『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第18章「弘法山・八菅山・仏果山・三峰山周辺」

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▼08:華厳山

 東丹沢仏果山の南方、半原峠をを越えて経ヶ岳、華厳山(けごんや
ま)、高取山とならんでいます。そのなかの華厳山は、昔、弘法大師が
「華厳経」というお経を写し納めたことにちなむ名といわれています。大体
昔は、かつてはこのあたり経ヶ岳を含む一帯を「華厳山」と呼んでいたた
め、古書にも混同された記述が目につきます。しかしお経を納めた山な
ら北にある経ヶ岳になります。

 例によって江戸時代、天保12年(1841)に編纂された相模国の地誌
『新編相模国風土記稿』を引き合いに出します。その巻之五十八、飯山
村の条に、「華厳山 (村の)西北ノ界ニテ、煤ヶ谷、上荻野二村
にも跨レリ。名義ハ上荻野村松石寺、及煤ヶ谷村ノ条ニイダセリ」
とあります。

 そこで上荻野村松石寺の条をみると、「松石寺 華厳山と號す、寺
伝に空海華厳経を書写し、寺後西山の頂石函の蔵め(経石と名づく)当
寺を建立して華厳山乗碩(せき)寺と号し密宗の律院とす」。また、煤ヶ
谷村の条には、「華厳山 往古役行者華厳経を比所の石櫃(2行書き:
此石仏果山と当山の界にあり、経石と呼ぶ、按ずるに、上荻野村松石寺
の傳へには空海経を納めしと云、)に納む、依って山名とせりと云、又此
山上に子種石と云あり」とあります。ここでは「華厳経」を写したのは空海
のほかに、役行者も出てきます。


 さらに華厳山の北ろく、中津川沿い愛川町田代に、勝楽寺というお寺
があります。この寺は、上記『風土記稿』に出てくる古い寺。同書田代村
の条に、「相伝フ弘法法華経写書ノ旧跡ナリ。サレバ寺後ノ山ヲ法華峰ト
唱フ。他ノ傳ヘニハ華厳経書写ノ旧跡ニシテ。華厳山ト唱フ」と記述。
昔、弘法大師空海が法華経を写経した霊場で、背後の山をそれにちな
んで法華峰(ほっけほう)と呼んだとあります。また2行書きしてあるように、
ほかの言いつたえとして、華厳経を書き写して華厳山といったともありま
す。法華経を写したか、華厳経を写したか、2つの説があるようで混乱し
ています。

 大正14(1925)年発行の『愛甲郡制誌』にも、「相傳ふ弘法大師法華
経書写の旧跡である」としています。このように法華峰、経ヶ岳、華厳山
と、いずれも写経にちなんだ山名だとしても、さまざまな記述があって迷
います。しかし、各文を総合すると、つまるところ華厳経の納経による山
名とみるのが妥当ではないかと、『かながわの山』の植木知司氏はいって
います。

 さて、先の『風土記稿』の中に、子種石(こだねいし)の文字が出てき
ます。子種石は、蚕の卵が孵(か)える時季になると、石の色が青みがか
るという。「あしなか第80輯』(山村民俗の会)に、「子種石の伝説は、
山ろく各村に語られて、いまでも蚕種石として信仰されている。
このような例は各地にあるが、中央線の四方津駅の東北、松留(ま
つとめ)の境に蚕子(こだね)岩があって、この岩は常は黒色な
れども蚕子を温める頃になると、青みたること蚕子の始めのごと
し、すこぶる奇巌なりと「甲斐国志」に記されている」という。


 「華厳山の子種石は八菅山伏の第9番目の行場で、熊野権現の
奥の院に擬され、千手観音をまつるといわれている。第8番の行
場、経石を陽、子種石を陰として信仰した形跡がある」という。
また『日光名所図会』に、「子種石。酒泉の西に在り、俗説に子な
き女この石に祈れば、果たして効験ありといえり。よって子種大
明神と云ふ。この石高三尺、長五尺程」と記述。山梨県の地誌『甲
斐国志』に、「陰石 大石ノ社の東田中ニ在ル巨石ナリ其ノ形女陰ニ
似テ真ニ逼ル、土人陰疾を祈レバ験アリ、賽スルニ一褌ヲ以テス姥神ト
称ス」というのも子種石らしい。

 一方、華厳山の南西ろく、煤ヶ谷には「七不思議」の伝説があります。
その6番目の「おとぼうが淵」の話です。オトボウガ淵というのは、旧土山
峠の近くの川音川にあった淵。この川は、宮ヶ瀬ダムへ向かって土山峠
を越えるあたりの左手にありましたが、いまはダムの沈んでしまったそうで
す。

 昔、煤ヶ谷に釣りの名人といわれる爺さんがいました。爺さんがある
日、ヤマメを釣りながら川を遡っていくと大きな淵につきました。すでに夕
方になっていました。早速、糸を垂れるとおそろしい手応え。やっとでつり
上げてみると4尺もある、まるでサケのような大きなヤマメが釣れました。
爺さんはこれをカゴに入れて背負い、家に帰ろうと土山峠を登っていきま
した。すると背中のカゴのなかで、突然ヤマメが叫びはじめたのです。


 「天狗坊(テンゴウボー)や、オトボウはいま仏坂を背負われて行くぞ
ォ」。「……」。驚いた爺さんはカゴを放り投げて、一目散に家に逃げ帰り
ました。放り出されたカゴから外に出たヤマメは、たちまち仏の像に変わ
り、坂道を転がっていきました。そしてオトボウ淵へポチャッと落ちたとた
ん、仏像はこんどはヤマメの姿になったという。

 それからはその坂を「仏坂(ほとけざか)」といい、その淵を「オトボウヶ
淵」というようになり、長い間、ここで釣りをする人はいなかったということで
す。ヤマメはこの淵のヌシで、また古巣の淵に戻ったのだろうと村人はい
いあったという。ちなみに天狗坊(テンゴウボー)とは、いまの相模原市の
相模湖畔の青田地区に伝わる青田の天狗坊と呼ばれる大ヤマメの名。
オトボウ淵のヌシ、オトボウは相模湖のヌシ、天狗坊(テンゴウボー)に助
けを求めたのでしょうか。


▼華厳山【データ】
【所在地】
神奈川県厚木市と愛甲郡清川村との境。小田急小田原線本厚木駅から
バス半僧坊前下車。約2時間で山頂。標高点・602m。

【位置】
・標高点:北緯35度29分59.73秒、東経139度16分47.62秒

【地図】
・2万5千分の1地形図:厚木

▼【参考文献】
・『愛甲郡制誌』愛甲郡教育会編(出版:愛甲郡教育会)1925年(大正
14)
・『あしなか復刻版・第1冊』:「あしなか20輯」(山村民俗の会)1950年
(昭和25)
・『あしなか復刻版・第4冊』:「あしなか第80輯』(山村民俗の会)1981
年(昭和56)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11年):(「大日本地誌
大系」(雄山閣)1973年(昭和48)所収
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『新編相模国風土記稿3』(大日本地誌大系21)校訂・蘆田伊人(雄山
閣)1980年(昭和55)
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成元)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

▼08:華厳山(終わり)

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