第11章 近畿の山々

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▼中 扉

【近畿の山々】 このページの目次
・伊吹山のヤマトタケル像
・葛城山系岩橋山の岩橋の作りかけ
・奈良金剛山の蛇谷の一言主神
・大峰山脈弥山の天河神社奥宮
・大峰山脈山上ヶ岳役ノ行者
・大峰山脈前鬼後鬼
・大台ヶ原日出ヶ岳の一本ただら
・和歌山県高野山の高林坊天狗
・南紀法師山幻のニホンオオカミ
・近畿の山 参考文献・ご協力

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■伊吹山の日本武尊蔵

 滋賀と岐阜の間にそびえる伊吹山(1377m)は、伊吹山地の
南端にある主峰で、奈良時代に開山され、山岳信仰の聖地として知
られています。平安時代には七高山のひとつにも数えられたといい
ます。「古事記」や「日本書紀」にも登場し、日本武尊(ヤマトタケル)
と関係の深い山で、役ノ行者、行基なども登ったと伝えられています。

 東北まで平定し、尾張にもどった武尊は、近江の伊吹山に悪神が
いると聞き、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を美夜受比売(みやずひ
め)にあずけ、素手で立ち向かったが、たちまち山の神の化身であ
る大蛇の妖気当たり(神の降らす氷雨に惑わされ)、意識を失って
しまいました。

 居寤清泉(いさめのしみず・醒ヶ井)でいったん回復したのち、
たぎ野、杖衝坂と、杖を突きながら進むにつれ疲労は増して、三重
に着いたときは足が「三重」に折れるような状態で、能褒野(のぼ
の・鈴鹿市)に着き、大和の国をしのび「思国歌(くにしのびうた)」
を詠んで息絶えたとつたえています。

伊吹山頂には、ユニークな四等身くらいの日本武尊の石像がまつ
られています。

 伊吹山の「イブキ」は、古来、荒ぶる山神が山気や霊気を吐いて、
息づく(息吹き)を意味する恐れられた山。鎌倉時代にも、悪業を
働いたとして佐々木信綱に討たれた柏原庄(いまの滋賀県山東町)
の柏原弥三郎為長の霊が伊吹山に宿っているという。

 この山の妖怪・伊吹童子(伊吹弥三郎)は、弥三郎為長の霊だと
され、室町中期の「三国伝記」(巻六の六)「飛行上人ノ事付伊吹弥
三郎殿事」には、妖怪は飛行上人の名で登場し、天狗だともいわれ
ています。

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 飛行上人は別名を三朱上人と呼ばれ、三朱分(四分の三匁)の身
の軽さでどこへでもふわふわと飛んでいけたといいます。またかつ
てはこの山には近江側から夜間登山をする習慣があったという。

 伊吹山は植物の宝庫でもあり、1700種もの植物が自生してお
り、イブキトラノオなど名前の頭にイブキのつくものも多い。とく
に薬草の「伊吹もぐさ」は、昔から近江名物になっています。以前、
このもぐさを山頂の売店で購入し、家に帰りさっそく風呂に入れま
したが、強烈な臭いが鼻につきます。中学生の娘にさんざん怒られ
たことがあります。

・滋賀県伊吹町と岐阜県春日村との境 JR東海道本線関ヶ原駅か
らバスで伊吹山頂 2万5千分の1地形図「関ヶ原」

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第11章

 

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■奈良県葛城山系・岩橋山の岩橋

 修験道の祖・役(えん)ノ行者小角(おづぬ)が修行した山とし
て知られる奈良県と大阪府にまたがる金剛(こんごう)山や葛城(か
つらぎ)山。その大和(やまと)葛城山系に「久米(くめ)の岩橋」
と呼ばれる場所があります。

 この山系で修行をした役ノ行者は、吉野金峰山(きんぷせん)か
ら大峰山にも入峰するようになりました。それを見習いこの二大聖
地を目指して修行に入る人たちが次第に多くなってきます。そこで
行者は、葛城山と金峰山の間の空中に岩で橋を架けて行き来させよ
うと考えました。

 さっそく従者の前鬼(ぜんき)後鬼(ごき)を全国の山々に向か
わせ、そこにすむ天狗や鬼神を召集させ、岩で橋を架けることを命
じました。

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 その時集まった天狗たちは京都愛宕山(あたごさん)太郎坊、同
鞍馬山僧正坊(そうじょうぼう)、滋賀比良山次郎坊、長野飯綱三郎
(いづなのさぶろう)、富士太郎、上野(こうずけ)妙義坊、相模大山
伯耆坊(ほうきぼう)、秋葉山三尺坊、など二十一狗におよぶと、天
狗ぞろいの連名を「天狗の研究」は、「役行者御伝記」』から抜粋、紹
介しています。

 鬼神たちは、この強引な命令に嘆いたが行者に責めたてられ、仕
方なく大石を運び集めて橋を架けはじめました。「今昔物語」の「役
優婆塞誦持呪駆鬼神語第三(えのうばそくしゅをじゅぢしてきじん
をかることだいさむ)」の項に「鬼神等優婆塞ニ申シテ曰ク、我等
形極メテ見苦シ。然(しか)レバ、夜夜(よなよな)隠レテ此ノ橋
ヲ造リ渡サム、ト云(いひ)テ、夜夜(よなよな)急ギ造ルヲ、優
婆塞、葛木(かづらぎ)ノ一言主(ひとことぬし)ノ神ヲ召シテ曰
ク、汝(なむ)ヂ、何ノ恥ノ有レバ形ヲバ隠スベキゾ」。(すると一
言主の神は反発して)「然(しか)ラバ、凡(おほよ)ソ不可造渡
(つくりわたすべからず)」ト云(いふ)ヲ、嗔(いか)リテ、呪(し
ゅ)ヲ以(もっ)テ神ヲ縛(しばり)テ、谷ノ底ニ置キツ」とあり
ます。

 早い話が、「私たちは姿形が見苦しいため、暗い夜に隠れて働き
たい」という天狗や鬼神たちを役ノ行者は叱りつけ、「早く作れ、
もっと働け」と責め立てた。怒った一言主の神は「それじゃ、こん
なものやってられねえッ」と反発、仕事を放り出しました。怒った
役ノ行者は一言主の神に呪文をかけて、クズのつるで7周りまいて
縛り、谷底に捨ててしまいました。

 それを恨んだ一言主神が、都人(みやこびと)の心に取りつき「行
者が謀反を謀っている」と朝廷に讒言。あわてた朝廷は小角を伊豆
の大島に配流させてしまった(「日本霊異記」)ため、岩橋は未完成
に終わったという。岩橋山の「久米の岩橋」は、その時の橋のたも
とだといい、それらしい大岩が吉野の方に向かって積まれています。
ちなみに吉野側にも葛城方面への橋のたもとがあると聞きますがま
だ確認していません。

・奈良県当麻町と大阪府河南町との境 近鉄南大阪線尺土駅から歩
いて2時間30分で岩橋山 2万5千分の1地形図「五所」

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第11章

 

 

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■奈良・金剛山の蛇谷

 奈良県と大阪の県境に連なる金剛山(1125m)や大和葛城山
(昔はこの辺り一帯をただ葛城山といった)は、各地の山の開祖・
役ノ行者の修行の場として有名である。金剛山から東側の御所市へ
と流れる「蛇谷」があります。

 一方、蛇谷の北側には全国の一言主神社の総本山・葛城一言主神
社があります。この神社は「古事記」にも登場するほど古く、同書
「下つ巻・雄略天皇条」に天皇が葛城山に登っていたところ、向か
い側の尾根を同じ格好をして登ってくる者がいます。名を聞くと一
言主大神だというので、天皇は恐縮し太刀、弓矢、衣服などを献上
したという。

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 これほどの神でありながら、わずか200年後の695(持統9)
年、役ノ行者に鬼として使役されているのですから、その落ちぶれ
方はあまりにもひどすぎます。

 葛城山と金峰山に渡す「岩橋造り」で、一言主の神は鬼として使
役されたとき、行者の怒りにふれ葛の蔓で7巻きも縛られ、谷底に
置き去りにされた。その後、白山開創の祖で、「越の大徳」といわ
れる泰澄が、その声を聞き、一言主の結わえつけを解こうと願い、
試みにねんごろに加持祈祷したら、3回目に早くも解けてしまった
という。ところが暗闇の中から泰澄を叱る声があって、蔓は元通り
縛られていたという。

 一言主神が、どんな手を尽くしても葛を解くことができず、その
苦しいうなり叫ぶ声は幾年たってもまだ絶えていないと伝えていま
す。なかには一言主神は長さ2丈半ばかりの黒ヘビにされ、いまで
は行者を恨む気力もなくなってしまったというものさえあります
(「役行者本記」)。同書はその谷こそ金剛山東方・御所市西にある
「蛇谷」だとしています。(「本朝神仙伝」では吉野になっています)。

 かつて葛城山頂にあったという一言主神社は、いまは同市森脇地
区に祀られ、参拝者に「いちごんさん」と親しまれ、「一陽来復」
ののぼりがはためいていました。

・奈良県御所市 JR和歌山線、近鉄南大阪線五所駅から歩いて3
時間45分で金剛山 2万5千分の1地形図「御所」

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第11章

 

 

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■大峰山脈・弥山の天河神社奥宮

 大峰山脈は紀伊山地中央部を南北に約50キロ、1200m以上
の山々が、約50座も連なる大山脈。吉野から熊野までの山中に山
伏修法の地が75ヶ所あり、七十五靡(なびき)と呼んでいます。
熊野から吉野への入峰(にゅうぶ)を順峰(じゅんぶ)、その反対
を逆峰(ぎゃくぶ)といっています。

 弥山(みせん・1895m)は七十五靡の54番目の霊場で、熊
野からここまでを金剛界とし、これから吉野間を胎蔵界といってい
ます。山頂は樹林に囲まれた広場に弥山神社が鎮座していて、北東
の坪内集落の天河弁財天(てんかわべんざいてん)の奥宮になって
います。天河弁財天は、山と水を根源とした弥山の神への信仰から
発したという。

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 本堂はたびたび火災にあい、明和5(1768)年の火災の後改
築しましたが、明治の神仏分離令で天河神社と改称。祭神も市杵島
姫命(いちきしまひめのみこと)など三柱に変更しましたが、いま
でも日本三弁天のひとつとして近隣の崇敬を受けています。ちなみ
に市杵島は神霊をまつる島の意味で、安芸の厳島神社のイツクシマ
は市杵島から誕生したものだそうです。

 奥宮は役ノ行者の足跡を慕い、回峰の道を開拓した理源大師が弥
山山頂に宿坊と弁財天を祭神に弥山神社を建立したのがはじまりと
いう。

 「大峰七十五靡奥駈修行記」に、「山頂に小さな池があり、新客
は手を入れて用いると渇水する霊地なり。先達より水を受ける霊水
なり。役ノ行者大峰開山の時最初観見した弁財天なり。次に山上で
初め地蔵菩薩が出現し給うに、われの守護には弱しとして三十七の
行により、蔵王権現が現出給う。これこそわが守護権現とし、第一
の守護の本尊とす。註に弁財天は母親で地蔵尊は父親、蔵王権現は
先祖なり」とあります。

 ある年、熊野から順峰の道順を歩き弥山を訪れました。八経ヶ岳
から弥山に着いたとたんに土砂降りの雨。奥宮参拝もそこそこにテ
ントにもぐり込みましたが、中は水浸しでふき取るのに骨がおれま
す。

 やっと落ちついたところで、傘をさして小屋に水を貰いに行った
ら小屋番がのんびりとテレビを見ていたのが印象にあります。雨は
一晩中勢いが衰えず、翌朝、小池がどこにあるのか確認するどころ
ではなく、篠つく雨のなかテントを畳んで飛び出しました。

 しかし、雨は止まず歩き出しはしましたが、篠つく雨に天川辻の
行者還小屋に逃げ込みました。このあたりは谷からの強風が弥山に
当たり吹き込む名所。壊れかかった小屋は一晩中荒れて、近くを通
る送電線がうなり続けていました。

・奈良県天川村、上北山村との境 近鉄吉野線下市口駅からバス、
天川川合から歩いて時間310分で弥山(1895m) 2万5千分の
1地形図「弥山」

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第11章

 

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■大峰山脈・山上ヶ岳の役行者像

 山上ヶ岳(1719m)はいまだに女人禁制を守る修験道の聖地
(いずれ近いうち解禁されるらしいと小耳にはさんだ)。山頂には
役ノ行者が厳しい修行の末に感得した蔵王権現を祭る大峰山寺(お
おみねさんじ)があり、峰々各所にある拝所にはいたる所に前鬼、
後鬼を従えた行者の石像が建っています。

 役ノ行者は本名役小角(おづぬ)で、修験道の開祖とされ、全国
80数座の山々を開いたと伝えられています。父は賀茂公大角(か
ものきみおおづぬ)といい、葛城山の神託を朝廷に奏上する呪術者
でした。634年(飛鳥時代)、いまの奈良県御所市茅原の吉祥草
寺(きちじょうそうじ)で生まれました。

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 吉祥草寺は、JR和歌山本線玉手駅(たまでえき)からほどない
ところにある茅原山金剛寿院(ちばらさんこんごうじいん)と号す
本山修験宗大本山。境内には、本堂のほかに開山堂、観音堂、鎮守
社があり、いまでも行者が浸かった産湯の井戸や腰掛け石などがあ
ります。

 子供のころから他の子供と遊ばず、ひとり石を拾っては仏像や仏
塔を造っていたという。13歳のころから、葛城山(金剛山)に入
り、山の霊気と一体となり、家に帰らない日も多かったという。3
9歳のころ信貴山(しぎさん)にすむ2匹の鬼を従者にし、金峰山
菊丈窟(きんぷせんきくじょうくつ)で千日間の修行の末、蔵王権
現を感得しました。各地にある蔵王、金峰などの山名はここにちな
んでいます。

 62歳(伝記によっては64歳)の時の「岩橋造り」で、一言主
神(ひとことぬしのかみ・行者の弟子の唐国広足だとする説あり)
に行者が世の中の転覆をたくらんでいると朝廷に讒奏されます。驚
いた朝廷は追手を向けますが、行者が空中を自由に飛び回り捕らえ
られません。そこでかわりに母親を捕らえたところ、親孝行な行者
は自ら縄についたという。

 こうして伊豆大島に流された行者は、昼間は朝廷の命に服しては
いるが、夜になると波をけり、富士山に登って修行した(「日本霊
異記」「扶桑略記」)。その後許された行者は、母親を鉢に乗せ唐へ
飛び立ったという。

 そんなことから「本朝神仙伝」は37人中、5番目の仙人にあげ
ています。江戸後期になると朝廷から「神変大菩薩」の称号が送ら
れ、いま山上ヶ岳大峰山寺わきに「神変大菩薩壹千貳百年御遠忌」
の像が建っています。

・奈良県天川村 近鉄吉野線下市口からバス、洞川から歩いて3時
間30分で山上ヶ岳(1719m) 2万5千分の1地形図「弥山」

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第11章

 

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■大峰山脈・前鬼後鬼

 各地の山々に見られる役行者像に必ずといっていいほど、2匹の
鬼がついています。修験道の総本山・山上ヶ岳の神札にも行者を守
る2鬼の姿が描かれていいます。

 2匹の鬼・前鬼、後鬼は兄弟だとも、また夫婦で、前鬼は赤目で
斧を持ち、後鬼は黄色い口をしています。酒を飲み赤い目をして歌
う夫鬼を、黄色い口を開けて笑う女房鬼をあらわしているのだとい
う。

 この鬼たちはもともと、大阪市と奈良・生駒市との境にある生駒
山(いこまやま)にすみ、通る旅人を襲っていた盗賊だという説も
あります。

 役ノ行者16歳(21歳とも39歳ともいう)の時、生駒山の南
にある信貴山(しぎさん)で修行中、身の丈3m、口から牙が生え
た2匹の鬼が邪魔をします。行者は飛天の術で鬼を追いかけ、生駒
山南東の奈良県側で捕まえ引きずって南西の大阪側にいき、鬼の髪
を切って妖力を封じ込めます。

 その鬼を捕まえた所が、生駒市の「鬼取りの里」で、髪を切った
所が東大阪市の「髪切りの里」だといいます。それぞれの場所に鬼
取山鶴林寺、髪切り山慈光寺というお寺があります。

 こうして折伏された前鬼、後鬼(前童鬼、妙童鬼とする書もある)
は、役ノ行者の修行を妨げるものを排除する忠実な従者となりまし
た。のち2鬼は行者の遺言により、大峰の行場を守ることに生涯を
かけ、峰入り道の吉野、熊野の境界に「前鬼の里」を開き、そこを
住処に天狗となって山を護り続けていると伝承されています。

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 その子孫は、江戸時代までに5家に分かれ、鬼熊、鬼上、鬼継、
鬼助、鬼童の姓を名のり、まとめて「五鬼」と称していました。前
鬼の里は、南側が切り開かれた気持ちのいい場所にありました。

 行者堂が石垣に囲まれていていまは1軒だけになった「小仲坊」
の旧坊の横に真新しい宿坊も建っています。裏山には、かつてあっ
た5家の石垣の屋敷跡が残っていて、各屋敷の説明板もあり、昔の
面影をいまに残しています。

・奈良県上北山村 近鉄吉野線大和上市駅からバス、前鬼口から歩
いて3時間で前鬼の里 2万5千分の1地形図「釈迦ヶ岳」

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第11章

 

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■大台ヶ原・日出ヶ岳の牛石

 大台ヶ原は、北は高見山から発して奈良・三重県境を走る台高山
脈の主峰で、山上は牛石ヶ原、正木ヶ原などの台地があり、絶壁の
大蛇ー(だいじゃぐらや)千石ーなど奇景をなしています。

 大台ヶ原は昔から魔性の棲む山として地元から恐れられ、近寄ら
なかった地域だという。現在、駐車場近くに大台教会が建っていま
すが、これは明治32(1899)年に古川嵩という人が開設した
ものという。

 大台ヶ原の最高峰の日出ヶ岳(1695m)は、年間雨量510
0ミリを越す日本の最多雨地帯で、山頂東側に宮川ダム管理事務所
が設置した雨量観測所があります。紅葉の見事な秋に大台ヶ原の駐
車場から日出ヶ岳に登ったことがありました。

 頂上のコンクリートの展望台から大杉谷に下ったのですが、途中
で大雨にあい、坂の途中の樹林の下でビバーク。一晩中滝のような
雨にテントをたたかれたことがあります。

 大蛇ーは大台ヶ原南斜面にあり、岩が階段状に標高差1000m
の東ノ川の谷底まで落ち込む大絶壁の絶景。しかし当日はあいにく
ガスで景色は望めませんでした。東大台の大蛇ーへの入口あたりの
牛石ヶ原は大禿ともいい、神武天皇の像がの近くの牛石は「一本た
だら」の伝説が残っています。

 昔、このあたりはさまざまな妖怪の住処だったという。ある日修
行僧がやってきて妖怪たちを牛石に封じ込めたが、一本足で一つ目
の「一本ただら」だけが(伯母峰?へ)逃げだしました。

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 妖怪は年1回、旅人を襲います。猟師が死闘の末、撃ち取ってみ
たところ、正体は背中に笹を生やした大イノシシだったと伝えていま
す。

 「登大台山記」という古書に、大禿(おおはげ)に牛石(圧石・
おんいし)があり、そこは昔、役ノ行者が牛鬼を押さえた場所で、
そのふせ残りを理源大師が封じ込めた石だという。この牛石にさわ
る者れば白日瞑闇になり「咫尺モ弁ゼザル」にいたるといい、猟師
も恐れて近よらず、と記しています。

・奈良県上北山村と三重県宮川村との境 近鉄吉野線大和上市駅か
らバス、大台ヶ原から歩いて牛石ヶ原経由3時間で日出ヶ岳(16
95m) 2万5千分の1地形図「日出ヶ岳」

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第11章

 

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■和歌山県高野山・楊柳山の高林坊天狗

 弘法大師空海が開創した高野山は、真言宗の根本道場として、総
本山金剛峰寺(こんごうぶじ)を中心に18平方キロmの聖地が広
がっています。

 弘法大師開山当時の、高野の山々や谷々には、それぞれ護法の山
神や地主神、天狗たちが参拝の善男善女を守るために配されていた
らしい。それは天狗山、天狗木、天狗岩などが多いことから知られ
ます。

 そのなかに高林坊という護法天狗がいることになっています。高
林坊は、伝承も少なく地味ではあるがその貫禄から、空海を山上に
導いたその土地の地主神・狩場明神(かりばみょうじん)ではない
かと、天狗の研究家はいっています。

 狩場明神は、丹生明神(にゅうみょうじん)を母とする御子神(み
こがみ)だといい、両神はいっしょにまつられていることが多い。
ここ奈良県五條市のJR和歌山線大和二見駅南西にある犬飼山転法
輪寺(てんぽうりんじ)は、弘法大師と狩場明神が出会ったところ
とされていて、境内には狩場明神社がまつられています。

 伝説によると弘法大師ははじめ、入唐して業なり帰朝の船に乗る
とき、持っていた三鈷杵(さんこしょ)に願いをこめて、わが密教
が日本に渡れるならば、この杵を先に渡すから、布教をするにふさ
わしい霊地を見つけておいてくれるよう杵を海のなかに放ったとい
う。

 815(弘仁6)年(「今昔物語」では816・弘仁7年)、狩場
明神と出会った弘法大師は、明神の使者である黒白2匹の犬の案内
で、かつて海に放った三鈷杵のあるところ・高野山にたどり着くこ
とができたという。その黒白2匹の犬は、こま犬として鳥居のそば
に建立され、また金剛峰寺や京都東寺には犬を連れた明神の画像も
収蔵されています。

 「今昔物語」(巻十一第二十五)では「“我ガ唐ニシテ擲ゲシ所ノ
三鈷落タラム所ヲ尋ム”ト思テ、弘仁七年トイウ年ノ六月ニ、王城
ヲ出テ尋ヌルニ、大和ノ国宇智ノ郡ニ至リテ一人ノ猟ノ人ニ会イヌ。
其形、面赤クシテ長(たけ)八尺許リ也。青キ色ノ小袖ヲ着セリ、
骨高ク筋太シ。弓箭ヲ以テ身帯セリ。大小ノ黒キ犬ヲ具セリ」とあ
ります。

 連れていたのは黒い大小の犬だとしています。ほかの本でも説明
と図版で違っていたりかなり混乱が生じています。しかし、それは
ソレ、遠ーい昔のこと。あまり気にしないでいきたいものです。

 さらに「今昔物語」は続きます。弘法大師が、かつて投げた三鈷
杵のあるところを探しているのを知ると、漁師はそこを知っている
という。早速猟師の案内で紀州堺の紀ノ川のほとりに来ると、また
ひとりの山人に出会います。

 大師はまた杵のことを尋ねると「ここから南の山中に盆地がある。
杵はそこにある」とのこと。翌朝3人で歩きながら話すには、「実
は自分はその山の主であるが、今日から領地は全部師に奉ります」
という。

 しばらく行くと、大きな杉の股に彼の杵が突き刺さっていました。
大師は、こここそ心にかなった霊地と知り、山人に名を聞くと「丹
生の明神と申す。また猟師は高野の明神でござると」いうなり、ふ
たりの姿は消えたという。

 この「今昔物語」の中の漁師の姿の説明が、原初の山神の化生し
た天狗の姿を彷彿とさせており、高野山の大物天狗・高林坊は、こ
の高野山の地主神・狩場明神に間違いないだろうと天狗の研究者は
推測しています。

 この弘法大師と狩場明神の出会いで高野山神領地の土地借用書の
話があります。明神から神領地を10年の約束で借り受けた弘法大
師は、あとでひそかに「十」の字の上にカタカナのノの点を打ち「千
年」にしてしまったというのです。こんなことを聞くと近寄りがた
い大師も急に親近感が湧いてきます。当時から1300年の年月が
過ぎています。大師さま、今度はどうされました?

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さて、南海電鉄極楽橋駅から不動坂を登りつめたあたりに女人堂
があります。その向かい側のほそい階段を登り、30分ぐらいで弁
天岳につきます。山頂には岳の弁財天社があって境内に金剛童子社、
荒神社が祭られています。

 この岳弁財天について「紀州名所図会」に「昔、大師来世の福田
のために、如意珠を此峰に埋み、宝瓶を安置し、天女を勧請して財
福を乞ひ給ふ。其ののち、天狗妙音坊この嶽を守護すといふ」とあ
ります。女神である技芸天女弁財天を守るための天狗だけあって、
さすがにやさしい名前です。

 高野山奥ノ院は、広野三山の懐に抱かれた聖地中の聖地。参道に
は織田信長、明智光秀、上杉謙信、武田信玄などの墓がズラーッと
ならんでいます。三山のひとつ楊柳山直下の水場に幕営。深い闇に
高林坊を感じようと耳をすますが、感じるのは小動物の気配ばかり。
今回も天狗さまはまるで相手にしてくれないらしい。

 空海は始め、奥秩父山梨県の瑞牆山(みずがきやま)に霊場を開
こうとしたが、そのあたりには「八百八谷」がないためあきらめ、
和歌山県に行ったという伝承もあります。

・和歌山県高野町 南海電鉄極楽橋駅からケーブル、バスで奥ノ院
 2万5千分の1地形図「高野山」

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第11章

 

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■南紀法師山・幻のニホンオオカミ

 すでに絶滅したはずのニホンオオカミ。最近なにかと話題になり、
またカメラにおさめたという人もいて、その誘い出し作戦も行われ
ています。

 1905(明治38)年、奈良県東吉野村鷲家口(わしけぐち)
で大英博物館から派遣されたマルコム・アンダーソンが、猟師から
若い雄のオオカミの死がいを購入、イギリスへ送りました。これが
日本での最後のニホンオオカミ。

 以後ニホンオオカミは、絶滅したされてきました。ところがその
後姿を見たとか、吠える声を聞いたなどの情報が多く寄せられてい
ます。そこで全国の愛好家が集まり、1993年に「日本オオカミ
協会」を設立。その第2回目の誘い出し作戦が、1995年3月2
5、26日和歌山県大塔山系法師山(1120m)で行われるとい
うので参加してみました。

 大塔村(いまは五條市)の地名は、南北朝時代大塔宮護良親王が、
当地に逃れた故事によっているところ。原生林が続くこの山系にも
オオカミのうわさが後を絶たず、「ニホンオオカミ生存の可能性は
十分ある」と、作戦の主催者「紀伊半島ニホンオオカミ研究会」の
グループは主張します。

 法師山は360度の展望で、大島(串本町)から日ノ御埼(美浜
町)、大峰山系、また富士山を望める一番南に位置する山とも聞き
ます。「紀伊続風土記」には「山峰他峰よりすぐれて其頂を顕すを
以て名つくなり」とあります。

 3月は、ニホンオオカミの発情期の終わりに当たって、誘い出し
にはよい時期という。山頂からカナダオオカミの遠吠えのテープを
一晩中流し続け、手前のコルでその反応を録音しようというもので
した。

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 機材運搬の際、持ってきた豚のレバーを、けもの道やニホンオオ
カミの出そうな谷に投げ込んでいきます。

 夜、雨が本降りになり、やがて雪に変わりました。暖かいこの地
方では滅多にない積もり方だという。

 翌朝、白銀の山頂で機材の撤収が続きます。録音テープには、残
念ながら雨の音に混じってジェット機の爆音が入っていただけ。雪
の登山道に群生するバイカオウレンの花が寒そうに咲いていまし
た。

・和歌山県大塔村 JR紀勢本線紀伊田辺駅からタクシー、大塔村
木守から歩いて2時間で法師山(1120m) 2万5千分の1地形図
「木守」

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第11章

 

 

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■近畿の山々 参考文献 ご協力

「紀伊続風土記」 仁井田好古ほか編 1839年(天保10)・紀
伊国地誌。
「高野山の山岳伝承」日野西真定(「山岳宗教史研究叢書・16」名
著出版 所収)
「伊吹山の山岳伝承」中川義昭(「山岳宗教史研究叢書・16」名著
出版 所収)
「葛城山系の山岳伝承」中西政一郎(「山岳宗教史研究叢書・16」
名著出版 所収)
「吉野・大峰の山岳伝承」岸田定雄(「山岳宗教史研究叢書・16」
名著出版 所収)
「役行者伝記集成」銭谷武平(東方出版)
「紀和山脈縦走」北尾鐐之助(「山岳宗教史研究叢書・7」名著出
版 所収)
「金峰山の伝統と発展」村上俊雄(「山岳宗教史研究叢書・7」名
著出版 所収)
「大峰七十五靡奥駆修行記」(「山岳宗教史研究叢書・18」名著出版
 所収)
「高野山における丹生・高野両明神」景山春樹(「山岳宗教史研究
叢書・3」名著出版 所収)
「台高山脈とその伊勢側の谷々」山口政一(「日本山岳風土記・7」
宝文館 所収)
「吉野拾遺」松翁(「群書類従」第27輯・雑部・第485 所収)


▼協力
和歌山県南部川村(いまはみなべ町)教育委員会
紀伊半島オオカミ研究会

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第11章

 

(第11章 終わり)

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