『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第8章「不動ノ峰・鬼ヶ岳・蛭ヶ岳」

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▼03:蛭ヶ岳と山伏

 丹沢山塊で一番標高の高いのは蛭ヶ岳(1673m)です。この山
はツンと突っ立った形をしており、塔ノ岳方面からでもよく目立つ
山です。蛭ヶ岳の広場に立つと富士山や南アルプスが正面に広がり
野生の鹿がよく顔をのぞかせてくれます。

 山頂から北へ向かうと姫次から焼山、西野々方面に至る丹沢主脈
コース。西方へ急下降すれば檜洞丸から西丹沢自然教室のバス停に
至る丹沢主稜コースです。

 蛭ヶ岳はその昔、薬師岳とも呼ばれていたという。かつては、い
ろいろな病気を治してくれるという薬師信仰の盛んな時代がありま
したが、以前はここにも薬師如来がまつられ、武州の国多摩郡柚木
大沢の竹内富造という人が寄進した薬師仏の石像などもならんでい
て、南西麓の山北町玄倉地区や、北東麓の神奈川県相模原市の鳥屋
地区方面からも信仰登山が盛んに行われていたという。


 薬師仏の石像はいつの間に持ち去られてしまったのか、いまはあ
りませんが、初代日本山岳会会長だった武田久吉博士(植物学者)
が撮影した写真が残っているそうです。いま山頂の山小屋の前にあ
る祠は、御嶽山行者の松島雅山がという人が1931年(昭和6)、山
の繁盛、登山者の安全を願い、木曾の御嶽山から御嶽大神の分霊を
勧請、祭祀したものだそうです。そういえば祠のわきに「御嶽山、
八海山大神、三笠山大神」などの碑とともに御嶽講形照る霊神碑も
建っています。

 蛭ヶ岳の蛭は毒虫のヒルです。この山には山ヒルが多いから蛭ヶ
岳だという説があります。しかし、山の形がお坊さんのかぶる毘廬
帽(びるぼう)に似ているという説もあります。江戸幕府編纂(1830
・天保1)の地誌「新編相模国風土記稿」(巻之百二十一村里部津
久井縣巻之六毛利庄)鳥屋村の項には「蛭嶽 一に毘盧嶽に作る、
縣中第一の峻嶽なり」とあります。

 さらに相模原市津久井町鳥屋地区の天野増氏は子どものころは
「ピルヶ岳」といったというのです。この古老の呼んだ「ピルガ岳」
というのは「毘盧ヶ岳」がなまったものではないかといい、山名の
由来は毘盧舎那仏説が有力です(別の説もあります)。


 その昔、修験者たちが修行の場を大山から次第に表尾根を経て奥
へ広げて行きました。そして丹沢の最高峰である蛭ヶ岳に行者たち
が本尊と仰ぐ仏・大日如来をまつります。しかし表尾根上に木ノ又
大日、新大日の名が既にあります。そこで密教での大日如来の異名
・毘盧舎(庶)那仏を蛭ヶ岳の山頂にまつり、そこから毘盧ヶ岳と
命名したのではないかといわれているそうです。

 毘盧舎那仏とは華厳(けごん)経というお経に説かれていて、お
釈迦さまのようにこの世に生まれてくるのではなく、蓮華蔵(れん
げぞう)世界という極楽浄土(ごくじゅらくじょうど)におられる
という難しい話がものの本に載っていました。 奈良東大寺の大仏
はこの毘盧舎那仏だそうです。

 山名についてはその他ノビルなど植物のヒル類からの説があるそ
うですが、毒虫のヒルや野草のヒル類も山の名前になるほど際だっ
て多いわけではなく、やはり毘盧舎那仏説が有力なようです。


 なお、蛭ヶ岳に雪が降ると、相模原市の津久井湖から見ると白馬
の形の雪形が見えるという。その場所は蛭ヶ岳に向かって左側で、
丹沢山の下、「大滝」の右上だそうです。雪形は5月ころまで見ら
れるそうで、地元の鳥屋地区では、その場所をおごりょう(大ごり
ょう)と呼んでいるそうです。

 ある年の初秋、主稜コースを大倉から西丹沢までカモシカ山行(夜
通し歩く強行山行)で歩きました。夜に大倉尾根を登ります。途中
山小屋のおやじが出てきて「いやぁ〜、今どきカモシカとはめずら
しい」などと冷やかします。

 丹沢山の先で夜が明け、蛭ヶ岳の祠の前で朝食をとりました。野
生の鹿がなれなれしく寄ってきます。山の中では誰もいじめたりし
ないためすっかり人間になれてしまったようです。

 シキリに食べ物をねだりますが、生態系?によくないと知らんぷ
りをしていたら背中を角でとんとんとつかれました。なおも知らな
いふりをしていたら放尿の仕返し。鹿にもなめられるようになって
しまったか。一時、う〜んとうなったものの、気を取り直して西側
の急坂を降りて行ったのでした。


▼蛭ヶ岳【データ】
【山名・地名】
・【異名、由来】:山ヒル説・僧のかぶる毘盧帽子説・毘盧舎那仏を
祀ってある説・植物のヒル類が生えている説などがある。
【所在地】
・神奈川県山北町と神奈川県相模原市(旧津久井郡津久井町)との境。
小田急渋沢駅からバス、大倉から歩いて6時間30分で蛭ヶ岳。写真測
量による標高点(1673m)と蛭ヶ岳山荘と木曽の御嶽大神の祠がある。
地形図に山名と標高点の標高、蛭ヶ岳山荘の文字、建物記号の記載
あり。
【位置】
・標高点:北緯35度29分10.76秒、東経139度08分20.05秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考】
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県」伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『コンサイス日本山名辞典」徳久珠雄編(三省堂)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編相模国風土記稿」江戸幕府(1830・天保1)編纂の地誌(巻
之121村里部津久井縣巻之6毛利庄):大日本地誌大系23「新編相
模国風土記・5」編集校訂・蘆田伊人(雄山閣)1980年(昭和55)

▼03:蛭ヶ岳と山伏(終わり)

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