丹沢・山のはなし(加筆)
11:同角山稜-玄倉

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▼03:玄倉川周辺(諸士平・女郎小屋沢・小川谷金山伝説)

 満々と水をたたえる丹沢湖にそそぐ玄倉川。上流の東北、ユーシン方
面へたどります。ユーシンのわずか手前の左岸に、平坦でやや広い場所
があります。ここを諸士平(しょしだいら)というそうです。諸士とはもちろん
「諸々の武士」。

 江戸時代も後期、安政のころ(1854〜1860)、紀州の15人の浪人た
ちが、幕府転覆を企てましたが失敗したことがあったという。その時浪人
たちは、ここ玄倉川上流にまで逃げてきて隠れ住みました。

 しばらくは山仕事をしながら、時節の到来を待っていましたが、幕府に
大政奉還を求める戦争が勃発すると、いずこともなく去って行きました。
その後の浪人たちの消息は不明とのことです。


 丹沢には武田信玄の金山伝説が多い。玄倉川から北へ分かれる小川
谷、その支流東沢にも金山があったという。ただ、ここは北条氏の支配下
で、敵対する武田信玄の隠し金山があったとは、どうも信じられません。し
かしながら、江戸時代に小田原藩主、稲葉美濃守正則の『永代日記』
(寛永18年〜天和3年)という古文書に、「延宝元年(1673)七月二十二
日西部玄倉山出産銅吹分方糸屋庄市郎へ時服下賜うんぬん」とありま
す。

 さらには、『大岡越前守忠相(ただすけ)日記』にも、元文5年(1740)
玄倉山銅山の銅を使い、吉田島銭座(神奈川県開成町吉田島)で、銭
貨を鋳造したとあります。このふたつの記述から、ここ小川谷上流からは
金や銅などが出たことは確かなようです。

 その上、地元「さがみの会」の栗原祥氏は、昭和40(1965)年ころ現
地の東沢で、鉱山の廃鉱を見ており、「これはその4、5年前まで東京の
建設会社が採掘していたあとらしい」。実際に金を掘っていると作業員か
ら聞いたことがあるそうです。


 その鉱山で働く鉱夫相手の女郎小屋があったとするのは、玄倉川仏
岩ちょっと下流にそそいでいる「女郎小屋沢」。このあたりには、先の信玄
の隠し金鉱で働く鉱夫相手の女郎衆が住んでいる小屋があったかららし
い。

 はなやかな女郎衆の小屋話ではありますが、ダムができる以前の玄倉
川は、「関東黒部」とか、「丹沢黒部」などと呼ばれるような厳しかったとこ
ろ。とても女郎衆が住むには無理のようです。あれやこれやで、ユーシン
の名づけ親とされる小宮兵太郎氏の、そこには測量小屋があったという
言葉から、測量用語の丈量(じょうりょう)を当てはめた説があります。

 丹沢に精通している吉田喜久治氏は、『丹澤記』のなかで、「友人と雑
談中、「ジョーリョー増」、「ジョーリョー減」の言葉を聞き、確かめたところ、
地積の測量用語と分かった」と、「丈量小屋沢」が「女郎小屋沢」に転化し
たのだとしています。

 これについて前述の栗原祥氏は、「測量小屋といわず、あえて専門用
語の「丈量」を使ったということに、若干の無理を感じないでもない」。と首
をひねります。そのほかに「明治の初めころ、山北の某が女郎を身受けし
て、ここに小屋を建てて炭を焼き白井平の牛小舎まで出した」という話も
あります。この白井平とは、山梨県道志村白井平(しらいだいら)のことで
しょうか。小字の牛小舎はどうしても調べられませんでした。それにしても
炭焼きで女郎を身受けし、養っていくなんて、これもイマイチ信じがたい話。
なかなか納得できるような話は見あたりません。


▼諸士平付近の730m標高点【データ】
【所在地】
・神奈川県足柄上郡山北町。小田急小田原線新松田駅からバス、
玄倉停留所下車、さらに歩いて3時間10分で諸士平。近くに写真
測量による標高点(730m)がある。
【位置】
・標高点:北緯35度26分57.64秒、東経139度7分11.93秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「中川(東京)」


▼【参考文献】
・『尊仏2号』栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成元)
・『丹澤記』吉田喜久治(丘書房)1983年(昭和58)

▼03:玄倉川周辺(終わり)

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