第3章 麓のはなし

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この章の目次
 
 ・(1)大山登山口 ・(2)表尾根登山口 ・(3)表丹沢登山口
 ・(4)雨山峠登山口 ・(5)大山三峰登山口 ・(6)東丹沢登山口
 ・(7)西丹沢登山口 ・(8)丹沢湖周辺 ・(9)丹沢南部登山口
 ・(10)丹沢北部登山口 ・(11)大室山周辺登山口

 ・コラム「丹沢の山小屋」

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■(1)大山登山口

 都心に近くて交通も便利な丹沢は、休日には大勢のハイカー、登
山者で登山基地はにぎわいます。そこで、このコーナーは登山口の
集落のおはなしです。

<大山登山口>

 大山といえばまず伊勢原から登ります。伊勢原とは伊勢国(いま
の三重県)にちなむ地名です。江戸時代初期の元和六年(1620)
に伊勢国の住人が、いまの伊勢原三丁目にある千手ガ原あたりを開
墾し、伊勢の大神宮を勧請して村をつくったのが起源とといわれま
す。

 明治22年(1889)近隣の村々が合併して伊勢原町になり、
その後も合併を繰り返して昭和46年から市制を施行しました。

 終点の大山ケーブルでバスを降りると、登山口、その名も大山地
区です。地名は「諸山の中でも高嶺の地であったことにちなむ」と
江戸時代の風土記にも出ています。

 平安末期のころ、相模国大住郡糟屋荘の糟屋氏の一族である大山
氏が、ここに定住したらしいともいいます。大山地区には木地屋集
落で、まいやげ物の大山こまは有名です。このあたりは材料のミズ
キの木がたくさんあり、木地師の仕事場としては適地とか。

 このこまは、江戸中期から盛んにあった大山信仰と結びついて発
達し、昭和初期には30軒以上もの木地屋があったということです。

 2,3年前、民族の会の見学会があり、大山こまの工房を見学し
ました。こまづくりの実演を見ながら、こまの名の由来、かんな棒、
それを支えるウマのはなしなどを聞きました。が、さっき昼食をと
った阿夫利神社社務所にあった、全国から届けられたという二千本
もの日本酒が頭にちらつき、こまどころではなかったことを思い出
します。

 関東ふれあいの道が通っている厚木市七沢も、大山、日向山、鐘
ヶ岳への登山口。大釜弁財天近くの岩場は岩登りのゲレンデです。

 七沢の地名は、この地域に七つの沢があるからついたとか。南北
朝時代から戦国時代には、もう七沢村の名があったといいます。

 ここには七沢温泉、広沢寺温泉があり、嘉永二年(1849)に
鉱泉を発見したときも、大昔、傷ついたヘビが入浴しているのを見
て薬効を発見したという話も残っています。

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■(2)表尾根登山口

 いつもにぎやかな表尾根。シーズン中はヤビツ峠までバスが入り、
たくさんのハイカーを運びます。その最寄り駅が秦野駅です。

 秦野も古い地名。すでに平安時代に「幡多野郷」の名で、相模国
余綾(よろき)郡七郷の一つ記録があるとか。その後、この幡多野
郷を中心に荘園化し、「波多野荘」ができます。

 それを本領としていたのが代々の波多野氏。この部族は、いまの
蓑毛の南側、寺山あたりに居を構え、そのルーツは藤原経範といい、
平将門を討った藤原秀郷の子孫だと伝えます。

 この波多野荘に属する村々は、蓑毛、小蓑毛、寺山、菩提、堀山
下、渋沢など23ヵ村で、江戸後期の天保六年(1835)の渋沢
村、横野村の地誌書上帳には「波多野荘」「秦野荘」と書かれてい
るそうです。

 明治になって小田原県、佐倉県など、あっちこっちに属しました
が、明治22年(1889)の市制町村制によって大住郡秦野町に
なり、昭和30年、町村合併でいまの秦野市になったということで
す。

 一日一往復のヤビツ峠へのバスが利用できるない時、登山口にな
るのが蓑毛です。大山登山口でもある蓑毛にはこんな伝説がありま
す。

 その昔、日本武尊が足柄峠を越えてこの地を訪れました。ある日、
地域の様子を調べようと大山に登ったところ、突然の雷雨にみまわ
れました。

 尊の身を案じた村人は、大急ぎで新しいワラで蓑と笠をつくり、
迎えに行きました。喜んだ尊は「以後、この郷をミノゲというべし」
といったのが地名の起こりというもの。 

 蓑毛が初めて文献に出てくるのは「吾妻鏡」。平安末期の養和元
年(1181)、平井紀六が工藤景光によって「相模国蓑毛辺」で
生け捕られたというものです・

 室町時代には大山寺護摩堂の造営料所となっています。また、バ
ス停近くの大日堂境内の地蔵堂には、愛甲郡愛川町八菅山来山した
役小角(えんのおづぬ)が、開眼供養して空に投げた時、ここに落
下したという延命地蔵があります。

 ミノゲの地名については、ミ(水)のクエ(崩壊地)がその語源
だという説もあります。ここは金目川の水源地帯、よく襲われたで
あろう、山津波からきた名前だというわけです。

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■(3)表丹沢登山口

 小田急渋沢駅で降りた登山者は、ほとんどがバスで大倉に向かい
ます。鍋割山、塔ノ岳、水無川の沢登りの人たちの出発点です。

 丹沢へ行く人には、本当におなじみの渋沢。室町時代からあった
村だそうで、かつて雑木が生えた沢(柴沢)を開拓してできた村。
シバがなまってシブになったといいます。

 また・室川沿いの両岸が追ったしぼんだ地形「しぼ沢」説、また、
シプガキの産地だから、そしてまた、鉱物性染料の渋を含んだ沢が
流れるからだという説などがあります。 バスの終点大倉です。沢
登り用のワラジ、杖、バッジや食料品の売店が並んでいます。

 このあたりは秦野市堀山下という所。南北朝の貞治年間(136
2〜68)ころからの村で、当時は堀山影と書いて「ほりやました」
といっていたと、古い記録があります。それがいつしか堀山下とい
う字をあてるようになりました。

 また、大倉尾根の堀山の付け根にあたるところからきたという説
もあります。昔、山仕事で入る山は当然ながら堀山です。堀山は、
渋沢、堀川など5ヶ村が共用する入会山。村々の暮らしを左右する
入会権をめぐり、過去に何回かの紛争があったともいいます。

 江戸時代、ここいら一体が金沢藩主米倉丹後守の領地だった時、
殿さまの米を入れる大きな倉が建っていました。村人はそこを大倉
と呼び、ついに地名になったといいます。

 また、木地屋に多い「小掠さん」という姓にちなんだものだとか、
いやいや、クラは谷川岳の一ノ倉のように、岩とかガケのことで地
形からきているのだと諸説が紛々としています。

 登山者はそんなことにおかまいなく、そそくさと急ぎ足で山道に
消えていきます。

 葛葉川本谷の沢をやる時、入山口になるのが菩提集落です。民家
をぬうようにして桜沢橋へ向かいます。

 菩提とは舞台のなまったもの。その昔、精霊送りの時に歌舞が行
なわれ、舞台がかけられたといいます。また、山伏が修行を終えて
出てくる所を菩提門ということにちなむという説もあります。地名
にはいろいろ深い意味があるものです。

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■(4)雨山峠登山口

 丹沢南部と西丹沢への登山者が電車を降りる小田急新松田駅とJ
R御殿場線松田駅。箱根の明神ヶ岳、、明星ヶ岳へ登る人たちも合
わさり、にぎわいます。

 松田郷の名も古く、最初の記録はあの「吾妻鏡」治承四年(11
80)、源頼朝の挙兵に応じなかった波多野義経は、頼朝が自分に
追手を向けたのを知り、「松田郷」で自殺したというものです。

 その長子有経は、一時、頼朝から松田郷を与えられた大庭景義に
預けられましたが、のちに松田氏を名乗り、鎌倉御家人の列に加え
られるのだそうです。

 駅前の松田惣領の地名は、この一族の惣領(跡取り)が管理した
所で、隣の松田庶子は、その庶子の所有した地なのだそうです。終
点寄は「やどろぎ」と読むのだそうです。

 明治八年(1875)、近くの菅沼、弥勒寺、中山、土佐原、宇
津茂、大寺、出沢の七ヵ村が合併してできた村です。

 この七ヵ村は、雨山から秦野峠、高松山へ続く山稜の東側にある
というので、昔は東山家入七ヵ村と呼んでいました。

 その中の弥勒寺地区に伝わるおはなしです。昔々、村の上空を白
馬がゆっくり飛んでいきます。驚いた村人が大勢であとをつけてい
くと、白馬は村の北西にあるシダンゴ山にフワリと降り立ちました。

 村人たちが息を切らせながら登ってみると、なんと白馬には後光
をさした弥勒菩薩(みろくぼさつ)が乗っているではありませんか。
村人は伏し拝み、、弥勒堂を建てて鎮守とし、名前も弥勒寺村にし
たということです。

 そんなはなしを聞いて、、ある秋、シダンゴ山に寄ってみました。
なだらかな山頂はカヤが茂り、手入れした中央広場に石の小祠がポ
ツン。もしかして弥勒さまをまつってあるのかも。

 なお、宇津茂の北側にある稲郷は、かつては弥勒寺村んの飛び地
だったそうです。このあたりの道路わきにあるアジサイは、色変わ
りのめずらしい花。茎先を失敬し、大事に庭にさしてみましたが、
とうとうつきませんでした。

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■(5)大山三峰登山口

 大山三峰山への登り口は清川村煤ヶ谷です。この村は昭和31年
に旧煤ヶ谷村と、同じく宮ガ瀬が合併してできた村だとか。村内を
流れる中津川が清い川だというのが村名の由来。

 煤ヶ谷は、、昔は「すすがき」といい、永暦年間(1160〜6
1)に、藤原姓の山内首藤系の毛利太郎景行が屋敷を構え。「すす
がき小屋」と呼んでいたという記録があります。

 その後、鎌倉幕府創立に功あった大江広元の領地となり、四男季
光は、ここが毛利荘にあたることから毛利氏と称します。この大江
姓毛利氏がのちの戦国大名名毛利氏として発展していきます。

 さて、「すすがや」の文字が最初に現れるのは南北朝時代。至徳
年間(1384〜87)ころの記録に「相州須々萱」と出てきます。
煤ヶ谷は、昔から材木の搬出と炭焼きが盛んで、その炭は「白炭」
と呼ばれ、戦国時代から小田原北条氏に上納していました。小田原
北条三代目、氏康の時の天正十六年(1588)、御蔵林木課役の
朱印状にも「すすがやむら」の文字が見えます。

 江戸時代になると、煤ヶ谷の炭は、江戸城御用達になり、丹沢は
幕府直轄の御林として厳重に保護され、もちろん煤ヶ谷村は幕府領
となります。樹木の伐採はご法度で、一枝折れば一指切られるとい
う厳しさでした。

 この丹沢御林の警備は、煤ヶ谷村などの村人の役目で、定期的に
札掛まで見回りに行ったのだそうです。そんなことから、人馬課役
を免除され、月俸も賜ったといいます。

 また、慶安四年(1651)の由井正雪による幕府転覆陰謀事件
(慶安の変)の時、その残党、渥美次郎右衛門、芝原亦右衛門ら四
人が、ここまで逃げてきて捕まり、村人は褒章として米三百俵と、
鉄砲四十二丁を許可されたはなしも残っています。

 ある年の暮れ、宮ガ瀬から煤ヶ谷あたりを歩きました。北から上
煤ヶ谷、中煤ヶ谷、下煤ヶ谷と点在する集落。ひっそりと石仏がた
たずんでいます。そういえば、法論堂(おろんど)、曲師宿(まげ
しやど)、古在家(こざいけ)など変わった名の集落が多く、興味
津々です。

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■(6)東丹沢登山口

 仏果山への基地、愛川町半原。半原は戦国時代からの地名で、集
落の半分が原っぱなので半原。また、半分がバラ(茨)山だから、
いや榛(はん)の木が多い原で榛原。それがなまって半原になった
といいますが、本当は開墾に適した地をハシバといいその原っぱ一
ハシバ原が語源だろうといわれています。

 半原は古くから撚糸工業の街として有名で、かつては「半原撚糸」
の名で絹織物、絹撚糸がつくられていましたが、いまでは合成繊維
撚糸が盛んで、とくにミシン糸、仕付け糸などの撚糸部門は全国産
高の70%を占めているのだそうです。

 半原バス停から西へ歩いて30分にある石小屋と呼ばれる所は、
中津川のV字谷の美しい渓谷。清流と山の緑、巨岩群で観光地にな
っています。江戸時代から半原村といいましたが、明治22年(1
889)、愛川村に編入され、昭和15年から愛川町になりました。
なお、愛川とは、ここを流れる中津川の別称、鮎川の転化したもの
だそうです。

 丹沢三ツ峰から丹沢山への登山口は宮ガ瀬です。宮ガ瀬といえば
ダム。標高155m(堰提411m)の重力式大型ダムとかで、水
量2億トンで箱根芦ノ湖と同じ。昭和44年に建設省が構想を発表、
現在は突貫工事中です。宮ガ瀬の274戸は湖底に沈むため、移転
しました。

 宮ガ瀬は鎌倉時代、永仁2年(1294)の足利尊氏の父貞氏の
書に出てくるほどの古い集落。煤ヶ谷と同じ清川村ですが、辺室山、
物見峠の登り口にあたる土山峠から北側をいっています。

 宮ガ瀬から南へ林道沿いに長者屋敷キャンプ場があります。ここ
が宮ガ瀬の開発人矢口入道信吉の長者屋敷にちなんだ所。

 矢口信吉は、西丹沢城ガ尾峠を越えて甲州へ落ちていった新田義
興の一族。義興の他界後、一族郎党と一人娘を連れて丹沢の山深く
隠れ、御殿をつくって住みました。

 しかし、中津川に流したお椀から、宮ガ瀬の村人に見つかり、鬼
の住処と間違えられ、村人たちに襲われて全滅。一人娘も北側の御
殿ノ森まで逃げましたが、追いつめられて金のかんざしで自害しま
した。御殿森ノ頭にある祠はこの娘をまつったものだそうです。

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■(7)西丹沢登山口

 小田急新松田駅からのバスの終点、その名も西丹沢。登山者は檜
洞丸、大室山、畦ヶ丸と、それぞれ目的の山を胸に自然教室方面へ
車道を歩きます。

 バス停のあたりは箒沢の集落です。その昔、ここは鰐口伊賀守と
いう武士の一族の隠れ里でした。この武士は、平安末期から鎌倉初
期にかけて権力を誇った奥州平泉の豪族藤原秀衡(ひでひら)の家
臣。主家の没落後、山梨県道志村の馬場地区から加入道山と破風口
の間の馬場峠を越え、神奈川県側に下り、箒沢に安住の地を求めま
した。 

 いまは、この馬場峠から道志村大椿へ道が延びていますが、昔は
馬場地区へ通じていて、道志村とは深い交流があり、道志の娘たち
は多く箒沢へ嫁いでいったといいます。

 一方、箒沢から神奈川県側への下流、中川村の村人は、自分たち
がいちばん山奥に住んでいると思っていました。

 ところがある日、中川川で魚を釣っていると、上流から箒が流れ
てきたので、村は蜂の巣をつついたような大騒ぎ。「さては川上に
鬼でも住んでいるか」。村人はおそるおそる正体を確かめにでかけ
ました。

 すると、大きな箒のようなスギの木の下に家が数件建っています。
まぎれもない人間の住む集落です。中川村の人たちは、箒が縁で見
つけたこの村を箒沢と呼び、それから、二つの地区は交流するよう
になりました。

 さて次は、その中川のおはなしです。中川は戦国期から記録のあ
る地名で、明応四年(1495)の北条早雲の小田原城進出にとも
ない、ここ中川領主河村氏も小田原北条の支配下に入ります。

 そして、丹沢山地の村々には、小田原城を守るため、湯ノ沢城、
大仏城、中川城など、北条氏の支城が築かれました。中川には、北
条氏の重臣遠山左衛門尉景政という人が滞在しました。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めの開始時、秀
吉は中川、世附、黒蔵(玄倉)に乱暴を停止の保護をし、この一帯
を掌握しようとしたことが、豊臣秀吉掟書にあるそうです。

 中川村は明治42年(1909)、三保村に編入、昭和30年の
町村合併で山北町になりました。

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■(8)丹沢湖周辺

 西丹沢に広がる丹沢湖。昭和53年に三保ダムが完成してできた
人造湖で、面積2,18平方キ`、総貯水量6490曼立方m。神尾田、
世附、焼津、大仏、玄倉の223戸が水没、1026人が移転しました。

 三保ダムは総工費823億円土質遮水壁型ロックフィル・ダムとか
で、洪水調節、水道用水、発電(最大7千キロワット)の多目的ダ
ムなんだそうです。三保ダムの名前は明治42年(1909)に中
川、世附、玄倉が合併してできた旧三保村からきたものとか。

 丹沢湖の東端はユーシンへの入り口、玄倉です。昔は、黒蔵とも
書き、戦国時代から記録があり、豊臣秀吉の掟書にも登場していま
す。玄倉とは、ここに武田信玄の金山掘り出しの倉、または食糧の
倉があったのに由来するといいます。しかし、ここは小田原北条氏
の支配下で、むしろ武田氏の敵方の地です。ちょっとマユツバか?

 また、玄倉川の上流は深い谷で、こんな所をクロと呼び、切り立
つ両岸の岩を表すクラ(谷川岳の一ノ倉沢のように)をつけたのだ
という説もあります。

 またまた、クロクラは倶廬倶羅(くろくら)で、倶廬は倶留孫の
転化、倶羅は舎利塔の凡語だという説。つまり、この村の内でもあ
る塔ノ岳のお塔は倶留孫の舎利塔で、ここはその村、倶廬倶羅村だ
というわけです。実際、尊仏さんおお祭りには、お参りに行く人た
ちで玄倉の谷はにぎわったそうです。

 丹沢湖の西側は世附です。地元の人は「ゆづく」と呼ぶと聞きま
す。ここも、豊臣秀吉の掟書で、「百姓に当地への還往を命じ、併
せて保護のため乱暴を停止」した所。昭和49年、三保ダムの建設
予定地として集落全体が水没するため移転。代々伝わってきた「世
附百万遍念仏」は山北町向原に受け継がれています。

 ある秋、この丹沢湖一周を歩いてみました。バイクに乗った若者
が大勢、湖畔を何回も競争しています。事故があったのか、所々で
ガードレールがひんまがり、花を供えてあるしまつ。かつては生活
道路であったのか、舗装道路が湖の中へ続き、そのわきにエノコロ
グサが並んでいるのが印象的でした。

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■(9)丹沢南部登山口

 丹沢南部という言い方があるのか知りませんが、高松山、大野山、
不老山あたりをひっくるめてこんな名前をつけてみました。

 このあたりは山北町。酒匂川沿いの集落ということで、かつては
「川村」という地名でした。河村とも書き、鎌倉〜戦国時代の記録
にすでに表れ、あの「吾妻鏡」に「河村郷」と記載されています。

 この郷は、波多野氏の一族河村氏の領地。河村氏は、波多野遠義
の子秀高がここに住み「河村」と名のったことに始まるといいます。

 江戸時代になると、川村山北、川村向原、川村岸という村名がで
きます。河村城の北の村が川村山北、城の向かいの原が川村向原、
河村郷の川岸が川村岸というわけです。

 この川村三村が明治22年(1889)に合併してただの川村に
なり、昭和8年の町制施行で山北町と改名し、さらに昭和30年の
町村合併で、いまのような広い山北町ができたのだそうです。

 いまでも旧川村三村の名残で、山北、岸、向原という地名が残っ
ています。 

 大野山への登り口、谷峨も変わった名前です。もともとここは、
谷ケと書く集落。昔は屋賀とも書き、戦国時代から記録のある地名
だそうです。永禄十一年(1568年)という年紀をもつ谷ケ村向
旗社に「相州西郡刈野庄屋賀村郷……」と書いた棟札があるそうで
す。

 これが江戸時代になると谷ケという字で書かれます。このあたり
は、丹沢山から駿河国への抜け道で、江戸の初期(元和〜寛永年間)
には、箱根関所の脇関所として、小規模ながら「谷ケ関所」、「川村
関所」があったといいます。この谷ケ村も大正12年(1923)、
山市場村、川西村が合併して清水村に。昭和30年、さらに合併し
て山北町になりました。

 ここを通るJR御殿場線は、もとはれっきとした東海道本線。明
治22年(1889)の開通で、山北一御殿場間は1000分の2
5という東海道本線最大の急勾配で、山北駅から補助機関車後押し
をしなければなりませんでした。

 そのため、山北機関区は機関車、職員とも急増、汽車の煙のため、
「山北のスズメは黒い」とまでいわれたそうです。しかし、昭和9
年に丹那トンネルが完成してからは、さびしくなりはじめ、ただの
ローカル線になってしまいました。

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■(10)丹沢北部登山口

 焼山の登山口は、津久井町の西野々や長野です。ここは、青野原
という大字の一部。もともとこのあたりは、江戸時代、河岸段丘の
上に作られた開墾野。そのため、この平地を青野原といい、西を西
野々、東側を東野、また、長野、梶野と「野」が並びます。

 そもそも津久井とは、治承4年(1180)、源頼朝の挙兵に参
加した、相模一円の、領主三浦大介義明が領地の北方警備のため、
弟津久井義行の長子為行を宝ガ峰(通称城山)に配備したのが名の
起こりです。

 戦国時代になり、永正十三年(1516)、三浦氏が小田原の北
条早雲に滅ぼされると、津久井一帯も三浦氏から小田原北条の支配
下になり、津久井城は甲斐の武田氏に備える小田原城の支城になり
ました。

 その後、小田原を攻めた武田信玄は津久井方面へ撤退、北条軍と
の三増合戦を展開します。時代は安土桃山、天正十八年(1590)
の豊臣秀吉の小田原城攻めにともない、徳川家康指揮下の本田忠勝、
平岩親吉やに攻められて落城、津久井は家康の領地になっていきま
す。

 次は姫次方面への基地、青根のおはなしです。この地区も戦国時
代からの記録があり、「役帳」に愛甲郡奥三保日陰之村のうち青根
之村とあり、小田原北条氏津久井なにがしとかの所領役高が記され
ているそうです。

 その後、牧野村、(いまの藤野町)といっしょだったのか、元和
2年(1616)に牧野村から青根村として分村したとあります。

 丹沢の最高峰、蛭ヶ岳の北東山麓の集落は鳥屋(とや)地区です。
ここも、日陰之村のうちの鳥屋之村で、小田原北条津久井衆の所領
として記述のある所。この鳥屋村、青根村、青野原村の三村の境界
争いが多かった所ですが、昭和30年にその他の2村を加えて合併、
津久井町になりました。

 ある年、秋雨に降られながら、宮ガ瀬から鳥屋の御殿屋敷地区の
バス停まで歩きました。ダム工事中とバイパス道路のこともあって、
ダンプカーなどの通行がやたらとうるさい。それでもバス停前の民
家の大きなカキの木がビッシリ実をつけていて、なんとなく山村の
名残を感じさせます。だけど、あの果実の形ではきっとシブガキに
ちがいない。

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■(11)大室山周辺登山口

 大室山、加入道山への入山口は、山梨県道志村です。道志川に沿
ってエンエンと26キロ(6里半)にも細長く、集落がちらばって
いるため、「道志七里」といわれるそうです。

 道志とは昔、明法道(法規や格式を教える所)の大学を卒業した
志(主典)を「道志」といい、倹非違使の下においたといいます。
倹非違使は、平安初期からあった役職で、都の治安を担当する検察
や警察のようなもの。

 この制度がやがて地方にも適用され、ここを治めた倹非違使が土
着し、「道志」を名のったのがもとだろうといわれています。

 その他おもしろい説を二、三。ここは渓谷に沿った集落であるこ
とから、沢筋に道があったという。「沢通し」の転化説。なかには、
この村に入る古道が四つあったので「道四」なのだという説も。な
るほどねエ。

 道志村と山中湖村の境は山伏峠です。山伏峠にはこんなはなしが
残っています。

 ある年、駿東郡村山の生国という山伏が道志川をさかのぼり、い
ちばん上流の集落、白井平、長又にやってきました。

 この山伏がなんとも手におえないワルで、人のものをかすめるわ、
村のオナゴに乱暴をするわ、あげくは放火ときます。しかし、腕っ
ぷしが強いので村人は泣き寝入りです。

 そんなある日、もう我慢はできないと白井平の水越一家と長谷の
一部が相談、手に手にくわやかま、こん棒を持って立ち上がりまし
た。驚いたのは悪法院、こんなはずではと思いつつ、多勢には歯が
たたずとみて、山中湖方面へと逃げ出します。

 しかし、峠の頂上でついに追いつかれ、めった打ち。さすがのワ
ルもついに息をひきとります。村人はなきがらを葬り、法院塚と名
づけ、ここを山伏峠と呼んだのだそうです。

 きょうは正月の2日。菰釣避難小屋をあとに山伏峠に向かいます。
雲一つない空、山中湖とまっ白な富士山。家内が歓声をあげていま
す。湖面の波が白く光っています。

 ピークをいくつか越え、鉄塔のある天寿山から山伏峠へ。峠には
天寿神社の社がポツンと建っています。どれが伝説のワル山伏の法
院塚かわかるはずもなく、鞍部を越えて石割山に向かいました。

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■コラム「丹沢の山小屋」

 丹沢山塊で最初にできた山小屋は、やはり塔ノ岳頂上にある尊仏
小屋です。尊仏小屋は、昭和14年11月、横浜山岳会の手で建て
られ、工事費は当時のお金で4800円ナリ。これをいまのお金に
換算するには七千倍するとかで、ざっと3300万円。

 礎石は塔ノ岳の東側のオバケ沢から手送りで搬出。材木は山の西
側、鍋割沢で製材されました。資金の調達もたいへんで、横浜山岳
会の会員の拠出金のほか、地元の山岳会や有志から募金したのだそ
うです。こうして建てられた小屋も、昭和10年ころになると、屋
根ははがれ、床板や羽目板は心ない登山者に燃やされ、骨組だけの
残がいばかり。

 昭和24年、小田急尊仏小屋ができ、管理人もおくようになりま
す。そして、昭和30年の神奈川国体を契機に、尊仏小屋の隣に県
営尊仏山荘が完成、原小屋平に原小屋山荘、神ノ川に長者舎山荘が
建設されます。その後、尊仏小屋は2回ほど改修、県営尊仏山荘も
昭和62年に建て替えられました。

 

(第3章終わり)

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