『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第18章「弘法山・八菅山・仏果山・三峰山周辺」

………………

▼10:辺室山

 東丹沢にある宮ヶ瀬湖が南東に延びた先の土山峠。この峠から南
に1時間の所に辺室山(644.33m)という山があります。「へんむ
ろさん」というそうです。この山は昔、丹沢東端の八菅山を基点と
して奥駆けをした、八菅(はすげ)修験(大山八菅修験・本山派)
の七宿30ヶ所の峰入修行の15番目の行場。八菅修験は大山までの
修行で、明治のはじめまで続けられました。

 辺室山の行場は、「児ヶ墓」といい、崇拝対象は「児ヶ墓天童」
というものだったという。『山岳宗教史研究叢書8』にも、「八菅一
山は、聖護院門跡直属の本山派修験。修験者たちは八菅山を出て、
大山に至る山々で峰入修行をするとともに、近くの村々の信者の祈
願などの依頼に応じていた。修験者たちがまわる30ヶ所の行所は、
(1)八菅山禅定宿、(2)幣山荼吉尼天岩屋(荼吉尼天神、倶利
加羅明王、毎年三月七日に修験者がここの秘水を用いて灌頂(※か
んじょう)の儀式を行ったという)。……。

 そして、(15)児ヶ墓(児ヶ墓天童、入峰の時稚児を葬ったとの
伝承がある)(※ここが辺宝山です)。……さらに、(29)大山寺本
宮、雨降山。(30)大山寺白山不動(大山不動堂をさす)」で終わる
と出ています。ここ(15)「児ヶ墓」には、修験者が修行のための
入峰の時、稚児を葬ったという伝承があるようです。


 『修験集落八菅山・愛川町文化財調査報告書』にも、「児ヶ墓天
童、十五番、児子墓尊勝陀羅尼一巻、光明真言我々祖師七世父母二
十五有、迷闇照明頓証仏果得見心宝」と載せています。また、江戸
幕府編纂の地誌『新編相模國風土記稿』に、「○邊寶山(倍無保宇
佐牟)同方(三ッ峯、惣久山)の連山なり、山上に兒塚と呼るあり
(2行書き・塚上に四圍許の松樹あり、古(※いにしえ)大山修験
入峰の時、兒を葬りし所と云)」(巻之五十八・村里部・愛甲郡巻之
五・毛利庄)と記し、辺宝山(倍無保宇佐牟・へむほうさむ=へん
ほうさん)と読ませています。

 この辺宝山(へんほうさん)のほうの「宝」がいつしか「室」に
変わって「へんむろさん」と呼ばれるようになったのだという。こ
の行場について地元出身の千葉政晴氏は辺室山について、「山頂西
方の草むらの中に墓が五基ばかり苔むして在る」(「あしなか第77
輯」山村民俗の会)ともあります。こんなことから「辺宝山」・「児
ヶ墓」は辺室山(644.33m)のことだと思いますよね。

 ところが児ヶ墓の行場を、地元の人はチョウガヅカ(稚児ヶ塚)
というそうで、そこは辺室山頂ではなく、物見峠北北西720mのコ
ブからヘンムロ山の方へちょっと下がったあたりらしいという説が
あるのです(『丹沢記』吉田喜久治氏)。地形図で見ると、物見峠か
ら登山道を北方へ行き、等高線720mのコブ(台地)から東へ曲が
り下ったあたりらしい。


 『丹沢記』によれば、「あしなか第77輯」の「草むらの中に墓が
五基ばかり」について、辺室山の苗の植え付けの仕事をしている人
に訊ねたところ、墓は一つしかないという。さらに考察した結果、
八菅(はすげ)修験の第15行場「児ヶ墓」と、『新編相模国風土記
稿』にある「児塚」、さらに土地の人のいう「チョウガヅカ(稚児
ヶ塚)」の三つは同じもの。したがって、これらは辺室山頂にある
のではなく、物見峠北方のコブ(台地)を曲がり下ったあたりだと
しています。

 さらには「ヘンムロ(辺室山)のムロは「ムレ」ではないかと思
う。ヘンは辺、かぎり、はて、かたより。どっちでもいい。まさに
「ヘン」の「ムレヤマ」である」と結論づけています。


 ちなみに辺室山の南西の物見峠はかつて、宮ヶ瀬、煤ヶ谷、札掛
へと結ぶ間道が通っていました。これは江戸期幕府領であったこの
山周の辺地域の木材や木炭の運搬路だったそうです。辺室山の山頂
付近は杉やヒノキの樹木に覆われ、三等三角点がポツンと置かれて
います。

 展望はあまりなく鹿から植林を守るため、金網の柵がつづいてい
ます。登山者が少なく静かです。こんな山を山伏たちは大山をめざ
して回峰巡業を重ねていたのでしょうか。


▼辺室山【データ】
【所在地】
・神奈川県愛甲郡清川村。相模線相武台下駅の西12キロ。小田急
小田原線厚木駅からバス。土山峠下車。歩いて1時間15分で辺室
山。三等三角点(644.33m)がある。
【位置】
・三等三角点:北緯35度29分23.97秒、東経139度15分17.58秒
【地図】
・旧2万5千分1地形図名:厚木

▼【参考】
・「あしなか復刻版3」:「あしなか・第77輯」(山村民俗の会)1962
年(昭和37)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわ山紀行』植木知司(神奈川新聞社)1991年(平成3)
・『山岳宗教史研究叢書8・日光山と関東の修験道』宮田登・宮本
袈裟雄(みやもとけさお)編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書17・修験道史料集(1)』五来重(ごらい
しげる)編(名著出版)1983年(昭和58)
・『修験集落八菅山・愛川町文化財調査報告書』慶應義塾大学文学
部宮家準研究室(愛川町教育委員会)1978年(昭和53)
・『新編相模国風土記稿』巻之五十八・村里部・愛甲郡巻之五・毛
利庄:『新編相模國風土記稿』第三巻(大日本地誌大系21)蘆田伊
人校訂(雄山閣)1980年(昭和55)
・『丹沢記』吉田喜久治(岳(ヌプリ)書房)1983年(昭和58)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

▼10:辺室山(終わり)

…………………………………

 

目次へ戻る
………………………………………………………………………………………………………