『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第13章「畦ヶ丸−菰釣山」

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▼09:菰釣山

首都圏でも比較的静かな山歩きが楽しめる西丹沢の菰釣山(こもつ
るしやま)。変わった名前の山です。昔は山麓の村では、山は木材
伐採や炭焼き仕事など生活に密着した入会(いりあい)の場でした。

菰釣山のあたりの山林はよい木材ができ、かつては小田原北条氏の
命令で城のある小田原に運搬されていたともいいます。

こんな良質材の産地ですから、江戸時代になると「御木」となって
幕府の保護を受けるようになり、また明治には御料林に指定されま
す。


このような山林ですから、甲斐(山梨県)側、相模(神奈川県)側
とも自分の統治下にしたいところ。互いに領有権を主張し国境争い
が絶えません。両国境間に連なる国境尾根の所有権争いは千年にも
及んだそうです。

とくに天保12(1841)年の相模・甲斐間の国境権争いでは、甲州・
平野村の名主・長田勝之進が江戸幕府に告訴。裁定が下りるまでの
期間、菰を吊るして山頂にこもり生活したという。


裁判の結果は平野側が敗訴、丹沢を取り巻く神奈川県、静岡県、山
梨県の現在の県境が決定したといいます。

また戦国期、武田信玄が小田原城を攻めた時、進軍の信号旗やのろ
しのかわりにこの山に菰を吊るし、むしろばたで味方の軍に合図し
たとのいい伝えもあります。

菰釣山の名の通り山名の由来はやはり菰(むしろ)に関係している
ようです。


▼【データ】
【山名・地名】・こもつるしやま・こもつりやま
・【異名、由来】:江戸時代、甲斐国と相模国との国境争いで甲州・
平野村の名主が幕府に告訴したとき、菰を吊るして山頂にたてこも
り生活した。また戦国時代に武田信玄小田原城攻めの時、この山に
菰を吊るしむしろばたで進軍などの合図したとのいい伝えから。道
志側ではブナノ丸・大丸尾(山容が丸みを帯びているため)の名も
ある。四季を通じ、雲や霧に覆われがちなことから雲吊山がなまっ
たとする説あり。

【所在地】
・神奈川県足柄上郡山北町と山梨県南都留郡道志村との境。富士急
行十日市場駅の南東11キロ。小田急新松田駅からバス、西丹沢から
畦ヶ丸経由で6時間20分で菰釣山。写真撮影による標高点(1379m)
とベンチと反射塔がある。三等三角点(1348.2m)は山頂から南直
下の薮の中にある。地形図上には山名と標高点記号とその標高、三
角点記号とその標高のみ記載。山頂標高点より南方向直線約210m
に三角点がある。また山頂標高点より北東方向直線約700mに避難
小屋がある。


【位置】
・【山頂標高点】緯度経度:北緯35度27分49.36秒、東経138度58
分42.55秒(電子国土ポータルWebシステムから検索)

・【三等三角点】緯度経度:北緯35度27分42.54秒、東経138度58分4
2.94秒(電子国土ポータルWebシステムから検索)
【地図】・2万5千分の1地形図「御正体山(甲府)」。5万分の1地形図「甲
府−山中湖」


▼【参考】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)

▼09:菰釣山(終わり)

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