第10章 南アルプスとその周辺

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▼中 扉

【南アルプスとその周辺】 このページの目次
・夜叉神峠の夜叉神
・鳳凰三山地蔵ヶ岳の子授け地蔵
・甲斐駒の駒ヶ岳神社
・甲斐駒黒戸尾根の刀利(とうり)天狗
・北岳の大日如来
・農鳥岳大町桂月の歌碑
・荒川三山東岳のホコラ
・赤石岳大名登山と荒川小屋
・赤石岳幻のホコラ
・光岳の光る岩峰
・南ア展望台大日峠の大日如来
・南アルプスとその周辺の山 参考文献・ご協力

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■夜叉神峠の夜叉神の祠

 夜叉神峠は、高谷山(たかたにやま)と大崖頭山(おおくずれあ
たまやま)との鞍部にある峠で、昔村人はこの峠を越えて野呂川に
入り小屋に泊まり込みで炭焼きをしたり、木材をいかだで麓に運ん
だといいます。

 夜叉は神通力を自由にあやつる、インド古代ヴェータ聖典以来の
半神半鬼。その後、仏教に取り入れられ、毘沙門天の眷属として人
間を助け、また利益を与えるようになってもその激しい性格は変わ
らず、信仰心のないものには害をおよぼすたたり神だそうです。

 特に「女夜叉」は凶悪な性格で、人間の血や肉を平気で喰らうと
いうからオッカナイ。

 ここ南アルプスの入り口夜叉神峠は、白根三山の展望台で、夜叉
神峠小屋前からカラマツ林を通しての雪の白根山の眺めはとくにす
ばらしい。

 夜叉神峠には夜叉神の祠があってこんな伝説があります。桃ノ木
鉱泉のそばを流れる御勅使川(みだいがわ)の上流に、かつて暴れ
ん坊の神が住んでいたという。夜叉神と呼ばれるこの神は、疫病を
はやらせ、暴風を自由に使い、洪水を呼んで悪事悪業の仕放題。

 はじめは恐れおののいていた村人も、ついに我慢できなくなり相談
の末、夜叉神をまつりあげ、御勅使川が望めるこの峠に石祠を建てて
封じ込めてしまいました。それからは災害はピタリとなくなり、いまは
豊作の神、縁結びの神になっています。

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 夜叉神峠小屋の前はヤナギランがまっさかりでした。石祠はそこ
からちょっと離れた広場に山の神の祠と仲良くならんでいました。
中には木のお札がまつられ、誰かがあげたさい銭を前に白根三山に
向かっています。

 山を下りての帰り、甲府の駅で夜叉神の民芸品をみつけました。さっ
そく求めていまも居間に飾ってあります。

 峠名の由来には異説もあって、かつてこの峠付近には、床柱や挽
き物細工に使うヤシャブシというハンノキ科の落葉小高木がたくさ
ん生えていて、ヤシャブシ林の「りん」が「ジン」になまってヤシ
ャジンになったともいわれています。ほんとかいな。

・山梨県南アルプス市 JR中央本線甲府駅からバス、夜叉神峠入
口から歩いて1時間15分 2万5千分の1地形図「夜叉神峠」

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第10章

 

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■鳳凰三山地蔵ヶ岳

南アルプス北部の地蔵岳、観音岳、薬師岳を鳳凰三山といってい
ます。とくに地蔵岳のオベリスクは、高さ18m、基部からは50
mもある岩峰で、ふもとの各地からよくみえます。東麓側では鳥岩、
「おおとがり」などといい、地蔵信仰から地蔵仏岩、大日信仰から
大日岩とも呼ばれ、かつては神聖な神の座として鳳凰山信仰の奥の
院で、登ってはならないところでした。

 明治37(1904)年、イギリス人の登山家・ウォルター・ウ
エストンが初登頂し、ウエストンピークの名もできました。麓の縄
文遺跡の、祭祀用の男根状の立石は、地蔵ヶ岳の岩峰と対比してい
るとの説があります。

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岩峰の下の賽の河原は磔地になっていて、子授け地蔵の石仏がた
くさんならんでいます。江戸時代から、子どもに恵まれない夫婦が、
この地蔵1体を借りて家に祀ると授かると伝えられており、そのお
礼に2体にして返し、一時は数百体の石仏が並んだこともあったと
伝えられてます。事情を知らない登山者は、その風景に驚き、気味
悪いといってそうそうに立ち去る人もいます。

 このあたりを鳳凰山とも呼びますが、その範囲がはっきりせず、
地蔵ヶ岳一峰をいう説、観音ヶ岳、薬師ヶ岳を鳳凰山と呼ぶべきだ
とする二山説、それに現在でいう地蔵ヶ岳、観音ヶ岳、薬師ヶ岳の
三山説があり、いまでもはっきりしていない。また鳳凰山(一山説)
の山容を大鳥の形に見立て、大鳥ヶ岳、大鳥ヶ根と呼ぶ時代があり
ました。この山の形から男根を暗示する「おおとんがり」「おおと
がり」という呼び方が大鳥ヶ根に転化したとも考えられるという。
(「角川日本地名大辞典」)

 また「裏見寒話・巻の三・法皇の条」(「新稿日本登山史」)には、
たまたま嶺に登ると金色のニワトリがつがいで住んでいるため、鳳
(おおとり)にたとえて鳳凰山といったそうです。

ここはその昔、奈良法皇が病気治療のため、早川町奈良田へ滞在
した時、この山に登り、安産を祈って地蔵を安置したという伝説が
残ります。

 そのほか奈良法王伝説や弘法大師の開山伝説から、法王山、法皇
山説もあり、混乱しています。また一山説の地蔵ヶ岳の姿が鳳凰の
大鳥に見立て、大鳥ヶ根、大鳥ヶ岳といった時もあったという。東
麓での呼び名「おおとがり」はこの転訛だともいっています。

 奈良法皇伝説については「甲斐名勝誌・巻の四・鳳凰山の条」に、
「地蔵岳、薬師岳という山があって、鳳凰山と峰つづきになってい
る。これを三岳という。麓の柳沢というところに宿泊して登る。山
中に一夜泊まって翌日また柳沢に帰るのだが、諏訪の湖水も見えて
景色がよい。絶頂の岩の上に黄金で鋳た三寸ばかりの衣冠をつけた
像があって鳳凰権現といい、これは奈良の法皇のお姿であるという。

 昔から盗賊が何とかしてこの像を取り去ろうとすると、盤石のよ
うに重いので盗み去ることができず、いまもなお岩の上にある。土
地の人いうには、昔奈良の法皇がこの国に流されてきて、この山に
登り、都をしたいたもうたので、法皇ヶ岳と呼ぶということである。

 西河内領奈良田というところに法皇の住まわれていた跡だという
礎がいまも残っている。これは弓削道鏡(ゆげのどうきょう)だろ
うというが、「続日本紀」には、道鏡は下野国に流され、薬師寺の
別当となって一生を終わったとされているので道鏡ではなかろう」
とあります。

 また「裏見寒話・巻の三・法皇の条」には、昔法皇が都からはる
ばるこの国に来られたまま山中に入り還幸(かんこう)されなかっ
たが、法皇が甲州へこられたということは聞いたことがなく、弓削
道鏡が都から条法皇と潜号して国民をあざむいたともいい、また法
皇は奈良法皇ともいうが国史には見当たらない、と書かれています。

 これは中巨摩郡早川町奈良田に伝わる伝説で、女帝・孝謙天皇(称
徳天皇)が天平宝字元年(757)年退位し、奈良法皇と称し、病
気治療のため奈良田に転地、8年間滞在しました。その間に登った
ので法皇山(鳳凰山)だというのです。(「甲斐の山旅・甲州百山)。

 奈良法王は第46代孝謙天皇(第48代になると称徳天皇といっ
た女帝)または女帝が寵愛した弓削道鏡ともいわれています

 その他、平安時代、京の朱雀大路の公卿(くぎょう)・六ノ宮の
娘で、春房卿の妻、都那登姫が登ったとされています。

 昭和9年の夏、山頂調査が行われ、懸け仏、古銭、剣、鉾(ほこ)
などが多数発見されました。これらは文字がなく、制作年代は不明
だが、山麓の神官のの家にある「鳳凰山由緒」に、「山頂に1尺ほ
どの御鏡で中に御影代のあるものが一面おいてあったが烈風か、ま
たは山崩れのためいまはなくなってしまった」と記されてあります
が、あるいはそれらではないかと推定されています。

 また「甲斐国志」にも出ている山頂の祠の中にあった懸け鏡のこ
とも見られ、ここに刻まれている仏像は大日如来で尖塔状にそびえ
ている地蔵仏岩の上部にまつられてあったのかもしれないという。

 鑑定の結果、古銭に宗銭が混じっていることなどから奈良から平
安時代初期の開山だと推測され、神仏習合信仰の懸仏(かけぼとけ)
などが見つかっています。また同じ時期にオべリスクのへこみにま
つってある2体の地蔵尊を発見したとの記録も残っています。

・山梨県韮崎市と南アルプス市、武川村との境 JR中央本線韮崎
駅からマイクロバス、青木鉱泉から歩いて6時間30分で鳳凰三山
地蔵ヶ岳(2764m) 2万5千分の1地形図「鳳凰山」

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第10章

 

 

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■甲斐駒ヶ岳山頂の祠

南アルプスの北端に位置する甲斐駒ヶ岳(2967m)は日本全
国に十数座ある駒ヶ岳の最高峰で、そのどっしりとかまえた雄姿は、
人々の心を惹きつけます。とくに南麓の仙水峠から見あげる山容は、
男性的で雄々しく、絵筆をふるう姿をよく見かけるところです。

 先年、岳友が「日本百名山」登山の最終の山に甲斐駒を残し、そ
のお祝い山行がありました。7月末という時期もあって駒津峰(こ
まつみね)から山頂まで登山者が続き、アリが列をなす状態です。
ほかの人たちが間に入り、パーティーがバラバラになるありさまで
した。

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 駒ヶ岳の名は、山中に神馬がすむという伝説からとか、馬の姿の
雪形、駿馬が駆けるような山容、巨摩(こま)郡の一番の山にちな
むなど諸説があります。

 一方、長野県側では伊那谷を隔て、東西に駒ヶ岳があり、甲斐駒
ヶ岳を東駒、木曽駒ヶ岳を西駒と呼びました。甲斐駒ヶ岳山頂から
東南に派生した摩利支天には山頂にそれを象徴する鉄剣が奉納され
ているところからその山名があり、手力男命がまつられているとい
う。

 甲斐駒ヶ岳の山頂にもりっぱな祠が建っていますが、まわりに登
山者がたくさん集まって休憩していて、観察するのに難儀しました。

 祠は駒ケ岳神社の奥宮で、前宮は山梨県北巨摩郡白州町横手と白
州地区の竹宇の2ヶ所にあり、黒戸尾根(くろどおね)から甲斐駒
への登山口になっています。

 祭神は大国主命の名でおなじみ大己貴命(おおなむちのみこと)
と、少彦名命(すくなひこなのみこと)。神話に、大己貴命の子、
建御名方神(たけみなかたがみ)が出雲の国譲りの際、力くらべで
建御雷神(たけみかづちがみ・建御雷之男神)に破れ、諏訪湖まで
逃げて来て、諏訪大社の祭神になる時、甲斐駒ケ岳の崇高さにうた
れ、父親神をまつったのが最初だと、駒ケ岳神社の社伝にあります。
ほかに雄略朝というから大和時代に出雲国の宇迦山から神の座を移
したとする郡誌もあります。

 この山も修験道の山。神仏習合の威力大権現も山頂にまつられて
いるといい、神社も古くは駒形権現とよばれたそうです。

・山梨県北杜市と長野県伊那市との境 JR中央本線甲府駅からバ
ス、広河原乗り換え北沢峠、歩いて4時間20分で甲斐駒ヶ岳(2
967m)

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第10章

 

 

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■甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根の刀利天狗

 各地に散在する駒ヶ岳は、たいがい馬にちなんだ山名で、全国に
10数座もあり地元名をつけ、秋田駒、会津駒、木曽駒などと呼ん
でいます。甲斐駒もそのひとつですが、信州側では赤河原岳、花崗
岩が風化して白く見えるところから白崩山といっていました。

 数多い駒ヶ岳のなかでも甲斐駒は、深田久弥をも「もし日本の十
名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落とさないだろう」
(「日本百名山」)といわせています。

 確かに甲斐駒は、高さにおいて全国の駒ヶ岳の中でも富士山項の
一峰の駒ヶ岳を除けば日本の駒ヶ岳の最高峰です。

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 山頂から北東に延びる黒戸尾根。ふもとの横手、竹宇地区にそれ
ぞれ駒ヶ岳神社があり、駒ヶ岳講などがよく信仰のために登ったと
いう。その尾根の中間に黒戸山があって「刀利天狗(とうりてんぐ)」
の祠が建っています。

 そばの石碑に「駒嶽刀利天」の文字があり、横手駒ヶ岳神社の宮
司の話では、刀利天狗は「刀利天宮」でよいという。しかし、その
後登ったときには「三笠山刀利大神」の石碑も建っていました。

 これは木曽御山獄山の前山の一峰・三笠山にすむという「三笠山
刀利天坊」天狗のこと。そういえば登山道に御嶽講行者の霊神碑が
ならんでいるし、黒戸山には猿田彦命(さるたひこのかみ)を祭っ
ており、うなずけなくもありません。

 そもそも木曽御嶽山には「六尺坊」という大物天狗がいて、その
前衛の八海山、三笠山、阿留摩耶山(あるまやさん)にそれぞれ大
頭羅坊(だいずらぼう)、刀利天坊(とうりてんぼう)、アルマヤ坊
天狗がいることになっています。八海山は木曽福島駅から田の原行
きのバスで五合目。スキー場があるが夏などは降りる人も少ない。
田の原終点付近にある三笠山も御嶽をめざす登山者は目もくれませ
ん。

 しかし、木曽御嶽山の山頂直下、三ノ池近くの飛騨頂上では刀利
天坊の像がハツタとにらみをきかしているのが頼もしい。

 黒戸尾根と同様、秩父の両神山では先の三天狗を山の護法神に、
上州大田市・新田山でも御嶽権現の脇侍に刀利天坊と大頭羅坊を祭
っています。

・山梨県北杜市 JR中央本線韮崎駅からバス、竹宇神社から歩い
て4時間45分で甲斐駒ヶ岳(2967m) 2万5千分の1地形図
「長坂上条」

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第10章

 

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■北岳・幻の大日如来祠

 北岳(3193m)は白根三山(しらねさんざん)の北端の山と
いう意味でその名があるそうです。白根は、標高が高くまわりの山
々より冠雪期間が長く、峰が白くめだつので白峰(しらね・根)と
呼びます。山名は「平家物語」の「手越(てごし・いまの静岡市)
を過ぎていけば、北に遠ざかりて雪白き山あり、問えば甲斐の白根
とぞいう」という歌からきており、地元では「甲斐ヶ嶺(根)」と
もいうそうです。北岳は白根三山の主峰で、富士山に次いで2番目
の標高を誇り、まさに南アルプスの盟主というところです。

 「甲斐国志」によれば山頂に黄金で鋳造した仏像が祀ってあると
あり、またかつてここへ登るには、広河原からの登山道途中の「白
峰御池」に、御洗米を投げ入れる風習があったらしい。直径20メ
ートルくらいの小さな白峰御池は当時は瓢池といい、干ばつの年に
は国中地方の村人は講を組んで参拝し、池の中に牛や馬の骨を投げ
入れて雨乞いを行ったという記録もあります。

 北岳東側斜面東壁のバットレスは標高差800mがあり、その峻
険さから山岳宗教の道場として江戸中期には山頂に「白根大日如来」
がまつられていたそうです。

 明治2(1869)年ころ山梨県芦安の行者名取直衛が、広河原
・白峰御池・北岳のルート開き、自費で山頂に「甲斐ヶ峰神社」の
本宮を、御池の下方に中宮を、また夜叉神峠入口に前宮を建立しな
した。しかし、詣でる者もなく、せっかくの名取の努力もむなしく
荒廃してしまったということです。それから33年後、ウェストン
が登ったときにはまだ残がいが残っていたといいます。

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 最近、10数年前まで北岳の山頂に石祠の屋根のかけらがあった
と書かれた本を読みました。ン! 10数年前まで? 早速北岳山
頂の古い記念写真をひっぱり出し、ルーペで探しました。その一枚
の隅に確かに祠の屋根らしいものがあるが、脇に足を組んで座って
いる人のデカイ登山靴がジャマになって、どうしても確認できませ
ん。いまとなっては、アア。残念。

 なお、今まで外国人の北岳初登頂はウェストンだとされていたが、
それよりも3年早い1899(明治32)年、オーストラリア人の
公使が登っていたことが確認されています。

・山梨県南アルプス市と早川町との境 JR中央本線甲府駅からバ
ス、広河原から歩いて7時間45分で北岳(3193m) 2万5千分の
1地形図「仙丈ヶ岳」

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第10章

 

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■農鳥岳・大町系月の祠

 南アルプスの北岳・間ノ岳・農鳥岳を合わせて白峰(しらね・白
根)三山と呼んでいます。三山をつけず単に白峰(根)山ともいい、
その名は高山のためまわりの山々よりも遅くまで白く雪が残るから
という。三山のうち北に位置するのが北岳で、南側の農鳥岳の間に
あるのが間ノ岳とは順序よくできています。

 農鳥岳も二峰に分かれ、東側が単に農鳥岳、西にあるのが西農鳥
岳。山名のもとになっている農作業にちなむ鳥の雪形が現れるのは
東の方のアスナロ沢源頭だそうな。地元では夏のはじめ、白鳥の雪
形が出るとイネの苗代を、やがて牛の形が現れるとダイズやアズキ
をまいたという。雪形は年2回現れることがあり、秋に積もった雪
でまた農牛の形が出て、収穫の作業をはじめるという。

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 ところが江戸時代後期の地誌「甲斐国志」巻の三十三・山川部第
十四に「(白峰)この山本州第一の高山にして西方の鎮たり。国風
に所詠の甲斐駒ヵ根是にして白根(中略)中峯を間ノ嶽或は中嶽と
稱す。此峯下に五月に到て雪漸く融て鳥の形をなす所あり。土人是
を見て農候とす。故に農鳥山とも呼ぶ。(後略)」とあり、農鳥の雪
形が現れるのは間ノ岳だとあります。

 1902(明治35)年の『大日本地名辞書』にも「中岳は農鳥
山(ノトリ)とも云ひ、初夏、山腹に鳥形を現出す。残雪の斑紋な
り。南岳は別当代(ベットウシロ)と云ひ山中に石膏を出す所あり」
(中岳は間ノ岳、南岳は農鳥岳のこと)とあります。

 これによると間ノ岳にも農鳥の雪形が現れるらしい。しかし甲府
盆地から見える南を向いた白鳥があるのは東の農鳥岳だという。

 また、農鳥の形とは雪の消えたあとへ出る黒い岩で、卵を三ッ持
って現れるとの言い伝えもあります。

 農鳥岳山頂には、明治の文人で詩人の大町桂月の歌碑が建ってい
ます。「酒飲みてたかねの峯で吐く息は、散りて下界の雨となるら
む」。きざんである歌のとおり、桂月は酒と旅をことさら好み、1
924(大正13)年ここに登ったとき詠んだものだという。その
後、昭和30年代になり、地元の観光協会と山岳会が石碑に歌を刻
んでかつぎ上げましたが、長年の風雪のためか真っ二つに割れてし
まっています。

 何年か前の8月、農鳥小屋は一晩中吹き荒れました。きのうの好
天下の稜線歩きはうそのようです。天気予報ではきょうも1日荒れ
るという。登山者は風のないだすきにいっせいに奈良田めざせて飛
び出します。ガスの中、急ぎ足で通り過ぎる人たちを前に石碑はか
すんでいしたた。

・山梨県早川町と静岡県静岡市との境 JR身延線身延駅からバ
ス、奈良田から9時間30分で農鳥岳(3026m) 2万5千分の
1地形図「間ノ岳」

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第10章

 

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■荒川三山・東岳の祠

 荒川岳は、前岳(3068m)、中岳(3083m)、それに東岳
(悪沢岳)と、いずれも3000mを越す三山の総称で、とくに最
高峰の東岳は本邦第6位の高峰。荒川岳の名は東麓の大鹿村を流れ
る小渋川の支流荒川の源頭にあるためらしい。

 荒川三山の3つの山は、ふもとの県でそれぞれ呼び方が異なって
います。たとえばいちばん東の東岳を長野県側では東岳、静岡県側
では地蔵岳、山梨県側では悪沢岳というややこしさです国土地理院
の地図で、前岳、中岳、東岳と表記されてから呼び方も定着してき
ました。

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 東岳にも人工の木片があって、神をまつった形跡がある。東岳の
開山は、1886(明治19)年、山梨県芦安村の行者名取直江と
いう人。同じ年、長野県豊岡村の堀本丈吉も敬神講先達として登山
しました。名取は前岳と東岳、堀本は中岳と東岳をそれぞれ登頂し
たといいます。

 それ以前から堀本丈吉は、すでに三峰講を結成しており、講社員
登拝の案内をしています。昔は荒川、鍋状(悪沢岳?)、赤石岳を
含めて三ッ峠といい、山頂に三峰神を祀ると古書にあるという。

 その後、1909(明治42)年、小島烏水らがここに登ってみ
ると、すでに何者かが白木造りの祠と荒川大明神の木札を置いてあ
ったという。この大明神か三峰神か、はたまた山名の地蔵岳にちな
むのか、いまも東岳山頂にはこわれた木祠がひとつ転がっています。

 静岡県側椹島(さわらじま)から入り、荒川岳から聖岳まで歩い
たのはもう十数年も前になります。東岳のこわれた祠を観察し写真
を撮りました。中岳のコルで仲間に先に行ってもらい、前岳まで歩
きました。先年の冬、東方の井戸川の頭付近で遭難した知人を慰霊
するためでした。くゆる線香の匂いがただようなかで、マツムシソ
ウの花がかすかに揺れていました。

・静岡市と長野県大鹿村との境 大井川鉄道井川駅からバス、畑薙
第一ダムから送迎バス、椹島から歩いて10時間で東岳 2万5千
分の1地形図「赤石岳」

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第10章

 

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■米寿の大名登山と荒川小屋

 南アルプスは赤石山脈と呼ばれ、3000m級の山々が10座も
あるなかで赤石岳は名峰の中の名峰です。この高山にこんな話が語
りつがれ伝説化しています。

 1926(大正15)年。12月になれば昭和と年号が変わる夏
のこと。「エッホ! エッホ!」と人々のかけ声が山々にこだまし
ています。キツネもクマもカモシカも、何事ならんと見てみれば、
200人余りの人夫をともなった特製の山駕篭(かご)が、静岡県
側の椹島から登ってきます。

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 山駕篭に乗っているのは白髪にひげも真っ白な老紳士。大倉財閥
を一代で築いた御年88歳の大倉喜八郎の大名登山でありました。
あえぎあえぎ、駕篭を担ぐ人夫に金貨、銀貨を投げ与えたとか与え
なかったとか。とにかく赤石岳登頂を果たしたというからものすご
い。

 当時、ここらあたりの山林はすべて大倉喜八郎のもの。南アルプ
スに入った山男が一度は泊まる荒川小屋はこの時初めて建てられた
という。

 大倉喜八郎は、1837(天保八)年、新潟県の新発田で生まれ、
18歳の時江戸に出て、鰹節店に丁稚奉公。3年後、上野に乾物屋
を開き独立、その後鉄砲店を開業します。

 おりしも日本は幕末、維新の大動乱の真っ最中です。官軍からも
幕軍からも武器の注文が殺到します。商売とあらばあっちもこっち
もありません。喜八郎は官軍、幕軍かまわず鉄砲を売りまくり、大
儲けをしました。

 その後、1873(明治6)年、大倉組商会を設立、貿易商と用
達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍
需物資調達で巨利を得て、財閥の基礎を築きました。

 赤石岳は高山植物の宝庫で、ライチョウの姿も時折見かけること
もあります。今日では登山ルートも整備され、登山愛好者には人気
のある山ですが、当時は内務省のお役人が、たまに測量に入るくら
い。恐らくまともな道もなかったはずです。そんな中、88歳のご
老人が登頂したというのですから驚きです。

 ちなみに喜八郎は大倉高等商業学校(現東京経済大学)や美術館、
大倉集古館なども設立しています。

・静岡県静岡市と長野県大鹿村との境 JR飯田線伊那大島駅から
バス、塩川終点から歩いて三伏峠経由16時間20分で荒川小屋 
2万5千分の1地形図「赤石岳」

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第10章

 

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■赤石岳・幻の祠

 赤石岳(赤石岳・3120m)は、南アルプス(赤石山脈)のほ
ぼ中央にあり、山脈名にもなっているほどの代表的な山。日本で第
7位、南アルプスのなかでは第4位の高さを誇ります。赤石の名は
南面の静岡県側を遡る赤石沢に由来しているとされています。赤石
沢は谷底に赤紅色のラジオラリアチャートがあり、その赤い石から
きているという。そういえば赤石岳付近では赤い色の石をよく目に
します。

 赤石岳は静岡県の呼び名で、長野県では、静岡県境にあるため駿
河岳と呼び、また釜沢岳や、大河原ノ岳の名もあったという。大河
原ノ岳は、信州側山麓の大河原集落からの名前。

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 南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が、
南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、
遠江国伊谷城を棄てて信濃の国に入り、大河原に根拠地をおき、東
奔西走するかたわら、しばしば赤石岳山頂に座し、足利市調伏を祈
願したという。

 同親王の「家集」(個人の和歌を集めた書)「李花集・りかしゅう」
の詞書(ことばがき)には、「興国5年、信濃国大川原と申す山の
おくに籠もり居侍りしに」とあり(信史5)、宗良親王が当地に入
ったのは、この興国5(1344)年・北朝では康永3年か、その
前年と推定されます(下伊那史)。

 また同書には「大河原と申し侍りし山の奧をも又立ちいで侍りし
に」とあり、正平2年前後、親王は吉野に上ろうとして当地を出発
したが、翌年、美濃から駿府を経て当地に戻ったという(信史6)。
同親王は文中3(1374)年12月、いったん吉野に帰るが、約
30年間にわたって当地あるいは大草を根拠に駿河、武蔵、上野、
越後、美濃、尾張などを転戦し、南朝挽回を画策しました。

 宗良親王がいつ没したかは不明ながら戦国時代の天文19年宗詢
が文永寺で、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書に「大草と申
(もうす)山の奥のさとの奥に、大河原と申所にて、むなしくなら
せ給とそ、あハれなる事共なり」と記され、ここが親王の終焉の地
とされています(三宝院文書/信史7)。

 「続史愚抄(ぞくしぐしょう)」(江戸中期の公卿柳原紀光が父光
綱の志を継ぎ編修した歴史書)などによれば、1385(元中2)
年8月に没したという。

 釜沢から小河内川を上った御所平は親王隠棲の御所と伝え、現在
その供養塔である宝篋印塔が残り、「李花集」の詞書に「信濃国大
川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりしてす
み侍りける…うんぬん」とあるのは御所近くのことと推定されてい
ます(下伊那史)。この近くに的場という地名があり、鉄鏃(やじ
り)が出土しています。

 親王を擁護したのは、大河原城主香坂高宗であり、「李花集」の
詞書(ことばがき)に高宗の忠節にふれたものがあるということで
す。

 また赤石岳北側・西麓の大河原方面から稜線に登ったところに
「大聖寺平」という平坦地があります。大河原方面へ下る分岐があ
り、指導標とケルンが建っています。ここは大河原に籠居していた
宗良親王の故事による「大小寺平」が古名だといわれ、いまでもこ
の一帯には宗良(むねなが)親王伝説が残っています。

赤石岳は、江戸時代から山岳宗教登山が行われていたとみられて
おり、明治12(1879)年内務省地理局の測量登山のあと、同
19年信州河野村堀越(いまの豊岡村)の敬神講の堀本丈吉や、ま
た同年甲州の名取直衛(江)が登頂して祈祷しているという。

 これほど信仰登山が盛んだった赤石岳に、祠のひとつやふたつな
いわけがない。加藤文太郎も「南アルプスをゆく」のなかで、小赤
石岳の南、剣ヶ峰に「蚕玉大神(こだまたいじん)」を祀ってある
と書いてあり、赤石西峰に祠ありと記す登山用地図もあります。

 しかし、酔狂にもそれを確認すべく、何回となく登り、西峰から
南峰とゴツゴツの大岩を伝わってあっちウロウロ、こっちウロウロ。
調べに調べたがいまだに見つからないのは、どうしたことでありま
しょう。

・静岡県静岡市と長野県大鹿村との境 JR飯田線伊那大島駅から
バス・塩川終点から歩いて三伏峠経由19時間40分で赤石岳(3
120m)・2万5千分の1地形図「赤石岳」

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第10章

 

 

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■光岳の光る岩峰

 南アルプスはふつう北端の甲斐駒ヶ岳から、光岳までをいってお
り、光岳は縦走の終点にあたります。北のイザルヶ岳との間にある
センジヶ原は、二重山稜になった草原でダケカンバが生えたお花畑。
地面が幾何学模様に縁どられ、ひとつひとつが島のようになってい
ます。光岳と書いて「テカリ岳」。山の名は本当にむずかしい。テ
カリ、センジヶ原、イザルヶ岳など独特の名前がならび、南アルプ
ス最南端の雰囲気が感じられます。

 ふもとの村から見見ると、沈みゆく夕日に映えて「テカリ」と光
る山があります。村人はそれをテカリ岳と呼び「光岳」の字を当て
ました。そのテカリと光るのが光岳山頂の西側にある光岩。石灰岩
のザラザラした岩峰で、南西の池口岳方面から見ると、西日を浴び
て白く光って目立つという。

「峰頭はいずれも木立は遠のいて、岳樺や偃松(はいまつ)が身
をふせ、西南に面して灰白の断崖を三丈ばかり剥き出している、岩
石の膚はザラザラに荒らけて、地衣が青白いの、樺色の、膏薬でも
貼りつけたようだ。…寸又谷には奥山の高みに四角な大岩がある。
遠くまで光って見えるので谷間の猟夫たちは“テカリ石”と呼んで
いる……」。中村清太郎も「光岳・イザルヶ岳」のなかで書いてい
ます。

 光岳の南には遠江、東は駿河、西に信濃と旧国名が広がっていま
す。三つの国の隅っこ、国境にあるので「三隅山」の異名もありま
す。

 光岳はハイマツの南限地だという。地面に這っているからハイマ
ツで、立ち上がってしまえばハイマツではなくなります。ところが、
ここのハイマツは立ち上がりはじめています。日本でのハイマツ生
息地の南端は東洋の最南端であり、それは世界の最南端にもなると
いう。

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 光岳山頂は樹林の中で展望はありません。簡単に登れる光石は、
真っ白な岩峰で、なるほど「夕日にテカリと映える」は納得です。
光小屋前の広場が幕営地になっています。その晩は篠つくような大
雨です。あしたは早い。早々に夕食をすませ、シュラフの中へもぐ
ります。

 翌朝3時、テントから出てみると満天の星が光っています。月明
かりでテントをたたみました。これから寸又峡までの長丁場が待っ
ています。芝沢橋の林道まで4時間。あとは37キロの林道歩き。
林道は底深い寸又川に沿い、長々と延びています。林道はその支流
があるたびごとに大きく支流に沿って巻き、また登り返すので、な
かなか先に進みません。足にマメができそうになっては靴を脱ぎ、
手当をしてまた歩きはじめます。寸又峡へ渡る吊り橋が見えるころ
にはすでに陽は西にかたむきはじめています。寸又峡キャンプ場に
着いたときは夏にもかかわらず、暗くなってしまいました。

・静岡県本川根町と静岡県南信濃村との境 大井川鉄道井川駅から
バス、畑薙第一ダムから歩いて13時間で光岳(2591m) 2万5千
分の1地形図「光岳」

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第10章

 

 

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■南アの展望台勧業峰・大日岳の大日如来

南アルプス南部への登山は、いまは大井川鉄道利用か、東海道新
幹線静岡駅から富士見峠を越える井川林道を通るバスで、井川集落
経由で入るのが普通です。しかし、昭和33(1958)年に井川
林道が開通する以前は、登山者はこの大日峠を越えて、それぞれの
山をめざしました。

井川と静岡を結ぶ、大日峠越えのルートは、全長54キロあり、
かつては索道も設けられていた重要な経路で、井川集落への物資の
補給は、みなこの峠を越えて運ばれていました。

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 この道はいまでも県道になっていると聞いています。そのためか、
井川湖の渡し船は無料でした。当時は旅の安全を願って、一丁ごと
に石仏が置かれ、峠には大日堂が建っていたそうです。この峠は勘
行峰と三ツ峰との鞍部のひとつで、安倍川水系と大井川水系の分水
界にもなっています。

いまでも清水の湧く、荒れはてた水呑茶屋からヒノキ林を登ると
大日峠で、雑草の茂った小平地でした。大日峠の名前の由来である
大日堂は、登山者あるいは何者かのいたずらか、火事で焼けてなく
なってしまい、いまは大日堂や茶壷屋敷跡の石碑がさびしく建って
います。かつての石仏は、井川集落の大日院に移転してしまったと
立て札にあります。

 大日如来碑の裏側に「昭和34年焼失、同年之を建立」とありま
すが、焼失の焼の字が削り取られています。南側にりっぱな舗装道
路の十字路があり、新大日峠の標識があって近くに駐車場まででき、
行楽の人たちの車が列をなしています。

 数日後に行った井川本村の大日院は、バス停の上の高台にあり井
川湖を見下ろしています。石仏群はお寺の入り口にならんでいまし
た。大日如来から茶壷屋敷の山の神までがまつられています。石仏
は車道ができたころに一括してここに移したという。なお大日峠か
ら井川湖側、少年自然の家への途中にはいまも馬頭観音など、いく
つかの石仏が苔むして残っている。

・静岡県静岡市 JR静岡駅から畑薙第一ダム行きバス、富士見峠
から歩いて30分で勧業峰 2万5千分の1地形図「湯の森」

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第10章

 

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■南アルプスとその周辺 参考文献・ご協力

「北岳」峰谷緑(「甲州の山旅・甲州百山」実業之日本社 所収)
「白峰山脈の記」小島烏水(「日本山岳風土記・2」宝文館 所収)
「甲斐駒雑記」小暮理太郎(「日本山岳風土記・2」宝文館 所収)
「南アルプスをゆく 赤石山脈・白峰山脈縦走」加藤文太郎 (「日
本山岳風土記・2」宝文館 所収)
「光岳・イザルヶ岳」中村清太郎(「日本山岳風土記・2」宝文館 所収)
「夜叉神峠の由来」夜叉神峠小屋パンフ 所蔵
「甲斐国志」松平定能(「大日本地誌大系全48巻」雄山閣出版
「新稿日本登山史」山崎安治著(白水社)1986年
「甲斐の山旅・甲州の山」実業之日本社 1989年
「山の紋章・雪形」田淵行男著(学習研究社)昭和56年

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(第10章 終わり)

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