第8章 北アルプスの山々

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▼中 扉

【北アルプス】 このページの目次
・白馬乗鞍岳天狗原のホコラ
・白馬大池いまはなきトリイ
・小蓮華山の石仏
・白馬岳三国境の石像
・白馬鑓温泉の石仏
・鹿島槍ヶ岳の地震の神さま鹿島明神
・剱岳山頂のスサノオノミコト
・館山雄山神社と有頼
・薬師岳とミザノ松
・黒部川源流のカッパ
・黒部五郎岳の中之俣白山神社
・鷲羽岳と鷲羽池
・笠ヶ岳のホコラ
・槍ヶ岳のホコラと播隆上人
・上高地穂高神社と安曇野伝説
・常念岳の妖怪常念坊
・乗鞍岳剣ヶ峰のホコラ
・北アルプスの山 参考文献・ご協力

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■白馬乗鞍岳・天狗原の祠

 北アルプスには南端と北端にそれぞれ乗鞍岳がありますが、ここ
もそれぞれ各地の乗鞍岳と同じように馬の鞍のような鞍部があって
両端にピークを持っています。白馬乗鞍の鞍部は白馬大池で、かつ
ては地区によっては小蓮華山までを乗鞍岳といっていたという。

 現在のように山の名前が統一されていなかった江戸時代は、それ
ぞれの村で勝手に山の名前をつけていたため、各地で山の境界争い
が起こりました。乗鞍岳も江戸中期、山麓3村の争いは10年にも
および、裁定の幕府役人の歩く登山道をつくるため、人足1200
人を出動させた騒ぎもあったという。

 白馬岳から白馬大池、乗鞍岳を通り東側の栂池に下る途中に、天
狗原と言う湿原があります。綱の張った木道を歩いていると、道か
ら少し離れた左側の岩の上に立派な石祠が祭られています。

 これは、1927(昭和2)年北安曇郡北城村(今の白馬村)の
後藤敏氏が建てた白馬岳神社で、天照大神(あまてらすおおみかみ)
を祭ってあります。白馬岳神社というからには、本当は白馬岳山頂
に建てたいところです。

 後藤は、日本画家大町桂月が雑誌に書いた記事「北アルプス全体
を人間の顔に見たてたならば、さしずめ白馬岳は北アルプスの顔で
ある。立山は座敷で上高地は坪庭である」という記事を読み、19
26(大正15年)年、白馬岳山頂に神社建立の決意をしました。

 しかし、大町営林署に借地申請をすると、国立公園の中に建てて
はならぬとの返事です。

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 そこで、当時、国立公園外だった天狗原に計画を変更。「村有林
一部借用願」を南小谷村役場に提出、なんとか了解をとりつけまし
た。

 初め、祠は伊勢神宮を形どった間口1.5mの総檜造りで、地元
の青年たちが2日がかりで、担ぎ上げたという。

 しかし、檜造りとはいえ、木造の神殿。台風などに耐えきれず、
吹き飛ばされ、2度ほど作り直したのち、1958(昭和33)年、
白馬村の援助で、石造りの祠に立て替えたものだそうです。

・長野県小谷村 JR大糸線白馬駅からバス、栂池高原から歩いて
1時間で天狗原、さらに40分で白馬乗鞍岳(2469m) 2万
5千分の1地形図「白馬岳」

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第8章

 

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■白馬大池・いまはなき鳥居

北アルプス白馬岳の北東、小蓮華山と乗鞍岳の鞍部にある白馬大
池は、海抜2397m、周囲2キロの火山堰止め湖。サンショウウ
オも生息しています。深度は最深部で13・5m、日本の高山湖の
なかでも、第2位の深さだという。

 日本で最初の湖沼学の開拓者田中阿歌麻呂は、白馬大池で携帯ボ
ートに乗り、初の高山湖調査(湖盆形態と水温などの物理的研究)
を行い、「湖沼の研究」や「日本北アルプス湖沼の研究」など多数
の著書を発表するきっかけになったのだそうです。

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 ボートの名を第二チャレンジャー号といい、山荘裏の入江を第二チャ
レンジャー湾と名づけたとなにかの本で読んだことがあります。

  その白馬大池に、かつては鳥居が建っていたという。1927
(昭和2)年、今の白馬村森上の後藤敏氏が、白馬岳に天照大神を
祭り、天狗原に白馬岳神社の祠を建立しました。 

 続いて彼は、伊勢神宮の外宮(げぐう)の祭神である豊受大神(と
ようけのおおかみ・イザナミの神が病気のとき、その尿(ゆまり)
から出現した和久産巣日神(わくむすびのかみ)の子神。天孫降臨
の随伴神で、穀物、食物の神)の神霊を受け、白馬大池に鎮め、池
の中に厳島神社にまねて鳥居を建てたといいます。

 次ぎに、豊受大神が随伴したといわれる天孫降臨の地、宮崎、鹿
児島県境の霧島山頂にある銅剣をまねて、小蓮華山(長野県側では
大日岳と呼ぶ)に鉄剣を建てようとします。

 そこで自分が師と仰ぐ神道家の友清歓真氏にその設計を依頼、図
面をもとに松本の業者に発注。出来上がったものが小蓮華山にある
重さ900キロもの八ツ又のあの鉄剣です。霧島山頂の銅剣の3倍
の大きさだといいます。

 しかし、これを長野県小谷村と新潟県糸魚川市との境の小蓮華山
頂に持ち上げなければなりません。小谷村切久保地区の青年団が協
力して2日がかりで運び、山頂に祭ることが出来たということです。

・長野県小谷村 JR大糸線白馬駅からバス、栂池高原から歩いて
3時間 2万5千分の1地形図「白馬岳」

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第8章

 

 

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■小蓮華山の石仏

高山湖白馬大池から2時間弱で小蓮華山(2769m)に着きま
す。小蓮華山の山頂には風化した石仏と鉄剣が登山者をむかえてく
れます。

 石仏は長い年月の間に風化し、頭部も欠けて目鼻を書き入れた平
らな石を乗せ、もうひとつ小さな石仏を足元においてあったりしま
す。それでもたくさんのさい銭が供えられています。石像は大日如
来で、かつてはもっと新潟寄りにあったという。この山を別名大日
岳と呼ぶのはこれに由来しています。

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 石仏は高さ60センチくらいで、記録では金剛界大日如来で智拳
印を結んでいるといい、「享和元(1801)酉六月二十四日糸…」
の銘が読めたという。「この石像が誰によってまつられたか、また
何の目的で建立されたかは、現在記録に残るものはない。ただ昭和
初年ごろの言い伝えとして、1573(天正2)年千国の源長寺(現
小谷村)の開祖洞光和尚が、この山頂に大日如来の砂岩製の石像を
祀ったが、その後何者かに持ち出されたので、再び彫って祀ったと
いわれていた。このことは昭和十年六月の冠松次郎著「白馬連峰と
高瀬渓谷」(など)にも載っていて、風よけ地蔵の別名もあると記
されている」(「 北アルプス白馬連峰」長沢武著)そうなので、あ
るいはこの像が二代目のものかも知れません。

 また鉄剣は白馬岳神社の氏子たちが後藤敏氏の指導で1927
(昭和2)年、白馬岳に天照大神をまつったとき、建てたものだと
いう。

新潟県の糸魚川方面からこのあたりを望むと、遠く谷奥に雪をい
ただいた峰々はまるで白いハスの花弁に見えるといいます。そこで
越後側ではこの周辺の山を蓮華岳と呼び、大蓮華(白馬岳)のとな
りの小さい山を小蓮華といいました。

また信州側では小蓮華あたりまで乗鞍といい、幕末の絵地図には
この山に白馬岳とあります。白馬岳の名は、この山の稜線近くに苗
代の時期に現れる子馬の雪形からきたのが本当のところでしょう
か。農家に田植えの時期を教えてくれています。

・長野県小谷村と新潟県糸魚川市との境 JR大糸線白馬駅からバ
ス、栂池高原から歩いて4時間30分で小蓮華山(2769m) 
2万5千分の1地形図「白馬岳」

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第8章

 

 

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■白馬岳・三国境の石像

 北アルプス白馬岳北東の三国境は、信濃、越後、越中の旧国境に
なっています。北側からは朝日岳や蓮華温泉からのザク道と、白馬
大池から小蓮華山経由の道を合わせ、舟窪(二重山稜)も見られ白
馬岳へはもう一歩という所です。こんな人里遠く離れた山中の三国
境から石仏が発掘された記録があります。昭和10年のことだった
という。

…【白馬山頂発】 北アルプス白馬頂上付近から、端もなく二十八
日、世にも珍しい仏像が発見され、アルピニストの目を丸くさせて
いる。…東北に聳える大日岳(小蓮華山)に因縁のあるものと思わ
れ、…(小蓮華山の初代の仏像は行方不明)…これから見て、掘り
出された仏像は正しく源長寺洞光和尚の刻んだ天正年間作のものに
間違いないと見られる…。

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 これは石仏発見のところへ通りかかった地元新聞社の記者が書い
た記事です。当時の登山案内人が、東京の山草クラブの学生に高山
植物の説明をしていると、瓦礫の中にボールのような丸い石があり
ました。ピッケルで掘ってみると地蔵の座像が出てきました。

 大きさは40センチくらいで水成岩造り。銘など刻んだあとは見
つからず、結局いつ誰が彫ったのか分かりませんでした。調査の結
果、小蓮華山の像は大日如来であり、手の形、印相も違い小蓮華山
の石仏とは関係がなさそうです。地蔵はガイドが、そのまま自然岩
で台座をつくり現地に安置したという。

 戦後になり石仏盗難が相次ぐため、関係者が協議の結果、発見者
のガイドの家で供養することになり、石仏を麓にかつぎおろしまし
た。しかし家に置いてはみたものの、個人ではとても管理しきれる
ものではありせん。そこで出身校の北城小学校へ預け、供養を頼ん
だという。数年後の昭和38年、台風で松川が氾濫し小学校も被害
を受け、仏像は泥の中に埋まってしまいました。

 見かねた地元山岳史研究家が白馬村役場の床の間に安置しておき
ましたが、いつのころか行方不明になり、いまは誰も知らないと、
氏自身の著書の中で書いておられます。

・長野県白馬村と新潟県糸魚川市、富山県朝日町)との境 JR大
糸線白馬駅からバス、猿倉から大雪渓経由6時間15分】2万5千
分の1地形図「白馬岳」

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第8章

 

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■白馬鑓温泉の石仏

 日本には温泉が多く、大昔から人々は湯治場として利用してきま
した。温泉に入ったり、あるいはお湯を飲んだりする湯治療法によ
る不思議な効力は神格化され、温泉神社や薬師如来を祭るようにな
りました。薬師如来は左手に薬壷(やっこ)を持つことで表される
病気治療の仏さまです。

 高所にある温泉として一、二を争う白馬鑓温泉は、岳の湯として
昔から地元の人たちに知られ、硫黄採集の帰りに、また三次郎平で
の山菜採りの人も温泉まで足を延ばして入っていったという。

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 しかし、このあたりは名にしおう雪崩の巣です。とても浴舎を建
てるわけにはいきません。いまでも温泉小屋は夏に組み立てられ、
秋には解体されています。

 その湯元にボロボロに風化した石仏が一体。薬師仏らしいがはっ
きりしません。経営元の白馬館の話では、近年、登山者が運び上げ、
置いたものだという。わざわざこんな重いものを持ち上げたのは、
よほど厚い信仰心の持ち主か。仏像は薬師如来と見たいところです。

 温泉まで行くには、かつては南股入から湯ノ入沢をさかのぼった
という。途中にある六左エ門滝は、芝ぞりを使って硫黄を搬出中、
事故で滝つぼに転落死した六左衛門の伝説のあるところです。

 昔は、南股入りの下流ヨモギ出の河原にもわずかながら湯がわき
出ていて、草刈りなどにきた村人が河原に穴を掘って身を浸しまし
た。薬のない時代、湯治作用のある温泉への人々の願望は厚く、マ
エガラ沢と青岩との中間の岩の下には薬師如来像が祀られていたと
いう。

 一方、昔から話題になっていた大量の熱湯を湧出する岳の湯を人
里まで引き、浴舎を建て営業しようとするものもいました。

 地元の若手リーダー格の3人で、明治9(1867)年7月、延
べ7千人近い人夫を雇い大工事が開始しまし。しかしその年の11
月、新雪が降りはじめ、ことしの工事を終えようとした矢先、降り
出した雪がみるみる積もりはじめ、雪崩が現場小屋を襲い、21人
の命を奪うという事件も起きています。

・長野県白馬村、JR大糸線白馬駅からバス、猿倉から3時間20分
で鑓温泉 2万5千分の1地形図「白馬町」

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第8章

 

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■鹿島槍ヶ岳と地震の神さま

 鹿島槍ヶ岳(2889m)は、高瀬川支流の鹿島川の源頭にあり、
南北二峰からなる双耳峰で、それをつなぐつり尾根があって、均整
がとれた美しい山。北東直下には平家の落人伝説のカクネ里があり
ます。後立山連峰のなかで白馬岳とならぶ盟主で訪れる人も多い。

 「鹿島山(鹿島槍ヶ岳)と名づけたるは、昔、鹿島明神出現あり
しとて此処に祭りしより今に此名あるなり」。江戸中期の享保9(1
722)、時の松本城主忠幹が政事の一助にと作らせた「信府統記
(しんぷとうき)」(全32巻、松本藩内の総合書)の第六巻の記述
です。

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 それによると、戦国時代の天文年間(1532〜55年)に地震
があっていまの鹿島槍ヶ岳が大崩壊し、ふもとの集落が大きな被害
を受けたという。村人は、地震の神である鹿島明神を山に祭り、村
内に鹿島明神を建立し、集落の名を鹿島集落、山の名を鹿島山、さ
らに集落の中を流れる川を鹿島川と改名しました。しかし、今の集
落の位置では鹿島槍の崩壊で被害を受けるとは考えにくいため、あ
るいは、鹿島槍北壁直下の「カクネ里」にいた? ときの話なのか
もしれません。

 鹿島神社といえば、茨城県鹿島町にある建御雷之男神(たけみか
づちのおのみこと)をまつる鹿島神宮が有名です。この神さまは文
字通り雷神ですが、同時に地震の神でもあるという。鹿島神宮の境
内には要石(かなめいし)という地面に突き刺さった石があって、
地中の大ナマズを押さえていると言い伝えられています。

 昔は地震は地下にいる大ナマズが暴れて起こすと信じられ、日本
をとりまく大ナマズの頭と尾を鹿島明神がこの要石という杭で押さ
えつけているため、この地方では地震が起きないといわれています。

 地震よけの要石は全国各地の神社などにありますが、鹿島神宮の
ものが最も有名です。ここの要石は高さ15センチ、直径25セン
チの丸い石で、頭の部分が少しくぼんでいます。

 鹿島集落の名のもとについては異説があって、集落を流れる鹿島
川が氾濫したときに鹿島神社を勧請し、鹿島という集落名が起きた
とする本もあります。鹿島は、大町平にある旧借馬村(かるま)の
枝郷になっています。

・JR大糸線信濃大町駅(タクシー20分)大谷原から歩いて8時
間45分で鹿島槍ヶ岳(2889m) 2万5千分の1地形図「神
城」

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第8章

 

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■剣岳山頂の祠

 「山の姿峨々(がが)として険阻(けんそ)画(え)のごとくな
るは越中立山の剱峯(けんぽう)に勝れるものなし…最も高く聳え、
たがひに相争ふ程なる峯五ツあり、剱峯も其一也」。江戸後記の医
者で文人の橘南谿の「名山論」(「東遊記」巻末)の剱岳(2999
m)に関する一節です。剱岳は立山連峰中最も峻険で、山名は「針
の山」ともたとえられるように、岩峰が剣のように突き立っている
ことに由来するといいます。

 剱岳は「人登る能はず、人登るべからず」ともいわれた神聖な山。
明治40(1907)年7月、三角測量点設置のため、参謀本部陸
地測量官柴崎芳太郎一行が苦労して登攀(とはん)した結果、頂上
で平安初期のものと思われる錫杖(しゃくじょう)の頭と槍の穂先、
また岩屋で焚き火した跡を発見しました。

 自分たちが初登頂だと思っていたにもかかわらず、すでに平安初
期に山伏が登頂していたのを知ってガクゼンとした話は有名です。
(その錫杖の頭の模造品が早月尾根登山口・馬場島の馬場島荘で売
っているらしいが、かつてここを登ったとき手に入れるのを忘れ、
いまでも悔やんでいます)。

 江戸中期の「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」には、剱岳
の地主神は刀尾天神(たちおてんじん)とし、また信州側には長野
県戸隠村の戸隠明神の本体は九頭竜でその尾は、ここ剱岳を七巻き
半しているとの伝説もあります。

 一方、剱岳は山そのものが不動明王として遥拝されてきました。
上市町大岩山日石寺には平安時代の巨大な磨崖不動明王の像が彫ら
れているという。剱岳が古くは不動明王の山としてあがめられ、修
験者の修行の場だったわけです。

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 山頂にある祠は須佐之男命(すさのおのみこと)をまつったもの
で、いまあるのは1956(昭和31)年に再建されたものという。
中には大聖歓喜天(だいかんぎてん)と書いた木札と石像があり、
その両側に「生駒山宝山寺(いこまさんほうざんじ)」の文字が書
かれています。生駒山宝山寺といえば、奈良県生駒市にある真言律
宗の「生駒の聖天(しょうてん)さん」と親しまれている商売繁盛
のご利益があるとされるお寺。

宝山寺のご本尊はナント不動明王。それならお不動さんの山・
剱岳にこのお札があっても、あながち場違いではないかもしれませ
ん。

・富山県上市町と立山町との境 富山地方鉄道立山駅からケーブ
ル、美女平からバス、室堂から歩いて6時間30分で剱岳 2万5
千分の1地形図「剱岳」

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■立山・雄山の雄山神社

 立山の本峰は、雄山、大汝山、富士の折立の三峰からなっていま
すが、立山三山というと浄土山、雄山、別山を指します。しかし、
ただ立山登山といえばやはり雄山へ登ることをいうそうです。雄山
には立派な社殿が建っていて、そのはるか奥に本殿がのぞめます。

 雄山神社は立山連峰の山岳信仰がもとになった神社で、雄山権現、
立山権現ともいっています。ここが峰の本社で、ふもとの立山町芦
峅寺(あしくらじ)池元尻に祈願殿(中宮)と、佐伯有若公をまつ
る大宮、その子有頼をまつる若宮があります。また岩峅寺岩坂には
前立社壇(麓大宮)もある。

 雄山神社の祭神は、手力男命(たぢからおのみこと)と、それに
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)で、いい伝えでは、大宝元年(7
01)というから、あの大宝律令の年。越中国司・佐伯有若の子・
有頼が、父が大切にしていた白鷹を持ち出し鷹狩りをしていました
が、鷹は大空に羽ばたき逃げてしまいました。

 あわてた有頼は山の中へ鷹を求めてさまよい歩きました。やっと
見つけて呼ぶと、鷹は喜び飛んで帰ってきて有頼の手にとまろうと
したその時、ふいに熊があらわれ襲ってきました。

 怒った有頼は、熊に向かって矢を放ちました。矢は熊の胸に刺さ
り、血をたらしながら逃げ出し、岩穴に隠れました。それを追いか
ける有頼。すると岩穴は明るく輝きだし、そこには矢を胸に刺した
阿弥陀如来が立っていました。

 霊異に驚く有頼に「地獄も極楽も兼ねそなわったこの山を霊山と
して開くべし」との如来のお告げがあります。有頼は頭を丸め、名
を慈(滋)興と改め、道をつくり室堂を建て山頂に社殿を建立し、
霊場立山を開くため生涯を捧げたという。

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 ただ「神道集」(巻第四・廿・越中立山権現事)には「教興上人
ト云人、御示現ヲ蒙テ此山ニ行向顕給へり」とあり、はじめから「高
僧が御示現を蒙り山に行き向かった」とし、少し異なった説明をし
ている。なお慈興と教興は、同名と解釈すべきだという(「立山開
山の縁起と伝承」)。

 しかし、立山を開山したのは父有若だとする古書もあり、後世、
江戸前期延宝(1673〜1681)年代あたりから嫡子有頼少年
開山と改変されていったのだという人もいます。

・富山県立山町 富山地方鉄道立山駅からケーブル、美女平から
バス、室堂から2時間30分で雄山 2万5千分の1地形図「立山」

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第8章

 

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■薬師岳山頂の祠

 薬師岳(2926m)は北アルプスで最も雄大で壮麗な姿をして
います。東方は直下に黒部渓谷上廊下があり、それを隔てて雲ノ平、
水晶岳、赤牛岳を望む。東斜面に四つの大カールがならび、昭和2
7(1952)年、国の特別天然記念物に指定されています。

 山頂には立派な祠が建っており、中に薬師如来や観音像が鎮座し
ていて、時おり登山者が鳴らす鐘の音が響きます。薬師岳のふもと
にある有峰湖の湖底には、かつては平家の落人が開いたとつたえる
有峰の村がありました。そこにはこんな伝説が残っています。

 昔、この村に「天びん棒」をつくるミサノ松という貧しい職人が
いました。ある日、山のなかでついウツラウツラとしていると、目
の前に金色に輝く薬師如来があらわれました。ミサノ松は如来に導
かれて歩き出しました。ふと気がつくと高い山の上に立っているで
はありませんか。

 「これはきっと薬師如来が薬師岳を開山させるために導いたのだ」
と思ったミサノ松は、山頂にお堂を建て、村に里薬師をも建立、薬
師如来をまつったといいます。

 以前、有峰村には旧暦6月25日の「岳の薬師」のお祭りがあっ
て、村民の15歳から50歳までの男子が登山参拝する習わしがあ
ったという。祭のり1週間も前から厳重な物忌みが行われ、家から
出るときには塩で身を清め、なおも太郎兵衛平や薬師岳の雪氷で、
3回けがれれを落とす習わしだったという。

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 頂上手前180mからは素足になり、山頂にヒエでつくった白酒
の御神酒をあげ、鉄板を切り抜いた剣を奉納したといいます。いま
でも祠の前には剣の形をした鉄板が散らばっています。ここもかつ
ては女人禁制の山で、当時は女性は真川谷で引き返す掟だったとい
う。

 有峰の村は1920(大正9)年、県営ダム建設のため全域を県
が買い上げ、住民は富山や大庄、大沢野、舟津などに移住しました。

・富山県大山町 富山地方鉄道立山線有峰口駅からバス、折立から
歩いて8時間で薬師岳 2万5千分の1地形図「薬師岳」

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第8章

 

 

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■黒川源流の河童

 黒部ダムがあることで知られる黒部川。その源は北アルプス中央
部鷲羽岳と雲ノ平南側祖父岳との鞍部岩苔乗越にあります。

 黒部川の流れは雲ノ平の台地の西を大きく迂回、上ノ廊下を通り
黒部湖へ注ぎます。その大きく迂回するあたり、太郎岳から流れ込
む薬師沢が黒部川に合流する所に「カベッケが原」というところが
あります。

 「カベッケが原」は「河化が原」で、河童が化ける原だそうな。
ここは昔から河童が出ることで有名な所。黒部の猟師たちは河童を
よく見たといい、夏になると河童が「ガヤガヤ」とにぎやかに盆踊
りをするという。

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 猟師たちの間ではまた、河童の足あともあるといい伝えていまし
た。事実、その後の探索でカベッケが原下流の「立石」付近で、三
本指の「河童の足跡」が多数発見され、写真にとられています(「黒
部の山賊」)。

 また河童の餌であるイワナをたくさん釣りすぎた人夫が、河童の
仕返しにあい、舌を抜かれて死んだなどという話も残っています。
その他河童にまつわる話は多い。

 雲ノ平アラスカ庭園の木道を過ぎると、岩が濡れて滑りやすい樹
林帯の中の急坂になります。やがて黒部川が現れ、吊り橋を渡ると
薬師沢小屋に着きます。

 カベッケが原は、小屋のちょっと上の湿地帯。クマ笹が生い茂る
登山道わきの流水のちょっとした広場に標識があります。

 今でこそ、富山県有峰から太郎兵衛平、カベッケ、雲ノ平への道
が通じて便利になっていますが、それでも途中で一泊しなければな
らないくらい山深い所の河童、おそらくキュウリの味は知らないだ
ろうと思います。

 カベッケが原を訪れた翌日、幸いにも前述「黒部の山賊」の著者
・伊藤正一氏と会うことができました。3本指の河童の足跡も現に
見られた氏は、「思うにカワウソの5本指の中の3本が砂に残った
ものではないか」とも言っておられました。著書の中でも「私は黒
部のカワウソらしい動物を2度見たことがある」と記しています。
1960(昭和35)年の8月のことだそうです。

・富山県大山町 富山地方鉄道有峰駅からバス、折立から歩いて8
時間でカベッケヶ原 2万5千分の1地形図「薬師岳」

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第8章

 

 

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■黒部五郎岳の中ノ俣白山神社

 黒部五郎岳(2840m)はその名のように黒部川源流の三俣蓮
華(みつまたれんげ)岳から薬師岳への尾根上にあり、山頂東側に
あるえぐれたような大カールは、この山をより個性の強いものに見
せています。とくに雲ノ平からの眺望は、雄大で名山として心に残
る山のひとつです。カールに残る雪田も鮮やかに展望でき、先年、
雪解けの水でしばし遊んだ思い出が脳裏に浮かびます。

 富山県側では、カールを鍋が欠けた様子に見立て、鍋山といって
いました。また飛騨側では、中ノ俣川源頭にある山なので中ノ俣岳
と呼んでいました。黒部五郎の五郎は、岩石が重なっているゴーロ
山のことで、この山の境界外の信州側のいい方だそうです。

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 この山を愛し、「わが黒部五郎」とまで呼んでいた中村清太郎が、
三枝威之介らと薬師岳方面から縦走して登頂したのは1910(明
治43)年のことでした。画伯は、信州の上高地の嘉門治から黒部
五郎の名を聞き、登山記に書いて世に紹介しました。以後、すっか
りこの名が定着したといいます。

 このとき山頂には柱状の自然石が二つあり、そのひとつに「中之
俣白山神社」とうすれた墨で書いてあったとか。

 白山神社は富士山、立山とならんで日本三名山のひとつの白山の
神・白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)が総本社。祭神は、ふ
つう菊理媛神(くくりひめのかみ・白山比盗_)と、伊邪那岐(い
ざなぎ)神、伊邪那美(いざなぎ)神の三柱だという。

 白山神社は全国に分布していますが、とくに石川県、岐阜県に多
く、黒部五郎岳のふもとの神岡町、上宝村(いまは高山市高山市上
宝町)にも散在しています。

 この山を源とし、南西に流れる中ノ俣川、金木戸川、双六川流域
の集落は、白山社を産土神(うぶすながみ)にしているところが多
いという。

 双六渓谷のある双六集落には、室町時代の1388(嘉慶2)年
と、1396(応永3)年という、古い年号のある大般若経文が保
存されている白山神社があるし、同字桃原(ももはら)や近くの新
田集落でも白山神社を土地の守護神にしています。地元の人は、お
らが山・中之俣岳(黒部五郎岳)にも白山神社を祭り、金木戸集落
経由で参拝登山をしたに違いありません。

・富山県大山町と岐阜県上宝村との境 富山地方鉄道有峰口からバ
ス、折立から歩いて11時間で黒部五郎岳(2840m) 2万5
千分の1地形図「三俣蓮華岳」

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第8章

 

 

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■鷲羽岳と鷲羽池

 1909(明治42)年に登頂した辻村伊助を「山と呼ぶ山はこ
とごとく四方に、此処はその渦巻の中心に位して、眼を遮るものは
少しも無い」(「飛騨山脈の縦走」第四日紀行)と絶賛させた鷲羽岳
(2924m)。

 こんな山も、南東にある鷲羽池を火口とする旧火山の外輪壁上の
ひとつに過ぎないというからスケールが大きい。鷲羽池は、三俣蓮
華山荘から鷲羽岳山頂を目指しジグザグ道を登りきる直前、右側直
下に姿を現しはじめます。

 標高2740m、直径250mの池は、昔は竜池と呼んでいたと
伝承されています。紺青色をした池はまさに竜も棲みそうな感じで、
1907(明治40)年、登山者として初めて登った志村烏嶺が「南
峰眼下に、一小湖を発見す……恐らくは何人の耳にも新しき事実な
るべし」と感激したことは「日本百名山」にも紹介されています。
人々はこの池を畏敬し、山の名を「竜池ヶ岳」と呼んだという。

 江戸時代、越中富山藩主が自領内の黒部川源流の山々を調査させ
て作った1697(元禄10)年の奥山廻りの記録には「鷲ノ羽ヶ
岳」とあり、これが鷲羽岳の文字の最初の記録だという。

 当時鷲羽岳は、越中、信濃、飛騨の三国境の山(三俣蓮華)を中
心に周りの山々の総称だったらしい。1808(文化5)年ごろか
ら東側の壮大な峰を「東鷲羽岳」として、いままでの広義の鷲羽岳
から独立させます。残った鷲羽岳は当然、いまの三俣蓮華岳のこと
になります(東鷲羽岳に対し、西にある三俣蓮華岳を、西鷲羽岳と
記す絵図もあったという)。これが明治以後、登山者の誤解で混乱
し、いまは東鷲羽岳(竜池ヶ岳)を鷲羽岳と呼んでいます。

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 奥黒部ヒュッテから長い読売新道を三俣山荘に向かいます。赤牛
岳で正午、水晶岳の先に鷲羽岳の頭が突き出ています。あれを越え
れば気持ちの良いテント場が待っています。3年前、三俣キャンプ
場の居心地良さに停滞したこともありました。明日は鷲羽池へいっ
てみよう。水晶小屋を越え、ワリモ乗越に着くころはすでに5時。
7泊の荷物でもう12時間歩いています。時間の関係で仕方なく雲
ノ平のテント場に向かいましたが、鷲羽岳があんなに大きくみえた
のははじめてでした。

・長野県大町市と富山県大山町との境 JR大糸線信濃大町駅から
タクシー、高瀬ダムから歩いて12時間で鷲羽岳 2万5千分の1
地形図「三俣蓮華岳」

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第8章

 

 

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■笠ヶ岳の祠

 全国各地に「笠」の形をした山は多いですが、北アルプスの笠ヶ
岳(2897m)ほどどこから見ても同じ形をした山はありません。
江戸時代は山頂から少し下にある山小屋あたりが人の肩に似ている
というので「肩ヶ岳」とか「迦多ヶ岳」といっていたという。おな
じみの念仏僧播隆上人がここに登り、東の空に浮かぶ天をつくよう
な槍ヶ岳を見て、初登頂を決意した話は有名です。

 笠ヶ岳初登山は、遠く鎌倉時代の中期、文永年間(1264〜7
5)からだというから古い。地元の高原郷(いまの上宝村)本覚禅
寺の道泉という和尚が初登頂との説があります。ただ大昔のことと
てどうもはっきりはしませんが……。

 時は下り、江戸時代の元禄年間、仏像を鉈一丁で刻むことで有名
な円空が登ったともいわれています。

 ご存知円空は、12万体の仏像を彫ることを発願した江戸初期の
密教布教僧。1683(天和3)年、飛騨に入り、のち1689(元
禄3)年、いまの上宝村長倉の桂峰寺で今上皇帝像を刻みました。
その時までここ飛騨ですでに1万体、各地のを合わせると10万体
彫っていたとの記録があります。笠ヶ岳に登ったのはこのころのこ
と。山頂に大日如来を安置したといいます。同村には円空作の仏像
がほかに数点残っているそうです。

 次に登ったのは高山市宗猷寺(そうゆうじ)の何裔(なんえい)
上人。1782(天明2)年、のことだといいます。

 江戸も後期の1821(文政四)年、修行の旅を続けていた播隆
上人は笠ヶ岳を開山した道泉和尚の寺・本覚禅寺の椿宗和尚を訪
ね、岩井戸地区にある杓子形にえぐられた岩屋(釈子窟)にこもり
修行をしました。

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 この笠ヶ岳開山の本家のお寺は上宝村本郷地区にあり、臨済宗妙
心寺派で正式名称は高原山本覚寺。当郷の領主絵馬氏の2代目の子
が出家し開いた寺という。

 さて2年間岩屋で修行した播隆は、1823(文政6)年6月、
いまの笹島地区から笠谷をさかのぼり、荒れたわずかな踏み跡を探
しながらなんとか登頂します。その後多くの信者が登れるようにと
道を整備、1里ごとに8体の石仏を建て、山頂に阿弥陀仏像を祭っ
たといいます。いまでも笹島地区の観音堂から笠ヶ岳まで旧登拝道
が残っており、一里塚は村の文化財になっているという。山頂には
現在もなごりの祠が残っています。

・岐阜県上宝村 JR高山本線高山駅からバス、新穂高温泉から歩
いて7時間で北ア笠ヶ岳(2897m) 2万5千分の1地形図「笠
ヶ岳」

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第8章

 

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■槍ヶ岳の祠と播隆上人

 槍・穂高といえば 北アルプスを象徴する言葉で、文字どおり天
を突くような姿は、やはり人気の的。夏になると槍の穂先は、登山
者のと行列が続き、きまって山頂の祠をバックにカメラにおさまっ
ています。

 槍ヶ岳(3180m)といえば播隆上人の初登頂で有名です。播
隆は江戸後期の念仏僧。「此の頂上は往昔より、踏み登りたる人な
しと。ここに於いて余発願して、去る文政十一年戌子の秋、はじめ
て頂上にのぼり、銅製の阿弥陀如来、同じく観世音菩薩、木造の文
殊大士の三尊を安置し奉る」と、「鎗ヶ岳縁起」(江戸時代、明治、
大正にかけては「鎗」の字が多く使われていた)にあるように、播
隆は、いまの長野県三郷村の中田又重郎を案内人に頼み、大阪で鋳
造した仏像を背に槍の穂先に初登頂。

 こうして念願を果たした播隆は、山頂の岩を集めて北側の一番高
いところに小さな祠をつくり、中に三体の仏像を安置した。182
8年、7月28日のことだったという。

 その後、みんなが登れるようにと「善の綱」と名付けた綱を岩壁
につけ、さらに山頂を整地。木の祠をつくり、先の仏像3体と新た
に運んだ銅製の釈迦像をまつり、この4体を山の寿命神にしたとい
う。いまあるのはその後何度か再建された祠。厳しい風雪に耐える
祠の中はからっぽ。播隆の初登頂の苦しみに、その背中で汗を流し
たと伝える仏像たち。どこかに安置してあるのか、一度でいいから
実物を拝観したいものです。

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 久しぶりの槍の穂先は、3つの旅行会社の団体ツアーと一緒にな
ってしまった。山頂は満員で、人をかきわけ祠に近づき、二、三枚
の写真を撮るのがせいぜい。直下の鉄梯子では、添乗員が3人降ろ
して3人登らせるなど交通整理をしています。登降者が行き交う岩
場で、団体客同士が互いのツアーの値段を聞きあっています。黙然
とそびえる槍ヶ岳は、この人気をどう受けとめているのでしょうか。

・長野県大町市、安曇村と岐阜県上宝村との境 松本電鉄新島々駅
からバス、上高地から歩いて10時間半で槍ヶ岳(3180m) 
2万5千分の1地形図「槍ヶ岳」

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第8章

 

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■上高地・穂高神社と安曇野伝説

 安曇野の安曇は日本古代の海人を率いたとされる安(阿)曇氏で、
昔この地で栄えた豪族。海神・綿津見命(わたつみのみこと)の子
孫だと称し、長野県穂高町の本宮である穂高神社はその祖神綿津見
命とその子・穂高見命(ほたかみのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎの
みこと・木花咲耶姫の夫)をまつります。この神社は平安時代の「延
喜式(えんぎしき)」に「穂高神社明神大(ママ)」とすでに書かれ
ているというから古い神社です。

 登山者におなじみ上高地明神池にあるのはその奥社で穂高見命だ
けをまつります。穂高神社をまつる村は、穂高町(いまは安曇野市)
のほか牧村に穂高大明神、上堀金村(いまは安曇野市)に保高大明
神が、下堀金村(いまは安曇野市)に穂高明神があります。

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 穂高神社は穂高に座す神の社、または穂高神をまつる神社の意味
で、平凡社の「日本歴史地名大系」の長野編から引用させていただ
くと、「信府統記」に「此岳ハ往古ヨリ穂高大明神ノ山ト云伝ヘテ
此ノ名アリ、嶮山ニシテ登ルコト能ハズ、麓ニ大明神ノ御手洗トテ
あら(ママ)池ト云フアリ」とあるという。また同書は「御手洗河
水アルトコロヲ神合地トイフ」とあり、明神池付近のことを書いて
います。

 その、昔、穂高見命が天下りしましたが、その頃はまだ安曇野は
湖の底だったという。湖水を落とせばりっぱな平野になると命(み
こと)は考えましたが、まわりの山々が壁になっていてどうにもな
りません。

 ところでこの湖には犀竜(さいりゅう)という美女の主(ぬし)
が住んでいました。美男美女とくればそこはそれ、いつかふたりは
子供までもうける仲になっていました。ある日犀竜は穂高見命の計
画を知り、自ら蛇体に化身、風を起こし雲を呼び、山の一角を蹴や
ぶったという。湖水は犀川となって流れ、安曇野ができあがったと
古書にあります。

穂高神社奥社へは、上高地バス停から1時間あまり、穂高神社の
標柱から参道を入り、釣り橋を渡ります。境内は人影もまばらで受
付けで尋ねやすい。信濃が海だったころ命(みこと)が降り立ち一
帯をおさめたので、水の神としてまつり上高地は神降地、神垣地と
も呼ぶといいます。はじめけげんな顔をしていた宮司も、だんだん
打ち解け「そんなに関心を持ってくれるならいらないよ」と拝観料
をとってくれませんでした。

・長野県松本市安曇村 長野電鉄新島々駅からバス、上高地 2万
5千分の1地形図「上高地」

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第8章

 

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■常念岳の祠と常念坊

 穂高の展望台常念岳(2857m)はもと、まゆみ岳と呼んでい
たという。それが常念岳と名前が変化したいきさつについては、い
ろいろな言い伝えがつきまとっています。

 平安時代の初め、坂上田村麻呂が有明山の岩屋に住む魏石鬼(ぎ
しき)八面大王を中房温泉近くの合戦沢まで追いつめ、ついに討伐
します。その時大王の一の子分の常念坊という鬼が飛行の術を使い、
まゆみ岳に逃亡しそこに住みつきました。この鬼はよく念仏を唱え
ていたといいます。

 その後年の暮れ、ふもとの村に市が立つごとに酒屋に怪しい坊さ
んが現れ、5合入りの徳利(とっくり)を差し出して5升入れろと
いいます。

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 頭をひねりながら酒屋の親父がついでみると不思議に一滴もこぼ
れず入ってしまいました。この話を聞いた村人は「あの坊さんはまゆ
み岳の常念坊に違いない」と噂しあい、いつかまゆみ岳のことを常念
岳と呼ぶようになったといわれます。

 これと同じような話が近郊の町村にあり、堀金村(いまは安曇野
市)では岩原・多々井の山奥に住む山姥が、豊科町(いまは安曇野
市)新田の市に、不思議な入れ物を持って買い物にくるという伝説
もあります。

 また穂高町(いまは安曇野市)牧、栗尾の満願寺の住職・常念坊
が開山したので、あるいは堀金村では田尻の正福院の常念坊という
修験者が登るようになったのでその名がついたという説もありま
す。

 この常念坊の雪形が春、前常念岳の東の山腹に黒くあらわれます。
かつては常念岳に天狗の祠もあったとも伝え、山岳信仰の山として
いまでも山頂にりっぱな祠が祭られています。

 常念岳から西を眺めると槍ヶ岳を人間の鼻に、大喰岳を胸に見た
てると大男が仰向けに寝ているように見えます。ちゃんと左手(大
喰岳からの尾根)を持ち、ちょっと出っ張ったへそ、または男性自
身?になっている中岳もあります。(常念小屋・山田恒男氏に聞い
た話)。なるほど、見方を変えるといろいろ面白い形が見えてくる
ものです。

・長野県穂高町、安曇村、堀金村との境 JR大糸線穂高駅からバ
ス、中房温泉から歩いて11時間で常念岳(2857m) 2万5
千分の1地形図「穂高岳」

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第8章

 

 

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■乗鞍岳剣ヶ峰の祠

 乗鞍岳は権現池を中心とした剣ヶ峰、大日岳、屏風岳、薬師岳、
雪山岳、水分岳、朝日岳、蚕玉岳の八峰と北へ富士見岳、不動岳、
摩利支天、恵比須岳、さらに烏帽子岳、四ツ岳、猫岳、大崩山など
諸峰の総称です。

 最高峰の剣ヶ峰には乗鞍神社を祭り、長野県向きに乗鞍権現(朝
日権現)、岐阜県向きには御嶽神社の祠が背中合わせに建っていま
す。

 平安時代の史書「三代実録(さんだいじつろく)」に、大野郡愛
宝山の名前で登場しています。古書にある岐阜県側の大野郡拝郷の
山という意味だとか。

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 平安中期以降は「位山」と呼んだという。「くら」とは神が宿る
岩座(くら)で、当時はここに登ることは許されず、長野県側は大
野川、岐阜県側は大丹生池付近の遥拝所で山頂を拝むのがやっとだ
ったという。

 平安も末期の1183(寿永2)年、僧大夫坊が、山頂に大日如
来を安置したという。

 その後、山伏たちが登るようになって、頂上にそれぞれ乗鞍権現、
御嶽神社が祭られ、信仰登山が盛んになります。江戸後期の182
0(文政3)年に著された修験者・明覚法印(信州奈川村)の「乗
鞍山縁起」では、平安初期の807(大同2)年、坂上田村麻呂が
飛騨評定の時、ここに登って乗鞍三座の神に勝利を祈願したという
から古い。

 下って鎌倉時代の初め、社殿が建てられたが、応仁(室町時代)
以降、荒廃したとあります。

 近世には円空が大丹生池に千体仏を投入して豊作、悪疫退散を祈
願し、また大喰行者も登ったと伝えます。また、信州側山ろくの大
野川村明覚法師と、江戸神田の梅本院永晶が、1819(文政2)
年の6、7月に7回も登山修行したという記録があります。

 位山が初めて乗鞍岳と書かれたのは、元禄時代の飛騨国絵図。同
時期の別の書には騎鞍岳とあるのもあります。明治になり、両方の
字に「のりくらだけ」とふりがなされ、また山容が鞍に似ているの
で次第に乗鞍の名が定着していったということです。

・長野県安曇村と岐阜県丹生川村との境 松本電鉄新島々駅からバ
ス、乗り鞍畳平から1時間30分 2万5千分の1地形図「乗鞍岳」

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第8章

 

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■北アルプスの山 参考文献・ご協力

「角川日本地名大辞典・長野」角川書店
「上高地物語」横山篤美(信州の旅社)
「北アルプス白馬連峰 その歴史と民俗」長沢武(郷土出版社)
「黒部の山賊・北アルプスの怪」伊藤正一(実業之日本社)
「信州山岳百科・1」信濃毎日新聞社
「立山開山の縁起と伝承」(「山岳宗教史研究叢書10」名著出版所
収)
「立山をめぐる伝承説話」佐伯幸長(「山岳宗教史研究叢書10」名
著出版所収)
「立山と黒部奥山の信仰伝承」広瀬誠(「山岳宗教史研究叢書16」
名著出版所収)
「立山と黒部の昔話」全2巻(立山黒部貫光株式会社)
「日本歴史地名大系・富山」平凡社
「日本歴史地名大系・長野」平凡社
「播隆上人と槍ヶ岳・笠ヶ岳」前田英雄(「山岳宗教史研究叢書10」
名著出版所収)
「飛騨双六谷記」小島烏水(「日本山岳風土記1」宝文館所収)
「飛騨山脈の縦走」辻村伊助(「日本山岳風土記1」宝文館所収)
「秘録・北アルプス物語」朝日新聞松本支局
「ふるさと常念」常念研究会編
「山DAS」石井光三(白山書房)
「鑓ヶ岳縁起」代田晒子(「日本山岳風土記1」宝文館所収)


▼協力
長野県堀金村(いまは安曇野市)教育委員会
長野県小谷村教育委員会
北アルプス常念小屋

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(第8章 終わり)

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第9章】へ