『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第7章「丹沢山・丹沢三ツ峰」

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▼06:御殿森ノ頭

 丹沢山から北東にのびるその名も丹沢三ツ峰の末端に御殿森ノ頭
というピークがあります。かつては御殿森とか、御殿ノ森といっ
ていました。

 江戸幕府編纂の『新編相模国風土記稿』にも「(宮ヶ瀬村長者屋
鋪蹟)矢口入道信吉の住し所なり、信吉後人に害せられしと云(う)
のみ、詳なることを傳へず、又村落より西方三十町許を隔(てて)
山中に御殿森と稱し、樹木繁茂せし所あり、是(これ)信吉の女
父と共に害せられし時、其(の)髪毛を埋みし所と云(う)」とで
てきます。

 ここにあるように御殿森ノ頭は、矢口信吉の長者屋敷との関わ
りが深い。東丹沢・神奈川県清川村宮ヶ瀬の中津川のほとりに「長
者屋敷」というところがあるのがそれ。丹沢三ツ峰御殿森ノ頭か
ら南東の山ろくにあたり、いまはキャンプ場になっています。


 ころは南北朝時代、南朝方に属していた武将新田義興は、笛吹
峠(ふえふきとうげ・うすいとうげ)(埼玉県鳩山町と嵐山町の境
・八高線明覚駅の東)での新田義宗の敗戦の知らせに、『太平記』
(第三十一巻)は、「新田左兵衛佐義興(さひょうえのすけよしお
き)、脇屋左衛門佐義治(わきやさえもんのすけよしはる)もろと
もに、三月四日、鎌倉を引いて古宇都山(こうづやま)の奧(河
村城)にぞ籠もられける」と記しています。1352年(正平7・文
和元)のことでした。

 河村城は、難攻不落の城でしたが、足利尊氏の執拗な攻撃に支
えきれず落城。新田義興は、いずこともなく落ちて行きました。
一説に南原の戦いで惨敗を喫して河村一族の多くが討死し、越後
国へ逃れたという。

 義興はその後再起をはかり、武蔵から相模に向かいましたが、
多摩川の「矢口の渡し」で家来の裏切りにあい、あえなく最後を
遂げてしまうのでした。当年28歳だったという。南朝年号の正平1
3年(1358)のことでした。


 さて、その新田義興の家臣に矢口信吉という者がいました。彼
は、主人の死を契機に一族郎党を引き連れ、丹沢の宮ヶ瀬村のさ
らに山奥、中津川上流の布川のほとりに隠れ住んだのです。信吉
はそこに舘を築き矢口入道信吉と名乗って、山で猟をし川で漁を、
また砂金を取って、ひそかに鎌倉と交易して富をたくわえ、隠れ
里の暮らしをしていました。

 しかしそんなある日、宮ヶ瀬の村人に見つけられてしまったの
です。村人は「いままでどれほど武士や落ち武者たちにしいたげ
られ、どれほどひどいことされたか」。「妻や娘はおもちゃにされ
殺された。それなのにあいつらはこんな立派な館を建て、ぜいた
くしながら暮らしている」。

 村人たちは、怒りと憎しみに燃えたぎりました。となりの鳥屋
の村にも知らせて夜討ちをかけ、館に火を放ちました。安穏な暮
らしになれてしまった矢口信吉などの落人たち、その隙につき込
まれた出来事でした。



 落人たちは次々に殺害され、財宝は運び出され分配されたとい
う。やっと逃げだした矢口長者の妻(ひとり娘ともいう)も、北
西にある御殿森ノ頭まで逃げましたが、村人の足は速く、とうと
う追いつめられてしまいました。

 「もはやこれまで」と覚悟した妻は、頭にさしていた金のかん
ざしを引き抜き、のどを突いて自害したという。あとになって、
さすがに哀れに思った村人は、霊を慰めるためそのかんざしをご
神体とした小祠を建てて祭ったといいます。

 御殿森ノ頭にはいまも祠があります。当時、その金に目がくら
み、金のかんざしを盗みにやってくる者がありました。しかしか
んざしを盗み、山道を途中まで逃げてくると、突然まわりが真っ
暗闇になり、歩けなくなります。これは祟りだと反省して、もと
に戻そうとすると明るくなるという。その場所を眩(くらみ)沢
(倉見沢)というのだそうです。


 御殿森ノ頭で殺されたのは、妻ではなく、ひとり娘だったとい
う説もあります。『落人・長者伝説の研究』の著者落合清治氏は、
「村では妻という説が一般的。妻であれ、娘であれ基本的には変
わらない。女性の存在がポイントだろう」と述べています。付近
にはこの伝説にちなむ地名がたくさん残っています。

 奪った財宝が重くて運びきれず、この沢に転がした「ころがし
沢」。財宝をかぞえたところ600両あったので「六百沢」。長者方と
村人方が戦った(勝負した)場所「勝負沢」。

 また分け前を決める勝負をした場所との説もあります。この勝
負沢というのは、村人の屋号にもなっているそうです。ひとり娘
が殺された場所が「ハタチ沢」(娘は20歳だった)などが伝説に
ちなんだ地名です。


 ある年の6月、丹沢三ツ峰は、シロヤシオツツジの花が散り、
登山道は白い絨毯のようになっていました。御殿森の頭にある矢
口信吉の妻ともひとり娘ともいわれる霊を慰めた石祠を詣でて出
発します。

 突然うしろでキャーッという悲鳴。ヤマヒルにとりつかれたわ
がパーティーの女性たちが、地団駄踏んで払いのけています。慌
てる登山者たちのそばで、ヤマオダマキのつぼみが優雅に風にゆ
れていました。



▼御殿森ノ頭【データ】
【所在地】
・神奈川県愛甲郡清川村。小田急線本厚木駅からバス宮ヶ瀬三叉
路下車、歩いて1時間で御殿森ノ頭。石祠がある。
【位置】
・御殿森ノ頭:北緯35度30分32.04秒、東経139度13分17.75秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「青野原(東京)」



▼御殿森ノ頭
・『落人・長者伝説の研究』(丹沢山麓の矢口長者伝説)落合清治
(岩田書院)1997年(平成9)
・『新編相模国風土記稿3』(大日本地誌大系21)編集校訂・蘆田
伊人(雄山閣)1980年(昭和55):『新編相模国風土記稿』
・『尊仏2号』栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成
元)
・『太平記5』兵藤祐己(岩波書店)2016年(平成28:(『太平記』
第三十一巻)
・『日本の伝説20・神奈川の伝説』(角川書店)1977年(昭和52)
・『日本の民話8』(乱世に生きる)宮本常一監修(角川書店)1973
年(昭和48)

▼06:御殿森ノ頭(終わり)

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