の道標になって、安全な旅を見守っていたとい
うことです。

……………………………………

■コラム 丹沢の修験道

 丹沢ではあちこちに、修験にちなんだ山や伝説があります。

 修験道とは、山岳に入って修業し、超能力を身につけ、山の霊や
モロモロの神をも操作する力を体得しようとする宗教。飛鳥時代の
役ノ行者(役小角)は、修験道の開祖だといわれています。

 平安時代になり、修験道がますます盛んになるにつれ、修業地を
中心に組織化されます。和歌山と三重県南部の熊野を拠点とする天
台系本山派と、奈良県南部の金峰山(きんぷせん)を拠点とする真
言系当山派がそれです。修験者とは、その験を修めた者をいい、山
伏とも呼ばれます。

 丹沢では、大山と日向薬師に拠点を置く大山修験と、愛川町の八
菅(はすげ)山光勝寺を中心とする八菅修験の二つの系統がありま
した。大山修験は丹沢の奥深く入って修業しましたが、八菅修験の
奥駈(おくが)は、大山三ツ峰を越え、大山まででした。江戸時代
になって大山修験は真言宗三宝派、八菅修験は本山派に属するよう
になったということです。

(第5章 終わり)

……………………………………………………………