『新・丹沢山ものがたり』CD本(加筆版)
第6章「塔ノ岳〜龍ヶ馬場」

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▼06:尊仏ノ土平

【本文】
 神奈川県丹沢の塔ノ岳の西方に尊仏の土平(どだいら)という
所があります。また古いガイドブックには、塔ノ岳北方の日高(ひ
ったか)の別称として「土平の頭」と出ていたそうです。「どだい
ら」の「ど」には、場所とか処の意味や、渡、出合の意もあります。
谷川の土合(どあい)の例もあります。

 また、「ど」にはヌタバ(獣が泥を浴びる場所)だとの説もあるそうです。
ところが、ここはそれらとは違って、「どば」の「ど」だという。『丹澤記』(吉
田喜久治)によると、「ドバは土場、貯木場のこと。ドバノタヒラがつまって
ドダイロ。近ごろ、このドダイロがナベワリ沢にあるかのようにいう人がいる
が思い違いであろう」とあります。ふーん、尊仏のドダイロだったんです
か。

 ここは丹沢湖からつづく玄倉川をさかのぼった、玄倉林道の終点。昔、
塔ノ岳にあった尊仏岩の尊仏さんのお祭りには、いまの足柄上郡
山北町玄倉や、寄集落からここを通り塔ノ岳に登っていったもの
という。


 ある年の秋、物好きにもこの広い河原で野宿の訓練をしました。
雨の予報も何とか持ちこたえましたが、夕方になってからどしゃ
降りになってしまいました。テント用のフライを張って屋根にし
たものの、雨が吹き込み膝元に川ができるしまつ。やがて小やみ
になったとたん、箒で掃いたように雲がとれ、満天の星空に「二
十一夜」の月が輝き出しました。

 二十一夜は、概ね女性の月待ち講で、如意輪観音(にょいりん
かんのん)の掛け軸を掛け、二十一夜塔を建てる所もあるという。
こうなればアルコールの味も違ってくるというもの。ヘッドラン
プのいらない位に月光で明るく照らされた河原を歩きまわりまし
た。

 丹沢湖畔玄倉集落からその名も玄倉川をさかのぼるといえば、
明治38年(1905)の秋に、武田久吉博士(明治、昭和時代の登山
家)が、日本博物学同志会の一行12人が、案内人を頼んで玄倉から、
尊仏の土平のあるあたり経由で、塔ノ岳へ登っていった記録があります。


 それによると前の日、玄倉にある「同志会」会員の友人の実家に泊まら
せて貰ったという。前夜は手違いで「玄倉村に着いたのが真夜中の0時
20分であった。明くれば9月24日、午前4時半、跳ね起き、準備に2時
間も費やして出発したのは6時半、案内は村の猟師として名のある鈴木
新次郎。一行の植物組は胴乱、昆虫組は捕虫網、岩石組はハンマーを
手にし、勇気凛々という訳」。

 道中、あっちで観察、こっちで採集するので時間がかかり、「記念写真
を済ませて、諸士平を後にしたのが1時50分であった」。その後玄倉川
を渡渉の繰り返し。「その間には岩壁に咲いたイワツリガネソウを採集した
り、砂地に生えたシラヒゲソウを掘り取るやら、蝶を追って後戻りする者も
あって、道は中々捗らない。

 熊木沢の合流点近くへ来たのが3時頃。玄倉の村を出てからすでに8
時間半、やっと蛭ヶ岳南ろくの熊木沢の合流点である」。いよいよ尊仏の
土平に近づき来ました。「案内は思わぬ時を費やしてしまったのでその日
のうちに塔ノ岳へ極めるのは不可能だといいだした。


 鍋割の山仕事の小屋もあれば食糧も十分ある。それ故ここに一泊して
明日塔ノ岳へ登るか、寄村から松田町に出るといい張って聞かない。し
かし一行の誰もが無理にも予定を遂行しようと主張し、案内に強要した。
オガラ沢の合流点を経て、鍋割沢の合流点の「鍋割口」まで来るのに、ま
た半時間もかかった。その間、右岸、左岸ときれいな流れの徒渉である。

 鍋割口からは木の間から小屋の屋根や煙もみえた。犬の声も聞こえ
る。左の本流に沿って上へ上へと進む。時刻も遅くなるし、疲労も加わっ
たので、もう道草もせずに、セッセと登っていった。対岸に落ちる棚沢に
はワサビが作ってあった。やがて箒杉沢を左にして、カネ沢に入っていっ
た。

 傾斜はようやく急となり、細まった沢の水をよけ、落石を避けながら、喘
ぎ喘ぎ登っていく。……。いよいよ踏み跡もなくなって足場はますます悪
くなるばかりである。汗を拭き拭き無茶苦茶に、登っていくうちに敗れた小
屋跡と不動尊の水場に出た。それからわずかではっきりした小径にであ
い、それから少し左に行くと、目の前に高さ3丈もあろうかと思われる黒尊
仏が立っていた。諸士平を出てから4時間近くを費やしたわけである」。


 古い記録には、「其形座像の仏体に似たり、故に此称あり」とあり、雷穴
という穴には、雨乞いの神の雷神がすんでいたという。しかし「時刻が遅
いため、石の高さを測ったり、お衣なる苔を採集して確かめたり、写真を
撮影したりなどを諦めざるをえなかった。塔ノ岳の頂上に達したのは、午
後5時50分、すでに西に没した太陽の残照で、狭い平らかな山頂には
小さな石祠があり、その周囲にはウメバチソウの白い葉とが、一面に密生
していた」。

 夕食の手持ちがない一行は、口のはいるものをとりあえず食べ、6時
15分大倉に向かって下りはじめた」。足元を照らすのは、先頭の案内が
もった提灯(ちょうちん)だけだったという。「潅木やすすきやらにつかまり
ながら、そろそろと降りていった」。そして「松田の駅前の旅館富士見屋を
たたき起こして、一行13人が草鞋をぬぐなり横になったのは、明治38
年(1905)9月25日の午前3時を過ぎる5分であった」(武田久吉。四十
年前の丹沢(『山と渓谷』)とあります。

 「植物組は胴乱、昆虫組は捕虫網、岩石組はハンマーを手にし、勇気
凛々」はいいけれど、友人の実家の宿に、真夜中の0時20分に集まった
り、午前3時過ぎに旅館をたたき起こされたり、まわりの人たちはいい迷惑
だったでしょうね。案内人にも同情しちゃいますなア。


▼尊仏の土平【データ】
【所在地】
・神奈川県足柄上郡山北町。小田急新松田駅からバス玄倉停留所下
車、さらに歩いて4時間で尊仏の土平。
【位置】
・尊仏の土平:北緯35度27分17.28秒、東経139度08分32.6秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」



▼【参考】
・『あしなか復刻版・第三冊』:「あしなか41輯」(山村民俗の会)1954年
(昭和29)
・『丹澤記』吉田喜久治(岳(ヌプリ)書房)1983年(昭和58)
・『日本山岳風土記3・富士とその周辺』(宝文館)1960年(昭和35)「四
十年前の丹沢を語る」武田久吉。

▼06:尊仏ノ土平(終わり)

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