第1章 山のはなし

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この章の目次

 ・(1)丹沢 ・(2)大山 ・(3)大倉尾根 ・(4)ヤビツ峠
 ・(5)札掛 ・(6)丹沢表尾根 ・(7)塔ノ岳 ・(8)鍋割山稜
 ・(9)竜ヶ馬場 ・(10)丹沢山 ・(11)丹沢三ッ峰
 ・(12)不動ノ峰 ・(13)蛭ヶ岳 ・(14)姫次、焼山
 ・(15)檜洞丸、犬越路 ・(16)同角山稜 ・(17)大室山
 ・(18)加入道山 ・(19)畦ヶ丸 ・(20)大界木山 ・(21)城ヶ尾峠
 ・(22)菰釣山 ・(23)山伏峠 ・(24)三国山、不老山
 ・(25)三峰山、鐘ヶ岳 ・(26)日向山、弘法山 ・(27)大野山
 ・(28)高松山 ・(29)華厳山、経ヶ岳 ・(30)仏果山
 
 ・コラム「山の高さくらべ」

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■(1)丹沢
 
 丹沢は丹沢山塊(さんかい)とか丹沢山地といわれます。山塊と
は断層によって周囲を限られた山。つまり山脈から分かれて独立し
た山の集団のこと、と辞書にあります。

 広い意味では関東山地に含まれるとも書いてありますが、いずれ
にしても丹沢は山のかたまりです。

 このかたまりを、登山に都合のよい分け方をすれば「大山の周辺」、
水無川と四十八瀬川流域の「表丹沢}、主脈縦走路(塔ノ岳、丹沢
山、蛭ヶ岳、焼山)の東側の「表丹沢」、主脈縦走路の西から世附
(ゆづく)川あたりをいう「西丹沢」大室山(大群山)の北側をい
う「裏丹沢」の五つに分けられるとか。

 しかし、表だ裏だは差別にもつながり、どうもまずい。一時、東
丹沢、中央丹沢、西丹沢と区別したこともありましたが、いまは東
丹沢、西丹沢の二つに分けるのが普通だそうです。

 つまり丹沢山塊の中央部、犬越路(いぬごえじ)を境に北の神ノ
川、南の中川川を結び、東側を表丹沢、西側を西丹沢とするわけで
す。「それでは境目にあるのに西丹沢というバス停はどういうわけ
だ?」。……あまり深く考えないこと。

 丹沢山塊には、いまから三千年も前から富士アイヌが道志(どう
し)川流域に住んでいたといわれ、また、南の酒匂川(さかわがわ)
左岸の山の中からは、縄文時代の土器が発見されているとも聞きま
す。やがて朝鮮から高麗民族が移住、仏教伝来とつながっていきま
す。

 そういえば、丹沢の「タン」は谷、「サワ」も古代朝鮮語タンで
谷の意味とか。まさに丹沢は「タンタン」なのであります。

 また、檜洞丸のようにマルのつく山名も古代朝鮮からの渡来人の、
山を意味する「マウル」という言葉からきているという人もいます。

 大正12年(1922)9月1日に起きた関東大震災は、震源地が丹
沢ということで一躍有名になりました。緑樹の山肌は見るも無惨な
ガレ場となり、あちこちに滝ができ、崩れた岩クズで谷も埋まるあ
りさま。

 とくに変わりようの激しかった石棚(いしだな)山あたりでは75
センチも沈下したといわれ、荒涼とした熊木沢、臼ヶ岳のガレ場は
その時のものだといいます。

 1927年(昭和2)昭和2年、小田急電鉄が開通すると、登山者
が急増。戦後、国体の山岳部門会場になったこともあり、丹沢は全
国にその名が知られるようになりました。

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■(2)大山

 丹沢の山には仏果(ぶつか)山、経ヶ岳、木ノ又大日岳、行者岳、
不動ノ峰、権現山など、仏教にちなんだ名前がたくさんあります。

 そういえば最高峰の蛭ヶ岳も、別名は薬師岳だし、塔ノ岳も仏尊
山です。それもそのはず、かつてここは修験道盛んな山でした。

 大山などに本拠のあった山伏たちは、いまから1200年も前に表
尾根道を開き、修験道入峰修行の場にしていたといわれます。

 表根から塔ノ岳にたどりついた山伏たちはさらに奥へ、丹沢山か
ら蛭ヶ岳へと進み、次々に名前をつけていきました。この山ものが
たりはそんな山岳修行の大本(おおもと)、大山からまいります。

 大山は奈良時代後期の天平勝宝7年(755)、奈良東大寺別当の良
弁(ろうべん)という偉いお坊さんが開山したといわれています。

 山頂には阿夫利(あふり)神社の本社が、中腹にはその下社、不
動前には大山寺があります。

 大山とは山頂にまつられている大山祇神(おおやまづみのかみ)
・山ノ神の名からついた名前。相模地方にあるので相模大山とも呼
ばれています。

 また雨降山、阿倍利山、阿夫利山などと書き、「あふり、あぶり」
と読んだりもします。

 その名の由来についてはいくつかの説があります。まず、頂上に
いつも雲がかかっていて、雨がよく降るからという説。次にアイヌ
語のアスプリ(偉大なる山という意味)が、なまってあぶりやあふ
りになったとの説。

 また、古代には「しかばね」を山に葬る(はふるーほうむる)習
慣があったといい、「はふり山」に転じたという説もあります。

 大山はまた相模の国御(くにみ)岳で、昔から農神、海神とされ、
信仰された山。「国のみたまが、吾路山命・おおやまのみこと(大
山祇神)を生んだ」と郷土の神話にあります。

 山頂の阿夫利神社はご神体が石であるため、昔は石尊社、石尊大
権現と呼ばれ、商売繁盛、豊作祈願、無病息災の神として、関東一
円から信仰され、「大山まいり」は落語にも出てくるほどのブーム
を呼びました。

 また大山は、遠くの海の上からも目立つため航海の目あてされ、
あて山ともいわれたそうです。山頂の本社社殿は本尊の大岩の上に
建てられていて岩を見ることはできません。

 阿夫利神社は真言密教の山伏たちの修行の場であり雨乞いにも効
き目があるといわれています。

 ケーブルに乗れば6分で下社。さらに1時間半で本殿のある頂上
です。さすがみんなの大山、平日でもにぎやかです。でもズラーッ
とならんだジュースの自動販売機はなんだァ?

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■(3)大倉尾根

 小田急渋沢駅から大倉(おおくら)終点でバスを降り、舗装路を
しばらく進むと、塔ノ岳への登山道に入ります。単調でダラダラと
長く、おまけに階段が続き、誰もが汗を吹き出してあえぎながら登
っていきます。

 こんな道どこまで続くんだと思う気持ちはどなたも同じらしく、
誰がつけたかバカ尾根とも呼んでいます。歩いているとバカらしく
なるというわけです。

 山の用語の本にも「バカ尾根で有名なものに、南アルプス仙丈ヶ
岳の仙塩尾根や、丹沢の大倉尾根がある」と書かれているほどの代
表的バカ……おっとゴメンナサイ。

 登山道が途中で二つに分かれまた出会うところを「ソージバ平」
といいベンチがあります。ソージバは雑事場のことだそうです。要
するに身支度する場所というわけです。

 やがて本格的な登りになりしばらくすると「一本松」と呼ばれる
場所があります。ここにはかつて大きな松の木があったそうですが、
1934年(昭和9)の台風で倒れてしまったとか。

 堀山の上、あと少しでカヤバ平というあたりを水神さんの坂とい
います。以前は登山道の勘七ノ沢側に小さな池があり、水神の石祠
がまつられていたそうです。

 昔から大倉尾根は、はげ山が続いていて、村人たちがいちばん困
るのが水でした。夏の日照りの時などは、気絶する者が出るほど。
そのせいか、塔ノ岳のお祭りに登る人が年々減っています。

 心痛めた大倉のお百姓さんは、花立(はなたて)の道祖神に何度
も祈願しました。きょうもお百姓さんはひとり草刈り作業に励んで
います。ふと気がつくと、もう飲み水がありません。さあ困った。
背中には焼けつくような太陽があたっています。

 そんな時、目の前にまっ白なウサギが現れます。こんな所にウサ
ギが……不思議に思ってあとをついていくと、きれいな清水の沸く
小さな池に案内されたということです。

 それからというものは、ここを通る人は必ず立ち寄るようになり、
いつしか水神さまもまつられました。水神さまの祠は1961年(昭
和36)ころまであったそうです。

 その少し上に前尊仏という大岩があります。かつてはこの岩のと
ころでひと休憩をするパーティを見かけたものでした。塔ノ岳の尊
仏岩に対して前尊仏というのだそうです。以前は石仏がありました。

 このあたりは展望がきいてきて富士山が顔を出してきます。ここ
で富士山を眺めると、あらァ富士山が左へ曲がって見えますよ。試
してみませんか。

 花立山荘を過ぎ、裏側へ回るように登ると花立です。苦しい大倉
尾根を登ってきて、前方に塔ノ岳、右に大山、左に鍋割山に続く富
士山ときては、誰でも休憩したくなるところ。

 そこで昔の登山者は、ここを霊場とし、花や木の枝を神に供える
所の意味で花立場と呼んだのだそうです。

 一方、花立の「ハナ」は端のことで、このピークがちょっとはず
れた所にある端(はし)の峰の意味だという人もいます。苦しい登
りの途中、塔ノ岳と間違えてがっかりさせられるのもこの花立です。

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■(4)ヤビツ峠

 丹沢の表尾根の登り口、ヤビツ峠。休日には満員の登山者を乗せ
た秦野駅からバスがやってきます。

 この峠は、1934年(昭和9)に丹沢林道開通とともにできた新
しい峠。旧峠はその西方、岳ノ台の中腹鞍部にあり、秦野と札掛を
結ぶ間道で、札掛への食料物資を運ぶ道でした。

 戦国時代、このあたりは甲斐の武田氏と小田原の北条氏が何回も
戦った場所だったそうです。

 とくに永禄12年(1569)、ここにさしかかった武田勢は北条方の
待ち伏せにあい忍んでいた敵方の伏兵との激戦で、さんざんに打ち
やぶられたといいます。いまでも三増(ませ)峠は古戦場あととし
て残っています。

 その時のものか、明治末期に峠道を修復工事中、矢を入れた背負
う矢櫃(やびつ)が地中から見つかったことから、ヤビツ峠の名が
ついたとされています。

 しかし、ヤビツとは、がけや切り立った斜面の間のくぼ地をいう
地形語もあり、峠名はそこからきているという人もいます。

なお、旧ヤビツ峠は武田方の亡霊が餓鬼になってさまようといわれ、
餓鬼道という名もあるそうです。

 ヤビツ峠の先に門戸口(もんこぐち)という変わった地名があり
ます。ここは戦国時代小田原城の砦にもなっていて、武田勢を防い
だところといわれています。

 また諸戸(もろど)というのもあります。この地域は三重県の大
地主諸戸静六という人が購入したというのでその名があるという。
いまでも諸戸さんが管理しているそうです。

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■(5)札掛

 ヤビツ峠から宮ヶ瀬地区へぬける道路、秦野清川線の鞍部にある
小集落が札掛(ふだかけ)です。1955年(昭和30)ごろまでは、
丹沢といえばこの札掛をさしたというほどの山深い所。

 この地区は、江戸幕府の直轄の御林で、樹木の伐採は厳禁だった
そうです。林守を命じられた村人は討伐防止に見回りして歩きまし
た。見回りは煤ヶ谷、宮ヶ瀬、寺山、横野の4村が交代で行ったそ
うです。

 当時、札掛には煤ヶ谷(すすがや)村からの入り口に大きなケヤ
キの木があったそうです。村人は、たしかに巡回したという証拠に、
このケヤキに札をかけるのを習慣とし、それがいつのまにか地名の
由来になったとか。

 この大ケヤキは1937年(昭和12)ころまでありましたが、同年
7月の大水で流されてしまったということです。

 明治14年(1881)、煤ヶ谷の加藤滝次郎という人がが家族ごと札
掛に移住してきます。御料局の木材を払い下げてもらい、製材と炭
焼きをはじめました。

それがきっかけになり、次々に引っ越して来る人が続き、一時は40
個戸になったこともあったそうです。

 1918年(大正7)、煤ヶ谷小学校(いまの緑小)の分校(小・中
複合学級=生徒数40人あまり)ができましたが、いまは休校中だ
そうです。

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■(6)丹沢表尾根

 ヤビツ峠から塔ノ岳へ縦走する表尾根は、熟年から子どもまでの
ハイカーが訪れます。

 最初に登るのが二ノ塔でその向こうに三ノ塔があります。これは
塔ノ岳に関連した名前だというほかに、こんな説もあります。

 この山の南西山麓、横野集落の唐子(からこ)神社に伝わる話で
す。昔、唐から飛来した神が、村から延びる尾根に一,二,三と、
ご神灯をともしました。

 驚いている村人の前に、神は竜馬にまたがった童子になって現れ、
神像を渡し、これをまつようにとご託宣。

 村人は早速、最初の灯明が現れた所にから唐子神社を建立し、順
に、二ノ灯、三ノ灯と呼びました。それがいつか灯が塔に転化した
というもの。唐からの子をまつるので、唐子神社なのです。

 もちろん別の説もあります。札掛の人たちは、木材切りや炭焼き
などが仕事です。表尾根の上で山仕事に出かけた人たちの決まった
休憩場所がいくつかありました。

 そこを一ノ所、二ノ所、三ノ所といっていたのが、いつか所が塔
になったというものです。

 烏尾(からすお)山。鳥尾(とりお)山ではありません。明治に
出版された、日本で最初の山岳事典「日本山嶽志」には誤植なのか
鳥尾山の烏が「鳥」になっているそうです。

 昔、ここには蔵王権現がまつられていて、そこで修業している僧
を「みさき神」ともいわれるカラスが2羽、見守っていたという故
事にちなんだ山名とか。

 また、ここは沢登りでにぎわう新茅ノ沢の源頭です。新茅ノ沢は
別名カラヒゴ沢。だから、烏尾山はカラヒゴノ頭。これがなまって
カラスオになり「烏尾」になったのだそうです。

 20歳代の初め、はじめて連れてこられたのがこの新茅ノ沢。こ
んな遊びもあるのかと、目ン玉ぐりぐりさせながら烏尾山の草はら
で昼めしを食ったっけ。いまでもここを通るたびに、その場所に目
がいきます。

 行者岳というピークもあります。行者とは役ノ行者のこと。永禄
13年(1570)というから安土桃山時代、役ノ行者の石像を初めて
ここにまつったという。その後何回か再建されていまに至っている
といいます。

 また新大日に、木ノ又大日と2ヶ所も大日のついたピークがあり
ます。大日如来は数ある仏さまの中でも中心的存在で、山伏たちに
とっては本尊です。表尾根は日向薬師から大山経由でやってきた修
験によって開かれたのだという。

 その山伏たちがブナの巨木の股に大日如来を安置し、修業に励ん
だのが木ノ又大日の山名の由来とか。ホントかいな。その後、手前
の山にも如来像をまつったので新大日と呼んだということです。

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■(7)塔ノ岳

 東京付近の人なら誰でも一回は登ったことのある塔ノ岳(1490.9
m)。三等三角点のある山頂はいつもたくさんの人がいて、昼食を
つくるコンロの音もにぎやかです。この山を塔ヶ岳ともいっていま
すが、正しくは塔ノ岳なのだそうです。

 かつて、山頂西側には「金華山なんとか寺」というお寺があった
そうです。またこの山の頂上北側に尊仏(孫仏)と呼ばれる大岩が
あり、拘留孫仏(くるそんぶつ)がまつられてありました。

 17、8mもあるこの岩は仏像にも似ており、またお坊さんが座
禅を組んでいるようにも見え、人々は敬語の尊をつけて尊仏岩、孫
仏岩と呼んでいたという。さらに拘留孫がなまって「黒尊(くろそ
ん)」ともいっていたそうです。

 塔のように突き出たこの岩の頂には、小さな石仏が安置されてあ
ったそうで、山麓では「お塔」と呼び、雨乞いの神として、豊作を
つかさどる農神として近郊の農民の信仰を集めていました。

 そんなことから、この山をお塔のある山「塔ノ岳」といい、尊仏
の山「尊仏山」の名前も生まれました。山頂にある尊仏山荘の名は
そこからきています。

 塔ノ岳のお祭りは、毎年5月15日に行われ、近郊から農民たち
が大勢お参りに登り、持ってきた作物の種もみを供えて、お互いに
交換しました。

 また、お塔の大岩の下の土を掘り出して持って帰り、田畑にまい
て豊作を祈りました。岩に生えたコケは、病気をなおす薬になると
までありがたがられたということです。

 しかし、この岩も下の土を掘りすぎたのか、大正12年(1923)
の関東大震災の余波で、北西の大金沢に崩れ落ち、いまは土台と石
仏がコケむしています。

 年一回のこのお祭りは、天下ご免の野天賭博の開帳の場でもあり
ました。一時は関八州の親分衆が集まるといわれるほどの盛大さ。

 明治になったもなお盛んで、土地の人たちはお塔にお参りに行く
といっては、遊びに登ったといいます。当日は大倉尾根の所々に、
物売りまでが出るにぎやかさだったそうです。

 そんな賭博も、時代とともに衰退し、次第に人も集まらなくなっ
て、ついに1950年(昭和25)を最後に途絶えたそうです。

 賭博が盛んだったころは、警官も大目に見て、大倉まで巡回にき
ても、見て見ぬふりをしてさっさと帰っていったといいます。

 塔ノ岳から西にユーシン側方面に下ると不動清水という水場があ
ります。そばに不動尊の石仏があって、水を汲みに来る人を迎えて
くれます。

 これは明治時代、「お塔」を登拝するため63回も登ったという竹
内富造という人がその記念に建てたそうですが、年月が経つにつれ
風化し、いまでは火炎光背部が欠落してしまっています。

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■(8)鍋割山稜

 塔ノ岳の南直下、金冷シから鍋割山へ向かいます。鞍部からあえ
ぎながら登った所が大丸です。

 丹沢では檜洞丸や畦ヶ丸のように、古代朝鮮語の山を意味する
「丸」のつく山がありますが、ここは大きな丸い山頂を表わす丸だ
とか。そういえば、隣に小さい丸い山頂をみせる小丸があります。

 大丸、小丸から30分で富士山の眺めバッグンの鍋割山に着きま
す。鍋割山の名は、文字どおり、鍋が割れたような地形だからとい
うもの。

 北側にある鍋割沢からきた山名だという説。鍋割沢は露岩が多い。
そんな所をナベといい、歩きにくい悪(ワリ)い沢です。

 また、ナベワリ(ビャクブ科)という毒草に由来するという説、
アセビ(ツツジ科)の木をこの地方ではナベワリと呼び、この木が
多かったという説もあります。

 この山は三ノ萱(かや)とも呼ばれます。かつてここは南西麓の
寄(やどろぎ)集落の大事なカヤ刈り場。麓から一ノ萱、二ノ萱と
呼び、三ノ萱が項上になるというわけです。

 鍋割山項からグンと下った所が鏑割峠。スズタケの中に馬頭観音
像がたたずんでいます。なおも西へたどると雨山峠。この短い区間
をカヤノ本棚山稜と呼ぶのだそうです。

 さて雨山峠。ここは昔から松田町寄集落と山北町玄倉(くろくら)
のユーシンとを結ぶ峠。

 以前、西丹沢玄倉上流の沢をやる時は、この峠を越えて諸士平に
出て、それぞれめざす沢に入っていったのだといいます。女性物の
コマゲタで登った丹沢スタイルがはやったころの話です。

 雨山峠から檜岳(ひのきだっか)をへて南西に延びる尾根。その
雨山に雲がかかると雨が降ると言い伝えが寄集落にはあるそうで
す。この尾根には特別に名前はなく、便宜上檜岳山稜というとか。

 檜岳は松田町では「ひのきだっか」といいます。「だっか」とは、
たかみ(高み)のこと。その呼び方に岳の字をあてたのだそうです。

 ピーク一つ隔てた秦野峠。安土桃山時代、山北町にあった河村城
のからめ手とされたという歴史の古い峠。玄倉側では寄地区を前秦
野と呼んでいたことからついた峠名だそうです。

 晩秋というのに暖かく、汗だくで秦野峠に着きました。ワッ、立
派な林道がすぐ下を横切っています。

 これからは秦野峠といえば、いまの峠の下の二股あたりの林道を
いうようになってしまうのでしょうか。その昔、秦野峠は山北にあ
った河村城のからめ手だったそうです。

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■(9)竜ヶ馬場

 塔ノ岳尊仏山荘から丹沢山をめざします。日高(ひったか)を過
ぎ、なおも進むと草原状に開けた竜ヶ馬場に出ます。

 東に大山、西に富士山、南側には原生林の上に塔ノ岳、ベンチも
あり、絶好の休憩場所です。

 その昔、このあたりも山伏たちの修業の場で、かつてはここに「竜
樹菩薩」がまつられていました。

 竜樹菩薩とは南インドのバラモン種出身の僧で、仏教の功労者と
して菩薩の名をつけられた人。山伏たちはここでもお札を納めたの
だそうです。

 竜樹菩薩はまた、当山で馬に乗ったともいい伝えられ、「竜樹菩
薩ノ馬場」とも呼ばれました。

 これがなまり、いつしか竜ヶ馬場になったということです。「こ
こには行者返しという大岩あり」と古い本に出てきます。

 何年か前の初冬、ここで弁当を食べていたら、どこからか子ネコ
が現れ、食べ物をねだります。

 与えた弁当をうなりながら食べていましたが、それから数日して
大雪が降りました。ネコは無事、冬を乗り越えられたでしょうか。

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■(10)丹沢山

 愛甲郡清川村と足柄上郡山北町、相模原市(旧津久井郡津久井町)
の三市町村の境にある丹沢山。そのため、昔から三境(さんさかい)
とか、三境ノ峰などと呼ばれてきたそうです。

 かつてこのあたりはただの奥山と呼ばれ、丹沢山といえば東丹沢
の札掛集落周辺をいっていました。これは「新編相模国風土記稿」
という古書にも載っています。

 時は明治期。陸軍参謀本部という、ものすごい名前をした役所の
陸地測量部が1878年(明治11)から三角測量を開始し、この山頂
にも一等三角点を設置、地図をつくります。

 しかし官尊民卑の時代、地元民の話もろくに聞かずに、山名を自
分たちで勝手に命名、記入してしまうというズサンさ。

 とうとうここを丹沢山にしてしまいました。ちなみに、鎌倉方面
では「御本(みもと)ノ平」とも呼んでいたとか。

 昔はこのあたりを深山(みやま)ともいったそうです。そういえ
ば丹沢山荘に建つ山小屋は「みやま山荘」といいますよね。以前の
呼び方はこんなところにしか残っていないようです。

 また、山頂北側にある落差50mという早戸大滝は、近郊の雨乞
い場所でもあり、山伏はこの大滝沢を登り、丹沢山、蛭ヶ岳へと奥
駈けしたそうです。

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■(11)丹沢三ツ峰

 ある初冬、札掛から東丹沢県民の森に入り、天王寺尾根下の堂平
近くで野宿をしました。伊勢原の街の夜景がきれいです。あすは丹
沢山に登り、丹沢三ツ峰を宮ヶ瀬に下ります。

 丹沢三ツ峰といえば、ヤマヒルがいることで知られています。そ
れを避けるため、いまの時期にしたのですが、吹きおろす風がやけ
に冷たい。それもそのはず、翌日登った丹沢山には雪が30センチ
も積もっていました。

 この三ツ峰は、実際には瀬戸沢ノ頭、太礼ノ頭、円山木ノ頭、本
間ノ頭と四つのがん首が並んでいるのですが、日本人はどういうわ
けか奇数がお好き。

 丹沢四ツ峰ではどうもしまらないというわけで、三ツ峰にしてし
まいました。それぞれ北側の沢からつけた名前です。

 地形図には丹沢山側から東へ、西峰、中峰、東峰と載っています。
その中峰とあるのが円山木ノ頭。エンザンギとは「円座木」がなま
った言葉。

 木の枝が円座のように輪生し、四方八方に伸びているもの。その
ような木は昔から神の宿る木として、きこりの間で大事にされてき
たのだそうです。

 また、秋にヤマブドウなどをねらって熊が木に登ります。その時、
つるを枝の上に座った尻の下に丸く敷き込んで、それに腰かけるの
だそうです。

 あとで見ると、まるで「円座」が木に乗っているようです。そん
な木を円座木といい、方言でエンザンギといったといいます。

 地形図の東峰は本間ノ頭です。古い文書には、鎌倉時代の末期、
このあたりの領主は本間五郎左衝門という人だったとの記録があ
り、この本間さんにちなんだのではないかといわれています。

 ここは別名、百間水ノ頭ともいいます。百間とはヒヤッケイのな
まったもの。つまり冷ゃっけぇ水の出るところがある頭という意味
だそうです。

 小さなピークを越え、なおも進むと金冷シから高畑山を巻きます。
以前はカヤぶき屋根の材料のカヤ刈り場の山だったということです
が、なるほどカヤがビツシリと驚った山。また、もとは焼畑の場所
で、高い所の畑から高畑山になったとか。

 その北東にある御殿森ノ頭。祠が二つ建っています。これは昔、
南麓にあった長者屋敷の御殿の主、矢口信吉の娘が自害した時、村
人がまつったものだそうです。

 その昔、矢口長者が隠れ住んでいた御殿をひょんなことから村の
青年が見つけて夜襲をかけました。長年平和に暮らしてきた矢口一
はすっかり油断をしてしまいおそわれ放題。

 虐殺が行われるなか、矢口長者の娘はこの森まで逃げてきました
がついに村人に追いつめられ、ついに自害をしたと伝えます。

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■(12)不動ノ峰

 丹沢山から丹沢三ツ峰への道と分かれ、蛭ヶ岳へ向かいます。ツ
ルベ落としから登りに変わり、気持ちのよい草原を過ぎて休憩舎を
見送ると不動ノ峰です。

 不動ノ峰は当然、不動明王からの名。1963年(昭和38)ころ伊
勢原市の日向薬師の常連坊(じょうれんぼう)から発見された古文
書「峰中記略控」には「是(これ)より峰に登り、神前の平地なり。
此所に不動尊あり……」と書かれています。以前は石祠が二つあっ
たそうです。

 昔の不動さまをまつったあとは、夏でも草が生えず、1坪くらい
の平地が最近まで残っていたとか。もっとも、そこはシカの砂遊び
の場ではないか、という人もいます。

 また、滝や清水にはよく不動尊をまつります。かつて山伏たちは、
この北東にある早戸大滝をつめ、やっと登り着いたこの山も霊地と
しました。

 そこで霊地の山頂に不動さまをまつったのだろうといわれていま
す。いまは少し丹沢山寄りの平地の休憩所わきに不動尊が建てられ
ていますがすっかり風化してしまっています。

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■(13)蛭ヶ岳

 目指す蛭ヶ岳を(1673m)見ながら不動ノ峰から鬼ヶ岩のガレ
場です。なるほど鬼ヶ岩というくらい二つの角のような岩の間を浮
き石に乗らないように下ります。

 ときどき現れるシカの姿を見ながら、樹林の間を登ると蛭ヶ岳で
す。蛭ヶ岳は昔、薬師如来をまつってあったので、別名薬師岳とも
いいます。振り返ると鬼ヶ岩が名前の通り角を2本立てています。

 蛭ヶ岳を「新編相模国風土記稿」という古い本には「毘盧(びる)
岳」とあり、本当は「びるヶ岳」ではないかといわれます。毘盧と
は毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)のこと。密教での大日如来の異名
です。

 その昔、修験者たちが、丹沢の最高峰のこの山に、自分たちの本
尊である大日如来をまつろうとしました。ところが表尾根に木ノ又
大日、新大日、の名がすであります。そこで大日如来の異名である
毘盧舎那仏を置いたのだとする説があります。

 また、ヤマヒルが多いからだともいいます。実際、大きな黒いヤ
マヒルがうごめいているのを見たことがあります。あとで知りまし
たがこのヒルは大形でしたが人の血は吸わないものだそうです。植
物のヒル類説もあります。ノビルなどが生えているというもの。

 山の形が漁師の山頭巾のヒル帽子に似ているという説。そのほか、
ヒルとは箕(み)の古語で、山容が箕の伏せた形に似ているからと
いう人もいます。

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■(14)姫次、焼山

 蛭ヶ岳から北側へ下り、しばらくして地蔵平に着きます。地図に
は記入してありますが、実際は気がつかずに通りすぎてしまう所。

 かつて、ここの右手の沢に下った所に水場があって、地蔵さまが
まつられ、古くから山伏に利用されていました。のちに洪水のため
地蔵さまは流出してしまい、いまはなくなったということです。

 原小屋平を過ぎるとまもなく、姫次(ひめつぎ)に出ます。姫次
とは姫突きのこと。神ノ川の折花姫(おりばなひめ)の伝説にまつ
わる地名です。

 安土桃山時代、「天目山の戦」に破れた武田側の旗本小山田八左
衛門の娘、折花姫は長者の老夫婦とともに丹沢山中の神ノ川に隠れ
住んでいました。しかし、執拗な追っ手はなおも探し続け、追い討
ちをかけます。

 必死に逃げる折花姫。が、ついに追いつかれ、もはやこれまでと
短刀で自分のノドを突いて自害したとも、追っ手に突き落とされた
ともいいます。これが地名の由来です。

 また、一説に姫はすでに神ノ川の深い淵に身を投げてしまいまし
たが、離ればなれになった長者の爺やは、姫は敵方の手でこのササ
原に突き落とされたと思い、「姫突き」の名をつけたという説もあ
ります。話は伝説のこと。このあいまいさがなんともいいのです。

 また、このあたりには、ウノハナ(ウツギ)がたくさん咲いてい
たといいます。このヒメウツギが、いつのまにかなまってヒメツギ
になり、姫次の字があてられたという説もあります。

 しかし「姫次」の字をさらにヒメツグと読む人が増え、最近はガ
イドブックや地図、、地名辞典にも、わざわざ「ひめつぐ」とルビ
をふってあります。

 さて、先を急いで焼山へまいります。「焼山」をひっくり返せば
山焼きです。山の名は昔、屋根をふく草であるカヤ(茅)を茂らせ
るための山焼きからきているといいます。

 焼山の山頂は鳥屋(とや)、青野原、青根の三つの村の境のため、
境界争いが絶えず、隣村の植林を妨害するために放火したという説
もあります。

 また江戸時代、一帯の杉、ヒノキ、ケヤキは「おたてぎ」と呼ば
れ、伐採が禁止されていました。伐採禁止を見回る役人が、仕事が
てらによく狩りをし、その時、見通しをよくするために下草焼きを
したのが、山の名になったという人もいます。

 
近くに黍殻山(きびがらやま)というのがあります。この山は、江
戸幕府(1830・天保1)編纂の地誌「新編相模国風土記稿」には君
ヶ谷(きみがや)とか、岐美我谷(きみがや)の名で出てくるそう
です。

 さらに姫次の西に袖平山があります。「そでひらやま」か「そで
だいらやま」かで悩むところです。しかし、昔の本には曽天多伊羅
(そでたいら)の字を当ててあるため、ソデダイラ山が本当らしい
そうです。

 ついでながら風巻ノ頭というところがあり、休憩所もあります。
ここは北側の風巻尾根の源頭にある山だからだそうです。この尾根
は風が強く本当に風が渦巻くようだといいます。

……………………………………

■(15)檜洞丸、犬越路

 蛭ヶ岳から丹沢主流の核心部、檜洞(ひのきぼら)丸へ向かいま
す。急降下して鞍部から登り返しながら臼ヶ岳です。臼とは急な山
から木材を搬出するための緩衡装置のことだといいます。

 そのほか「ウス」は毒草のトリカブト根塊「ウズ」がもとになっ
ているという説もあります。なるほどこのあたりはトリカブトもよ
く見られます。

 神ノ川乗越、金山谷乗越を過ぎれば檜洞丸(1601m)への登り
です。山の呼び名は地区により違ってきます。この山も神奈川県側
の玄倉では檜洞丸、南麓の中川では本棚沢の奥にあるので本棚裏、
津久井町青根では丸山。

 そして山梨県の道志(どうし)村では青ヶ岳、また北東にある沢
の源頭にあるので彦右衛門谷ノ頭と呼んでいます。

 ブナの原生林とバイケイソウの群落する檜洞丸。その名は、玄倉
川の支流檜洞丸の源頭にある山のこと。丸は古代朝鮮語の山の意味
とも、日本語の丸い山のことだともいいます。5月中旬過ぎにはヤ
シオツツジの群生も開花します。

 山頂直下に青ヶ岳山荘があります。青ヶ岳とは全山が原生林にお
おわれ、青く見えるからとか、ここはカモシカが多く、現地でそれ
をアオというからなどの説があります。

 もう成人してしまった息子がまだ小学生のころ、3月末に連れて
行き、ここにテントを張ったことがありました。前日降った雪がひ
ざ下くらいまで積もっていました。翌日、蛭ヶ岳方面への下りで、
犬ころのようにはしゃぐ息子の姿が思い出されます。

 雄大な富士山を見ながら西への尾根を下降して犬越路(いぬごえ
じ)に向かいます。途中、大笄・小笄という耳慣れないところがあ
ります。これにもいくつかの説があります。

 まずここは冬は凍えるように寒く、大凍(おおごえ)・小凍(こ
ごえ)のなまったものとの説。また山稜の起伏が、昔の髪飾りの笄
(こうがい)に似ているためこの名がついたとの説があります。

 また地形語のコウゲは、高下、荒毛、高原と書かれ、灌木などな
い草原をいうのだそうです。地名ひとつでもこんなに説があるので
すね。

犬越路は檜洞丸と大室山のほぼ中間の鞍部、戦国時代に甲斐武田の
勢力がこのあたりまでに及び、武田信玄と小田原北条氏康の戦いは、
丹沢山地を舞台に繰り広げられます。

 この峠もその一つ。信玄が小田原攻めの時、愛犬に先導されて峠
を越え、進軍したという伝説があります。犬はどこからともなく現
れ、案内したあと忽然と消えたとも伝えます。

 しかし、犬に先導されたから犬越路などとは笑っちゃうという向
きには、こんな説を紹介します。山梨県側では険しい裏道を「オイ」
と呼びます。

 オイを越えるから「オイヌ」を越えるになるそうで、この「オイ
ヌ越え」の峠路が犬越路になったというものです。またイヌは犬で
はなく「猪」のことで、イノゴエジ(猪越路)だとするものや「大
犬越路」の略したものとの説もあります。

 ちなみに永禄12年(1569)の武田小田原攻めは、信玄自身が丹
沢を越えた記録はないそうで、中川の湯ノ沢城を落とした信玄の別
動隊も、ここではなく、城ヶ尾峠を通ってきたということです。

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■(16)同角山稜

 檜洞丸をユーシンめざして南下します。同角ノ頭からキレットを
越えて石小屋ノ頭に着きます。この二つのピークは見方によっては
双耳峰に見え、角が二つ並んでいるので「同角」なのだそうです。

 また、同じような峰なので「同格」とも、またまた頭をもちあげ
る峰は、頭角を表した感じのため「頭角」が山名の由来だという人
もいます。

 山中にはカタカナで意味のわからない地名がよくあります。ユー
シンもその一つ。古い山の本には勇信、湧津、友信、幽神、涌深な
どといろいろ書かれています。

 丹沢の地名の研究書などを見ると、最初にユーシンと名づけたの
は「寄(やどろぎ)」村出身の小宮兵太郎という人。漢字では「湧
深」と書くとか。

 もともとこのあたりは帝室林野局所管の御料林。昭和6年、県に
移管されましたが、この人はずーっと引き続いてここの事務所に居
住しながら管理人をしていたのだそうです。それにしても「湧深」
とはムズカシイ名前をつけたものだなア。

 地図には載っていませんが、ユーシンより少し南西の雨山橋あた
りを諸士平(もろしだいら)と呼んでいます。文字どおり、たくさ
んのサムライが住んだ所といいます。

 江戸時代も終わりに近づく安政年間(1854〜60)。江戸で幕府転
覆をねらった紀州出身の武士たちが、追っ手を逃れる玄倉側からこ
こまで入り。山仕事をしながら時機の到来を待っていました。

 やがて盛り上がる討幕運動。世の中がますます騒然となるころ、
この15人の武士はいずこかをめざして出かけていったといいま
す。ただそれだけのことですが、この伝説から諸士平という名が起
きたということです。

 ユーシンから林道をさらに奥に向かうと、尊仏ノ土平(どだいら)
という所があります。ここからも塔ノ岳への登山道があり、広い河
原になっています。

 昔、尊仏さんのお祭りには、玄倉の人も寄の人も鍋割峠からここ
を通り、塔ノ岳へ登っていったといいます。

 もう随分前のこと、マネをしたわけではありませんが、鍋割峠か
ら下りたことがあります。途中、コシバ沢でシカの骨を拾い大歓声。
先が欠けてしまっていますが、いまでも大事に飾ってあります。

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■(17)大室山

 犬越路(いぬごえじ)避難小屋わきから大杉丸への急登に取り付
き、大室山(1587.60m)をめざします。

 大室山は道志村の大室指(おおむろざす)集落に由来する名前だ
という人もいますが、以前は大群山(おおむれやま)と書いたのだ
そうです。

 「むれ」とは古代朝鮮語の山の意味だそうで、牟礼(むれ)とも
書き、昔、道志の椿村が山頂に奉納した石碑には「大牟連(おおむ
れ)山大権現」と記されていたそうです。

 しかし、道志村の郷土誌に、大室(おおむろ)権現や大室大神、
または大室八幡神社など、牟礼や牟連ではなく、室との記述があっ
たり、隣町の神奈川県津久井町郷土誌にも大室山と書かれていて、
なかなか白黒ははっきりしないのであります。

 ここは良材が取れることもあって、昔から甲斐と相模の国の国境
争いが絶えませんでした。そこで、暴府の家老が裁定に乗り出しま
すが、歳をとっていて現場山頂への尾根を登ることができません。

 かごを雇って登降するしまつ。それが山頂から北東の大渡集落へ
延びる家老ノ尾根(カゴ尾根)の名の由来なのだそうです。ホント
かな。いまはカヤの尾根と呼んでいます。

 ちなみに大室山から東にのびる尾根上にある鐘撞山には鐘撞き堂
があったという。姫次の項に出てきた折花姫をかくまった長者夫婦
は、この山頂に鐘撞き堂を建てて追っ手の気配を見張らせたという
伝説があります。

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■(18)加入道山

 坊主頭のばけもの?加入道山(かにゅうどうやま)です。静かな
山はブナの原生林におおわれ、山項わきに避難小屋があります。も
う随分前のこと、大晦日にここに泊まりに行きました。

 ガスの中、小屋に着いてみると2、3人の人がすでに泊まりに来
ていました。この年の押しつまった時に酔狂な人がいるものだと、
自分を棚にあげて驚いたことがあります。

 山名は、このあたりはシカが多く、鹿入道(かにゅうどう)と呼
んでいたものが、いつしか鹿の文字が加になったという説と、屋根
をふくカヤや牛馬のエサの草を刈る場所を、土地の言葉で「かにゅ
うどう」といい、加入道の字をあてたともいいます。

 また、道志村の古老の話では昔、この山に大入道が住んでいたと
も伝えます。

 東側には、丹沢でいちばん高い馬場峠(ばばとうげ・別名ザレ峠)
があって、かつて道志村と箒沢を結ぶ重要な峠だったということで
す。

 その昔、中川の箒沢に隠れ住んだ、奥州平泉の藤原秀衡の家臣、
鰐口伊賀守も、道志側からこの峠を越えていったということです。

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■(19)畦ヶ丸

 加入道山直下の白石峠は、昔から相模と甲斐を結ぶ交易路でした。
南東側にある白石沢は、その名のように大理石の白い岩床です。そ
の沢をつめた所にあるので白石峠。そういえば峠付近でも白い石を
よく見かけます。

 田園の畦道(あぜみち)をクロともいいます。土へんに丸という
字をあてるのだそうで、丸い土と書くところから塚の意味。畦ヶ丸
(1293m)を城ガ尾方面から見ると黒く盛り上がって塚にも似て
いるため、畦ヶ丸はクロヶ丸だ、という人もいます。

 また、畦とはアセビのことだともいいます。アセビの木が多い山
なので畦ヶ丸。なるほどたしかによく見かける木です。馬が酔う木
と書くアセビ、どんな風にヨッパラウか一度食べさせてみたいもの
です。

 かつてこの山は秘峰と呼ばれていたそうです。初登頂は1924年
(大正13)。バケモノ沢方面からの田杭安太郎(横浜山岳会)と城
ヶ尾峠からの釜井盛四郎(関東岳愛会)の二人。

 釜井が峠から藪をこいで登ってみると、30分前に下山したと書
かれた田杭安太郎のメモがあったということです。

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■(20)大界木山

 畦ヶ丸(1293m)からモロクボ沢ノ頭をへて城ガ尾峠に向かい
ます。モロクボ沢は、山の東側にあたる神奈川県側モロクボ沢があ
り、道志側にも室久保川がつきあげています。

 道志村の地名の、大久保、小室久保、峰久保など久保のつく所は
みな、くぼ地を表しているとか。室久保川支流にノマノ沢という沢
があります。これは沼ノ沢のことで、沼のほとりに小さい沼がある
のだそうです。

 その沢の上にある大界木山(だいかいぎやま)。変わった名前の
山です。道志村の老人のはなしでは、沼ノ沢の近くにケヤキの巨木
があったといいます。

 ケヤキといえば丹沢六木の一つ。江戸時代、スギやツガなどとと
もに伐採はご法度の御木であり、庶民あこがれの名木。そんなこと
から、大きなケヤキのある山という意味が、いつしか大界木山にな
ったという説があります。

 山梨県側の地誌「甲斐国誌」には高叉山と書かれ、別名高指(た
かさす)山ともいいます。「指」とは昔の開墾地をいい、開墾地の
ある山の意味だそうです。

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■(21)城ヶ尾峠

 南北朝時代の正平7〜8年(1352〜53)、足利尊氏に追われた新
田義貞の第二子、義興は山北町にあった同じ南朝方の河村城に逃げ
込みます。

 しかし、大軍の足利勢に耐えられず、箒沢から登って城ガ尾(じ
ょうがお)峠付近に城を築き、なおも戦います。さんざんに敗れ、
義興は峠を越えて甲斐から越後に落ちていったということです。

 また、戦国時代、武田信玄の小田原攻め(1569年)の時、大勢
の甲州兵がこの城ガ尾峠を越え、城ガ尾山に陣を張ったとか張らな
いとかのいい伝えがあります。峠南側にある信玄平も武田信玄にち
なむ地名です。

 暑い8月、わざわざ砦跡の石などないかと訪ねてみたことがあり
ます。雨の中、峠付近や城ガ尾山山頂をずぶぬれになって探しまし
たが、大きく時が流れた今、そんなものはありっこありません。

 ついでに信玄平で野宿です。幸い雨もやみ、道標の下でゴロ寝の
準備、飲んでいた水割りにコオロギが一匹飛び込んできました。

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■(22)菰釣山

 山村の人たちにとって昔は山々が生活の場。各村の木材伐採や炭
焼き仕事の入会(いりあい)の山での境界争いも多くありました。
なかでも西丹沢の甲州(山梨側)と相州(神奈川県側)の国境大論
争は千年にも及んだといいます。

 天保12年(1841)、国境尾根所有権争いが頂点に達し、ついに甲
州平野村の名主勝之進が江戸幕府に直訴、この菰釣山に菰(わらむ
しろ)をつるしてたてこもったのだそうです。しかし、その結果、
平野村が敗訴、いまの神奈川、山梨、静岡の県境に決められたとい
います。

 もちろん、ちゃんと異説もあります。戦国時代、、武田信玄小田
原攻めの時、ここに菰をつるして進軍の合図にしたというのです。
また一年中、山上が雲や霧におおわれることが多いので雲吊(くも
つるし)山、それがなまっていまの山名になったのでは、という説
もあります。

 ブナの巨木が多いので、山梨県側ではブナノ丸とも呼びます。こ
の木につく大きなサルノコシカケは健康にいいとかで、大山のおみ
やげ屋では、けっこうな値段で売っています。ちなみに菰釣山の三
角点は南に少し下ったところにあります。

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■(23)山伏峠

 何年か前の初冬、菰釣(こもつるし)の避難小屋で一泊、山伏(や
まぶし)峠へ歩いていきました。油沢ノ頭あたりまで行った時、前
方で大きな動物がこちらをジッと見ています。

 それは二頭の猟犬でした。飼い主に捨てられたらしく、人なつこ
く、あとになったり先になったりしてついてきます。それもわざわ
ざ私の足に自分の体を触れせながら、落ち葉を踏んで通り過ぎるの
です。

 山伏峠に着き、高原ホテルで水を補給、缶ビールを飲みながら登
り返していたら、わきのササヤブから声がし、トモダチを一頭連れ
てきて、三頭と同行するはめに。にぎやかな山行になりました。

 毎年冬、山中湖が最初に凍りはじめる東岸の平野集落。山伏峠は
そこから一時間半くらいの峠です。昔は鎌倉往還の裏街道だったと
か。

 裏街道とくればそこはそれ、オテントウさまを拝めないヤカラも
大勢通ったのでしょうか。いまは大きな送電線の鉄塔がデーンと立
っています。

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■(24)三国山、不老山

 富士山を見ながら三国峠を目指します。高指山、鉄砲木ノ頭とい
うピークが頭をならべています。タカザス山のサス、ザスとは焼畑
を意味するという。このあたりは山中湖側からは簡単に登れなだら
かで焼畑をするにはいいところだったのかも知れません。

 ところで鉄砲木ノ頭とはなんだ?一説に、伐採した木材をふもと
に運ぶとき、沢のせきを利用して水をため込み、一気に下流に流す
鉄砲水のことだとありますが、これはたぶん神奈川県側のことなの
でしょう。

 三国(みくに)山とは甲州、駿河、相模の三つの国境にある山の
こと。三国山という山は全国あちこちにあり、山名辞典を調べたら、
峠も含めると37カ所もありました。いずれも旧三国の境にある山
や峠です。

 山中湖と富士山の展望がすばらしい旧三国にくらべ、三国山の山
頂は深いブナ林の中。明神峠方面、三国峠方面、大洞山、篭坂峠方
面へと三方への道標が立っていて、江戸後期編さんの地誌「新編相
模国風土記稿」の山名由来の記述を実感させられます。

 菰釣山から続くこの山も、かつては三ヵ国国境紛争の場。七年間
もの論争、実地検証のあと、弘化4年(1847)の幕府の判決でいま
の境界に決まったといいます。

 昔、朽ちた湯船が発見された麓の湯船集落に由来する湯船山から
世附峠を過ぎ、不老山に登り返します。頂上は、展望はよくないも
ののちょっとした草地。フロウとは斜面の中間の平地で、とくに広
い所をいうのだそうですが、山名の由来ははっきりしません。

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■(25)三峰山、鐘ヶ岳

 ここは丹沢三ツ峰とは別の大山三峰山です。大山の北側、煤ヶ谷
(すすがや)集落の西側にあります。昔は八菅修験の道場で、頂上
に三峰社がまつられていたともいいます。

 ピークが三つに分かれ、北から阿弥陀岳、妙法岳、大日岳と並び、
山伏奥駆けの18,19、20番の行場だったとか。

 いまでもロープや鎖場があり何ヶ所かあり、昔の修業の様子がし
のばれます。八菅の修験は、八菅山で儀式ののちに山に入ります。

 行場の数は30ヶ所、7泊の修業。とくに三峰を超えて大山まで
は「奥駆け」といわれ、厳しい修行の場とされていました。各行場
での修業で、このくらいの日数が費やされたそうです。

 ところで途中から不動尻に三峰から下る道をとると不動尻に着き
ます。不動尻は不動尊にちなむ地名というほかに「太尾ジリ」由来
説があります。

 ジリとは果てとか最奥ということで、谷を動物のおっ尾に見立て、
その一番奥にある所という意味だそうです。

 また、三峰山の東方、山頂に二体の石仏がある鐘ヶ岳は、大応岳、
浅間山とも呼ぶそうす。そういえば登山道に富士山登頂記念などの
碑があり、頂上直下に浅間神社がスギの巨木の下にまつられていま
す。

 小さい方の石像はすっかり風化しています。となりの剣を持って
石神は1882年(明治15)に再建されたそうです。

 昔、竜宮にあった鐘をこの山に納めたという伝説があって、それ
が山名のもとなのだそうです。

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■(26)日向山、弘法山

 奈良時代の霊亀2年(716)、行基が開山したという「日向薬師」
のある日向山。山頂に天明8年(1788)の銘のある、うっすら○○
天宮と読める祠があります。

 この山は、大山の東側に延びる尾根の上にあり、さえぎるものが
なくて陽がよくあたるというので日向山というそうです。

 また、「ひなた」は古称の「ひむけ」で、「むけ」すなわち背向く
者を帰服させる神の性格から、あらぶる大山神と相対する古代信仰
の地としての「日向」であろうと、なにがなんだかよくわからない
ことが地名辞典に書いてあります。

 ここは日向山山伏の本拠地でもあり、山伏たちはここから蛭ヶ岳
のほうまで修業の奥駆けをしました。

 大山から南下する尾根上にある高取山(556m)。この山は高い
という意味のタカットからきた名前だとしています。

 一方、秦野駅の東にこんもりと重なっている山。奥の方が弘法山
です。ここも開山は行基菩薩といわれます。平安時代の初め、ここ
を訪れた弘法大師のために地元の人たちが山頂に庵をつくり迎えま
した。大師はそこで千座の護摩をたいて修業したということです。

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■(27)大野山

 頂上が県営牧場になっている大野山。野原のような山だから大野
山というのかと思っていたら、もとは「王ノ山」だといいます。同
じ「オオノヤマ」でもエライ違いです。


 王ノ山は、南北朝時代の南朝の後醍醐天皇をまつったためについ
た名前だといいます。麓の集落には南朝時代の伝えが多くあり、兵
僧平(へいそだいら)、人遠(ひととお)、武士平(ぶつつえだいら)、
小宮山(ふるみやさん)などは、それにちなんだ地名だそうです。

 また、山の東側の皆瀬川流域にある石祠には、皇室の紋章である
十六花弁の菊の紋があったりします。そういえば、山北町にあった
河村城は南朝方、後醍醐天皇の皇子、宗良(むねよし)親王が兄の
護良(もりよし)親王に協力し、北朝方の足利尊氏の大軍と戦った
という、ゆかりの地でもあります。

 いつだったか、イヌクビリの所を登っていたら、牧場のウシの引
っ越しに会いました。せまいて鉄柵の通路をこちらにやってきます。
モーモーとにぎやかなウシの大群と鉢合わせえはかないません。大
あわてにあわてて逃げたことがあります。大野山は別名・星山とい
うそうです。

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■(28)高松山

 高松山(801.4m)は大野山とともに丹沢山塊の南側の前山足柄
山地に入るのだそうです。山頂は二等三角点と無線中継塔があり、
展望のよい明るく広々とした所だと本で読みました。

 11月の中旬、欲深く雨山峠から入り、秦野峠付近の沢で野宿、
高松山に向かいました。途中、何人ものハンターに出会います。イ
ノシシを打つのだというのです。

 「いますか」「いねぇな」。あとの言葉が続かなく、猟犬をほめて
おせじをいいながら高松山西肩へ。赤いマユミの実が美しい。

 たしかに山頂は広く、三角点と無線塔はあったが……。いっしょ
に行った誰か、「この山、そんなにいい所?」。なるほど、まわりの
植林が大きくなりすぎたか展望ゼロ。それにしてもさすが高松山、
日曜日のせいもあって人がひっきりなしに登ってきます。

 山の南側にあるビリ堂のお堂は基礎だけ残り、そばに馬頭観音が
二体あるだけ。下山道はミカン、キウイ、カキ の畑。横目でチラ
チラ気にしながら足を早めました。

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■(29)華厳山、経ヶ岳

 「沢沿いの登路は、上流部ではほとんど消滅……尾根直下はヤブ
の中を強引に急登……経ヶ岳への変わった登路……」とのガイドブ
ックの文章を見て好奇心がムズムズ。日向薬師、白山経由で丹沢集
落から登ってみました。

 砕石場わきから入らせてもらい、沢のほとりでビバーク。ガレた
沢沿いをたどります。

 動物の足跡と「ハンターの入山禁止」の立て札が立っているイバ
ラをくぐり、ひたすら尾根上をめざします。スズタケをかきわける
とはっきりした道、華厳山と高取山の鞍部です。

 華厳山を北に下り、登り返すとベンチのある経ヶ岳。経ヶ岳の名
は、山頂すぐ西側に巨岩があり、役(えん)ノ行者が華厳経を納め
たとか、弘法大師が岩の穴に法華経を納めたとかのいい伝えがあり
ます。

 なるほど、経石というこの岩には50センチくらいの広さの穴が
確かにあいています。しかし、華厳山にも同じような伝説があり、
昔は呼び方が混同されていたとのことです。

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■(30)仏果山

 経ヶ岳を過ぎ、半原越えに着いたあたりでそろそろあやしくなっ
た雲行きは、仏果(ぶっか)山(747.1m)ではとうとう本降りに
なりました。山頂には観音像が三角点に置かれています。

 例によって山名の由来調べです。南北朝時代、京の僧、仏果上人
が煤ヶ谷にやってきて正住(しょうじゅう)寺というお寺を建て、
山に登って座禅修業をしたのがそのいわれだそうです。

 いまでも、上人が座禅を組んだという「座禅石」が、仏果山南側、
金冷シノ沢入り口の最上段の滝のそばにあります。

 仏果山とは、南麓の煤ヶ谷方面の呼び方。愛川町半原ではこのあ
たり一帯を南山、また津久井町の長竹、韮尾根地区では半原富士と
呼んでいたそうです。

 南麓の煤が谷・寺ガ谷戸にある正住寺は、仏果上人が開いたお寺。
鎌倉の建長寺の末寺で、臨済宗に属し、正式には金剛山正住寺と号
していたといいます。

 仏果上人は、応永8年(1401)4月に他界したとされ、正住
寺にはいまでも上人の石像が立っています。

……………………………………

■コラム「山の高さくらべ」

 東端の大山から、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳へ、また檜洞丸から大
室山、菰釣(こもつるし)山へと延びる丹沢の背骨それを中心にし
て広がる山々。その山々の高さくらべをしてみました。

 ・1位:蛭ヶ岳(1673m)、2位:不動ノ峰(1614m)、3位:
鬼ヶ岩の頭(1608m)、4位:檜洞丸(1601m)、5位:棚沢ノ頭、
6位:大室山(1588m)、7位:丹沢山(1567m)、8位:熊笹ノ
峰(1523m)、9位:竜ヶ馬場(1504m)、10位:同角ノ頭(1491
m)、11位:テシロノ頭(1491m)、12位:塔ノ岳(1491m)、13
位:臼ヶ岳(1461m)、14位:姫次(1433m)、15位:袖平山(1432
m)

 やはり蛭ヶ岳がトップです。でも、おなじみの山なのに出ていな
いものもあります。そこで16位以下を書き出してみました。

 ・16位:西丹沢の加入道(かにゅうどう)山(1418.4m)、17位
:鍋割山稜の大丸(1386m)、18位:大倉尾根上にある花立(1377
m)、19位:丹沢三峰にある瀬戸ノ頭(1375m)、20位:甲相国境
尾根の菰釣山(1370m)と続きます。

 以下21位:丹沢三ツ峰・円山木(えんざんぎ)ノ頭(1360m)、22
位:丹沢三ツ峰・太礼(たれい)ノ頭(1352m)、23位:檜洞丸か
ら南に延びる尾根にある石棚山(1351,2m),24位:丹沢三ツ峰・
本間ノ頭(1345,4m)、25位:鍋割山稜・小丸(1341m)、26位:
表尾根・新大日(1341)、27位:丹沢西部の三国山(1320m)、28
位:菰釣山近くの油沢ノ頭(1310m)、29位:同じ尾根の西ノ丸
(1297,3m)、30位:畦ヶ丸(1292,6m)。

 

(第1章 終わり)

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