第3章 3 月

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▼中 扉

3月(やよい) (この章の目次)
  ・弥生(やよい)
  ・ひな祭り(ひしもち、白酒、桃の節供、流しびな、草もち)
  ・耳の日
  ・啓蟄
  ・春分の日(彼岸)
  ・卒業式(通知表)
  ・社日
  ・3月その他の行事

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・弥生(3月)

 明治まで使っていた陰暦で3月を「弥生」と呼んでいます。草や木がいよいよ生い茂るという意味で江戸時代の歳時記「改正月令博物筌」(鳥飼洞斎著)という本には「弥生は春の陽気至りて萌(も)え出でたる草も、この月いよいよ生いさかんなれば、いやおい月ということを略してやよいとはいうなり」と出ています。

 江戸時代中期の歳時記「滑稽雑談」(其諺(きげん)著)にも「風雨あらたまりて草木いよいよ生うるゆえにいやおい月というのを誤(あや)まれり」と載っています。

 英語ではマーチ、ローマ神話の春の豊作の神で、作物の成長を守るというマーチウスからきたものだそうです。

 3月に入ると先月にくらべ気温が急に高くなり、氷や雪がグンと少なくなって気圧配置も冬型から春型に変わります。

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・雛祭り(3日)

 ♪あかりをつけましょボンボリに……。3月3日は雛祭り(ひなまつり)です。もとは「上巳(じょうし)の節供」といって、3月の初めての巳(み)の日にお祝いの行事を行っていましたが、次第に3月の3日を固定していうようになりました。

 元来は中国のみそぎの行事で酒を飲んで災難などを祓(はら)うものだったという。それが平安時代になると朝廷や貴族の行事になり、また聖徳太子の時代の昔からあった健康を祈って、災いを草やわらで作った人形(ひとがた)にあずけ、水に流す行事といっしょになって発展したのだといわれています。

 当時はその場限りにすてられた草やわらの粗末(そまつ)な人形も、平安時代になると装飾的な意味をもつようになります。そして美しく精巧な

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雛がつくられ、「水に流してしまうにはもったいない」ということになっていきます。鳥取県などに残っている流しびなの行事はそのなごりだそうです。

 こうして3月3日の雛の風習が定着し、江戸時代になると五節供といって、正月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし・雛祭り)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(たなばた)、9月9日の重陽(ちょうよう)の5つの節供のひとつに決められました。

 元禄(げんろく)のハデハデ時代(1688〜1704年)になると、雛人形はますますぜいたくなものになっていきます。当時すでに雛壇がありその上に飾られていたといわれています。

 江戸時代中期の寛延年間(1748〜1750年)には、1段組だった雛壇が2段になり、明和(1764〜1771年)ごろには3段にふえ、いまではゴーカに8段飾りがふつう。

 おまけに家紋まで入れるというサービスぶりです。しかし近年、家が狭くなり飾るところがなくなったのか、雛人形店には売れ錫らしいお内裏様だけの雛人形がずらりとならんでいました。

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・菱 餅(雛祭り)

 雛壇に飾る菱餅(ひしもち)は雛祭りの供えものというよりは古くは「菱花びら」と呼ばれる正月用の餅で、室町時代足利将軍家ではすでにお正月に食べていたという。

 菱餅を3月の雛祭りに用いるようになったのは、江戸時代の貞享年間(1684〜1688年)になってからだそうです。

 いま菱餅はその名の通り菱形をしています。しかしもともとは三角形ではないかという人もいます。三重県では菱餅を三角餅といい、雛節供にはこのもちを持って親元に行くところがあったそうです。静岡県では、本当に三角の形をした三角餅を雛祭りの日に両方の親にプレゼントするところがあるそうです。

 もと正月用の食べものだった菱餅は、小正月に行われる「どんと焼き」の柱につるす三角の火打袋などと同じように三角形に深い意味があったのだという人もいます。

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・白 酒(雛祭り)

 雛壇には白酒も供えられています。白酒は蒸(む)したお米にみりんを加え、すりつぶして作ります。白くにごって甘くお雛様もすすむでしょう。白酒は、古くは錬酒(ねりざけ)といい、福岡県の博多で作られたものが有名だったそうです。これは室町時代の「碧(へき)山日録」という本の応仁2年(1468年)の条に記載されています。

 神をまつるとき供える食には玄米、酒、もち、塩など13種類あるそうです。その中でもお酒は重要なもののひとつです。酒には古くは白酒(しろき)と黒酒(くろき)がありました。

 平安時代の初め、白米のにごり酒を白酒といい、クサギの灰を入れたものを黒酒といっていましたが、室町時代になるとあま酒を白酒といい、黒ゴマの粉を入れたものを黒酒というようになったということです。

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・桃節供(3日)

 3月3日は桃の節供です。スーパーなどでモモの小枝の花を買ってきますが、ハウス栽培以外まだモモの花など見あたりません。変だと思いませんか。

 これは、3月3日の桃の節供はもともと昔の暦(陰暦)のことで、いま使っている太陽暦では4月の上旬にあたります。だからその名にふさわしくモモの花ざかりだったわけです。

 この節供は中国の古代の行事が伝わってきたものだという。昔は3月3日とかぎらず、旧暦の3月上旬の巳(み)の日のことで「上巳(じょうし)の節供」と呼んでいました。この日はなぜかおそろしい事がおこる日といわれ、水辺でみそぎを行い酒を飲んで災いをはらう習慣があったそうです。

 なぜモモかというと、昔からモモには邪気(病気などをおこす悪い外気)をはらう力があると考えられ、「古事記」にもモモの実を投げて悪鬼を撃退することが載っています。また中国ではモモの実を仙花(せんか)としめでたい果実としています。そんなことから「桃の節供」にはモモの花を飾ったようです。まさかボケの花を飾るわけにもいきませんよね。

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・流し雛

 雛祭りの終わり3月3日の夕方、海や川にお雛様を流す「流し雛」の行事があります。鳥取県や岐阜県、和歌山県、広島県などで広く行われている行事です。流し雛は雛送りともいい、雛を乗せた船やさんだわらに火をともして川に流すことも行われています。

 鳥取県で行われる流し雛は、ブドウくらいの大きさの土で作った首に、目鼻を描いた男雛、女雛を10体ほどつけた竹串を一組は神棚に飾り、もう一組は川に流します。和歌山県では色紙で男女のひなを作り、ダイズぐらいの首をつけるところもあります。

 もともと雛祭りの雛は、人の身のけがれを託すわらや草でつくった人形(ひとがた)でした。自分の身のけがれが人形に移ったら雛はけがれといっしょに海や川に捨てるものだったそうです。

 それがいつのころからか細工が精巧になり、いまの雛祭りのように飾るものになりました。しかし今でも流しびなの風習が残っている所があります。

・草 餅

 雛祭りには草餅がかかせません。いまではヨモギで作っていますが、昔はどうやらハハコグサ(母子草)を使っていたようです。草餅には女の子の祝いと母と子の健康を祈る意味があるといいます。

 しかし草餅をつく臼(うす)と杵(きね)の陰陽伝説から、ハハコグサを突くのは母と子を同じ臼でつくことになるとし、それを避けようする思想がおこり15世紀の室町時代あたりから材料をハハコグサからヨモギを使うように変わったということです。

 ハハコグサやヨモギは、両方とも薬草でありこの餅を食べると邪気がはらえて病気をしないというので節供以外、ふつうの日にも作られるようになったという。草もちを作りはじめたのは中国で、日本に伝来したのは9世紀のころといわれています。

 ちなみにヨモギはキク科ヨモギ属の多年草。モチグサ、藻草などとも呼ばれ、どこでも生えるので四方草(よもぎ)の名があります。食べると邪鬼をはらい寿命が延びると信じられていました。

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・耳の日(3日)

 3月3日は耳の日でもあります。「33」がみみに通じるところから決められた耳の愛護デーで、日本耳鼻咽喉科学会が厚生省と協議して1956(昭和31)年に制定。耳の重要性を広く知らせる催しをしたり、難聴者や耳の障害者を援護するための施設や救済運動を行います。

 3月3日にしたのは33の語呂合わせのほか、三重苦のヘレン・ケラーにサリバン女史が指導を始めた日でもあり、電話の発明者グラハム・ベルの誕生日を記念したのだともいわれています。

 耳には昔からいろいろないい伝えがあります。親しい人が死ぬ時はその時刻に耳鐘を聞くともいい、また一方の耳がかゆいと悪口をいわれているなどともいいます。

 また、福耳は七福神などからの連想であり、耳たぶに穴のあいた人というのは、実際には小さなくぼみくらいのものだが、これは親から子に遺伝するといわれ、ヘビをこわがらない人だなどといっていました。

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・啓蟄(6日ころ)

 カレンダーの3月6日ころのところに啓蟄(けいちつ)と書かれています。二十四節気のひとつで、土の中で冬眠していた虫が、春の暖かさに地面にはい出してくるという意味だそうです。

 二十四節気とは地球から太陽の動きが見える軌道(黄道)を24等分して、その季節にふさわしい名前をつけたもの。啓蟄は太陽の黄経(天球の太陽の位置)が345度の点をいうのだそうです。

 さらに3つに分けた七十二候では、啓蟄は第七候から第九候にあたります。第七候は3月6日から10日ころで「蟄虫(すごもりむし)戸を啓(ひら)く」ころ、第八候は11日から15日ころで「桃始めて咲く」ころ、第九候は16日から20日ころで「菜の虫蝶となる」ころなのだそうです。

 暦の上では虫が地上にはい出してくるような暖かさといっても、実際はまだまだ、関東以西では春分のころ、東北では4月中旬から下旬かろからが本当の啓蟄の陽気になるそうです。

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・春分の日(21日ころ)

 きょう春分の日(3月21日ころ)は祝日であり、春のお彼岸の中日です。これも二十四節気のひとつ。立春から数えて第4番目で黄経(天球の太陽の位置)が0になり、昼と夜の長さが同じになります。

 春分の「分」は「ひとし」と読むそうで、「呂氏春秋」という昔の本にも「この日や日夜分(ひと)し」と出てきます。春の真ん中の日で、太陽も真東から昇り真西に沈みます。暑さ寒さも彼岸までというように、この日を境に昼間がだんだん長く、また気温も上昇します。

 また春分の日は、自由と平和を求める国民こぞって祝う日として1948(昭和23)年、「国民の祝日に関する法律」によって制定されています。その趣旨は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」となっています。

 二十四節気をさらに分けた七十二候では、春分は第十候から第十二候となっています。第十候は新暦3月21日ころで「雀始めて巣をつくる」ころ、第十一候は26日から30日ころで「サクラ始めて開く」ころ、第十二候は3月31日から4月4日ころで「雷(かみなり)声を発す」ころだそうです。

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・春のお彼岸(21日ころ)

 春分の日(3月21日ころ)と秋分の日(9月21日ころ)を中日として、その前後の3日と中日を入れて7日間を春の彼岸(ひがん)、秋の彼岸といっています。初日を「彼岸入り」最終日を「彼岸あけ」といっています。

 彼岸とは、文字通り彼方の岸・向こう岸のことで、悟りの世界をいうそうです。生死の境をこちらの岸・此岸(しがん)といい、欲望や悩みの世界の此岸を離れ彼岸に到達するという意味のようです。

 彼岸のお中日が、先祖の供養の日となったのは、仏教の西方浄土説に春分の日の太陽がちょうど真西に沈むことから結びついたものともいわれています。日本で初めて彼岸をまつったのは平安時代の延暦25年(806)といわれています。しかしこの彼岸会(ひがんえ)の法要は日本だけのものとの説もあります。

 お彼岸には、ぼた餅や団子(だんご)をつくって墓参りをします。ところで秋の彼岸にもぼた餅をつくりますよね。「ぼた餅」と「おはぎ」は同じものですが、春につくるものをぼた餅、秋の彼岸につくるものをおはぎというのだそうです。

 団子は奈良・平安時代に中国から入ってきた団喜(だんき)というものがもとになっていて、のち粉を練って餅をつくるようになってから分離したと伝えます。

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・卒業式

 いまごろの時期になるとあちこちで卒業式が行われ「蛍の光」の曲を耳にします。「蛍の光」の原曲はスコットランド民謡「久しき昔」で作曲者不明。この曲に同じスコットランドの詩人ロバート・バーンズが詩をつけて1794年に発表したAuld Lang Syne(「久しき昔」または「過ぎ去った日」)。これがイギリスやフランスで送別歌として普及したという。

 日本では、1881(明治14)年に文部省の音楽取調掛(とりしらべがかり)という物凄い名前の人たちが編集した「小学唱歌集」初編に「螢」(難しい方の字)の題で掲載されました。作詞は「音楽取調掛」の稲垣千頴、加部巌夫、里見義のうちの一人らしいが記録は残っていないといいます。もとの歌詞はかなり軍国主義的な内容だったそうです。

 また「仰げば尊し」もスコットランド民謡で、明治17年教育用歌曲の教材として「小学校唱歌集」第3篇に集録されたものということです。

 日本の小学校の全科終了卒業第1号は、1878(明治11)年の卒業生で、いずれも8年を6年で終えた秀才たちばかり。この天才たちは東京・港区の梅田みち、坂部こま、宮崎政吉、和田萬吉、台東区の嵯峨公勝の5人で、当時の小学校は上等4年、下等4年の8年制でしたが成績次第でどんどん進級出来たのだそうです。この人たちは末はいずれも名のある文化人になったということです。

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・通知表

 学期末にもらう通知表は通信簿ともいい、学校が幼児・児童・生徒の教科の成績や日常生活の記録などをまとめ、幼児・児童・生徒本人やその父母に通知します。しかし、法定表簿である指導要録とは異なり、その作成は学校の任意であるため、通知表を発行しない学校もあるそうです。

 通知表の最初は明治24年(1891)に公布した「小学校教則大綱」でできた「定期試験点数ならびに勤惰(きんだ)行状表・生徒成績表」というスゴイもの。大正時代になると、名前も「児童手帳」になり通信簿の廃止も叫ばれるようになります。

 昭和は第2次大戦ということもあり、学校も国民学校になり、通知表も「国民学校手帳・児童手帳」と変わります。戦後は通知表として五段階相対評価がふつうになりましたが個人の能力を中心に三段階で評価する学校もふえていきました。

 通知表の名前も各学校によって異なり、通知票・通信票・通信表・通信簿・のびゆく子・私のあゆみ・かがやき・のびゆくすがたなどさまざまなようです。

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・社 日(春分近くの戊)

 春分や秋分に近い戊(つちのえ)の日を社日(しゃにち)といい、もちやだんごを供え地神(田の神)をまつります。社日とは雑節のひとつで、産土神(うぶすながみ・生まれた土地の守護神)をまつる日になっています。社日は春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃとかはるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃとかあきしゃ)といっています。

 昔はこの日は地の神の休息日だとして、鍬(くわ)や鎌などを使うのをやめ、また土を掘り返すと悪いことがおきるなどと信じられていました。

 これはもともと古代中国からつたわった行事で、社とは土地の守護神・土の神のことで、守護神のまつりを営む日だという。しかし民間の習俗は必ずしも社日に関係なく、地神祭、農神祭の日も地方によってさまざまに行われているそうです。

 社日は「お社日さま」(長野県小県郡)とか、社日がなまって「さじの日」(大分県日田地方)とか、「お地神さま」(徳島県)とか地方によっていろいろに呼ばれているようです。

 この日は産土神に詣で、春の社日には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋の社日にはその年の収獲に感謝します。また春の社日にお酒を飲むと耳がよくなるという風習があります。このお酒を治聾酒(じろうしゅ)と呼ぶそうです。

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・3月 その他の行事

▼深大寺だるま市(3,4日)
 東京都調布市深大寺町。数十軒のだるま売りの店がならびます。威勢のよいかけ声で数万個のだるまが取り引きされます。

▼鹿島神宮祭頭祭(9日)
 茨城県鹿島郡鹿島町。よろいかぶとをつけた総大将を先頭にして若者たちがほら貝、祭りの歌、太鼓といっしょに六尺棒をつきながらねり歩きます。

▼二月堂お水取り(12日〜14日)
 奈良県東大寺の行事。もとは2月でしたが、いまは3月に行われる修二月会(しゅうにがつえ)、略して修二会(しゅうにえ)の中のひとつの行法です。ふりまわす大きなかご松明から落ちる火の粉を浴びて災い除(よ)けしようと大群衆がもみ合います。 

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▼春日大社春日祭(13日)
奈良市。藤原氏全盛時代そのままにかずかずの儀式がくりひろげられます。

▼高尾山火渡り大祭(13日)
 東京都八王子市高尾町。護摩木(なでき)をたき、その上を山伏や信者が裸足で火渡りをします。

▼アマメハギ(22日)
 石川県内浦町。青年たちが天狗や猿などの仮装をして家々をまわります。子どもたちを脅かしながらお祓いをして餅をもらいます。

▼豊川稲荷初午祭(26日)
 日本3大稲荷のひとつ。福徳開運・商売繁盛を祈る人たちでにぎわいます。

▼阿蘇神社泥打祭(28日)
 石川県菅生(すごう)町。田の神の役の人に泥をぬりつけ豊作を祈ります。

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(3月終わり)

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