第3章 北関東・西上州の山々

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▼中 扉

【北関東・西上州の山々】 このページの目次
・那須茶臼岳山頂の祠と伝説
・奥日光金精峠金精さま
・奥日光白根山のホコラ
・男体山の天狗騒動
・皇海山の剣
・庚申山と庚申さま
・荒船山の伝説
・両神山のオオカミこま犬
・北関東・西上州の山 参考文献・ご協力

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■那須茶臼岳山頂の祠と伝説

 栃木県那須町にある茶臼岳は那須岳ともいい標高1915m、無
限地獄は現在でも白煙を吹き上げています。この山は三本槍ヶ岳、
朝日岳、南月山、黒尾谷岳を合わせて那須五峰と呼ばれています。

 室町期の応永15(1408)年に大噴火。「野州那須山焼崩、
同日ニ空ヨリ硫黄降、上州那珂川硫黄ニ成事、五六年也」と古書に
記されるほどの被害が出ました。その後たびたび噴火をくり返して
います。

 ここも古くから信仰の山。修験道の山としても知られ、信徒は、
茶臼岳南東の「お行の湯」と呼ばれる高雄湯で垢離(こり)をとり、
行人道を通って参詣登山をしたという。那須の山岳信仰も役ノ行者
の登山(大宝元・701年)からはじまるとされています。

 その100年後に空海が登り、高湯岳、月山、毘沙門岳の「三山
権現」を勧請、那須信仰登山の基礎としました。高湯山はいまは地
名だけが残る御宝前温泉、月山は茶臼岳、毘沙門岳は朝日岳にあた
り、後世には三山駆けも行われたと『関東百山』(那須朝日岳の項)
で横山厚夫氏は書いておられます。江戸期文化文政が最盛期で、三
斗小屋は那須詣での人たちの宿場として栄えたという。

 茶臼岳山頂には那須神社の石祠があります。大田原市南金丸に坂
上田村麻呂が応神八幡を祀った那須神社がありますが、山頂の祠と
の関連は残念ながら分かりませんでした。

 東麓の有毒ガスが発生する「殺生石」にはこんな伝説があります。
その昔、唐国から玉藻(たまも)という美女がやってきて帝(みか
ど)の寵愛を一心に受けましたが、実は顔が白く金の毛のおおわれ
た「九尾の狐」の化身だったという。

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正体を暴かれたキツネは那須野が原に逃げ、その怨念で毒石に化
けました。それがいまの殺生石だという。

 茶臼岳周辺は硫黄の結晶がよく見られ、以前は山頂の西の斜面の
下の小平地で、採掘が行われていました。強風で有名な北方の峠に
ある「峰の茶屋」は、硫黄製錬所の鉱夫たちの休憩所でしたが、昭
和28年の噴火を前に硫黄の採掘は中止したということです。

・栃木県那須町 JR東北本線黒磯駅からバス、那須岳山麓からロ
ープウェイ、山頂駅から歩いて50分で那須茶臼岳(1915m)
 2万5千分の1地形図「那須岳」

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第3章

 

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■奥日光・金精峠の金精さま

 奥日光湯元から群馬県片品村とを結ぶ国道120号線の県境の金
精トンネル。金精峠はその上の、北東温泉ヶ岳と北西の金精山の鞍
部にあります。そこにはこわれかかった鳥居の先にお堂の形をした
赤い屋根の社が建っています。なかには石製の「カナマラさま」が
ちん座ましまし、そばに「金精神社」と書かれた額が置かれていま
す。この神さまは金精権現ともいい、男女の縁結び、出産などに霊
験あらたかなのだそうです。

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 金精さまの「金」は金色に輝く立派なものという意味で、「精」
は精力絶倫の勢いをあらわすのだという。つまり勢いづいた堂々た
るイチモツのことなのだそうです。昔からの性信仰の姿です。

 峠の名前はもちろんこの神さまに由来するもの。かつては手へん
に越の字を書いて「こむら峠」と呼んでいましたがなまって「きむ
ら」になり、さらに金精権現の信仰にちなみ「きまら峠」になって
いまの名前に転化したという。

 また「人境をはなれたる山道なり。(中略)常に人の通行なし」
と「日光山志」(「日本歴史地名大系」平凡社)にあるほど人里離れ
たところだったらしい。

 この峠道は、かつて日光山の信徒のための修験道の入峰の道。金
精山の山腹にある高さ700mの垂直の岩場は、笈吊岩(おいづる
いわ・笈づり)といい、日光修験の補陀洛(ふだらく)夏峰の行場。
行者はあまりの厳しさに笈(おい・山伏が背負う箱)を置いて岩を
登り、登って終わってから箱を吊り上げたという。温泉ヶ岳も夏峰
の経路で山頂に石仏もまつられていたという。

 明治の時代まで日光と上州方面を結ぶ重要な生活道路でしたが、
1965(昭和40)年に峠の下・標高1850m付近から長さ7
55mのトンネルが開通、国道120号としていまは重要な産業道
路になっています。

 なお、この道路は山岳道路のため、冬季(12月〜4月)は積雪
により閉鎖されます。

・栃木県日光市と群馬県片品村との境 JR・東武日光線日光駅か
らバス、湯元から歩いて40分で金精峠 2万5千分の1地形図「男
体山」

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第3章

 

 

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■奥日光白根山・白根権現の祠

 奥日光白根山(2578m)の山頂にも古い木の祠が建っていま
す。奥白根神社の白根権現をまつるものです。仏や菩薩がモロモロ
の生物を救うために、神に化身して仮(権)にこの世に現れるとい
う本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の権現なので当然修験道の
山です。

 本地は十一面観音で、山頂に「魔海、仏海」の2湖があると古書
にあるといいますが、火口湖の五色沼や弥陀ヶ池を指すかははっき
りしません。

 東の前白峰山に対しての奥白根山で、前白根には前白根山神社が
まつられ、奥白根神社は大己貴命(おおなむちのみこと)が祭神に
なっています。江戸初期の慶安2(1649)年、白根山が噴火し
たとき、古くから祀られていた石祠が、火口に落下しました。その
後、日光山座主(ざす)の名で再建されたという。

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 奥白根山は、日光男体山の奥の院ともいわれています。鎌倉時代
前期、熊野三山信仰を日光に導入した常陸の豪族大方政家の六男、
頼朝の帰依僧・但馬法印弁覚は、日光三所権現の信仰に基づく日光
修験の体系化を図り、日光山中興とされようになりました。

 日光修験は、鎌倉末期から南北朝にかけてとくに盛んになり、春
の峰、夏の峰、冬の峰と秋の五禅頂を合わせた「三峰五禅頂」の峰
入り修行が行われ、奥白根山も夏の奥駈け道場の場になっていたそ
うです。

 かつて庶民の信仰登山道は、いまと違い群馬県側が表口だったと
され、丸沼方面から登る人が多く、いまでも遠鳥居、不動尊、六地
蔵、大日如来などの地名が残っています。

 当時、上州側の村人は産土神(うぶすながみ)として山頂に荒山
権現をまつり、各家ごとに特産の新繭からとった糸を奉納するため
に登山したという。

 シラネアオイの花を見に行ったのは、もう十数年も前になります。
淡紅紫色の花はちょうど見ごろで、あちらこちらでシャッターの音
がしています。花を十分に楽しんだあと、がれきの急坂を登ります。
ガスにつつまれた山頂には、壊れた木の祠が見向きもされずころが
っています。荒廃したその形からかなり以前から見捨てられてきた
と思われ、民衆の山岳への信仰の衰退を象徴しているようでありま
した。

・栃木県日光市と群馬県片品村との境 日光駅からバス、湯元から
歩いて4時間で日光白根山(2578m) 2万5千分の1地形図
「男体山」

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第3章

 

 

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■日光男体山の天狗騒動

 日光の男体山は家族持ちです。北東の女峰山の妻との間に愛子(ま
なこ)の意味の(?)小真名子山、大真名子山があり、北側にはす
でに独立した長男・太郎山があります。男体山の名は、この山を神
体とする二荒(ふたら)山神社(山頂に奥社)の祭神・大己貴命(お
おなむちのみこと=大国主命・大黒さま)の居所であるところから
きているという。

 奈良時代のえらいお坊さん、勝道上人が782(延暦元)年にこ
の山を開いたと、弘法大師空海が漢詩集『性霊集』に書いています。
その時、どのコースを登ったかについてはこだわりがあるらしく、
いろいろな人の間で難しい論議が交わされてきました。

 勝道上人が登ったころの山は補陀洛山(ふだらくやま)と呼ばれ、
のち二荒山(北東の羅刹崛(くつ)の岩穴から年2回突風が吹き出
るのにちなむ)と改称。その後、空海が岩穴を結界。二荒を「にこ
う」と読み、日光の名が生まれたとされています。

 ここも山岳修行の山、日光修験は八十坊からなり、本山派、当山
派の支配からはずれ、独自に厳しい修行をしていたという。もとも
と日光には日光坊という天狗がいたが、1617(元和3)年、東
照宮造営前後に突然、群馬県の妙義山に「山移り」したという。

 山移りは神奈川県の丹沢大山の天狗相模坊(さがみぼう)が香川
県の白峰に移り、後がまに伯耆大山(ほうきだいせん)から伯耆坊
天狗が移り住んだように、よく行われることです。

 日光坊がいなくなった日光に住みだした天狗が東光坊。東光坊は
徳川家康の化身という説があります。家康他界後、神号が許された
とき幕府は称号を「東光権現」とする意見が大勢を占めていたが、
中途で再転し、結局「東照権現」に決定したと「東照宮史」にあり、
あながちこの説でたらめでもなさそうです。

 ただこの天狗は新参者のせいか、勢力が日光中腹からふもとにか
けてだけで、奧の山々には及ばず古参の天狗どもがよく騒ぎを起こ
したという。

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 江戸も後期の1824(文政7)年、奥山の天狗どもあてに日光
社参奉行水野出羽守と、日光の前山・古峰ヶ原(こぶがはら)の天
狗隼人坊(はやとぼう)の連名で、日光廟前とわざわざ山の中の剣
ヶ峰に高札を建てたといいます。

 内容は来年、十一代将軍家斉が日光社参に訪れるため、その期
間は騒ぎを起こさず、京都の鞍馬山、愛宕山、静岡の秋葉山、福岡
県の英彦山など、他の山に移れというものだったというウソのような
ホントの話があったというから愉快です。

 ちなみに翌年の家斉の社参は行われなかったということです。

・栃木県日光市 JR日光線日光駅からバス、二荒山神社前から歩
いて3時間40分 2万5千分の1地形図「男体山」

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第3章

 

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■足尾・皇海山の剣

 栃木と群馬の県境にどっしりとまたがる皇海山(2144m)。二
等三角点のすぐ東側に青銅の剣があります。それには「庚申二柱大
神 奉納 當山開祖 木林惟一」あり、裏の右側に筆字で「明治二
十六……」と日付けが書いてあります。

 この文字が、小暮理太郎の「皇海山紀行」(大正8年12月)の
中にも「高さ七尺幅五六寸と思われる青銅らしき剣が建ててあって、
南面の中央に庚申二柱大神と朱で大書し、其下に「奉納 當山開祖
…」と記してあり、裏には明治二十六□七月二十一日参詣□沢山若
林五十五人と楽書がしてあったのみで、奉納の年月日は書いてなか
った」とあります。

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 当時は朱書きだったといいますがいまは墨書きなので、誰かが書
き直したものでしょうか。木林惟一とは、東京の庚申講の行者で、
庚申山から皇海山への道を開き、奥の院としたのだという。庚申山
の中にも奥の院はありますが、庚申山という山に対する奥の院の山
という意味だと同書は説明しています。

 庚申山には、庚申の申はサルと読むところから猿田彦神(さるだ
ひこがみ)を祭ってあります。青銅の剣の裏にある二柱大神とは、
この猿田彦神とその妻・天鈿女命(あめのうずめのみこと)のこと
だしょうか。

 庚申講登山が盛んだった江戸時代から明治中期にかけては、よく
庚申山、鋸山、皇海山の三山駆けが行われたという。

 皇海山は、山の形がコウガイ(髪掻)に似ているため、「笄山(こ
うがいやま)」と呼ばれていましたが、このコウガイに皇開の字が
当てられ、さらに皇海に変化したのだろうといいます。

 「皇海山紀行」によれば、この山は正保(1644〜48年)の
地図には「さく山」とあり、貞享(じょうきょう・1684〜88
年)の「前橋風土記」には「座句山」とあるという。

 1879(明治12)年の郡村誌には、この山を笄山(こうがい
やま)の名で紹介。その後同21年頃の地誌には皇開山の文字も現
れはじめる。「皇開」が「皇海」に当て字され、読み方も皇海山(す
かいさん)と変わったのだろうということです。

・栃木県足尾町と群馬県利根村との境 わたらせ渓谷鉄道通洞駅か
らタクシー、銀山平から歩いて7時間で皇海山 2万5千分の1地
形図「皇海山」

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第3章

 

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■足尾・庚申山と庚申信仰

 60日に一度回ってくる「十二支」の庚申(かのえさる)の夜、
講を組み、ごちそうを持ち寄って一晩中眠らずに過ごし、健康長寿
を願う「庚申待(こうしんまち)」という行事があります。

 講中が庚申の神を供養したしるしに建てたのが「庚申塔」。今で
も街道や神社の境内などでよく見かけます。

 その庚申講の本山が足尾にある庚申山(1892m)だという。
かつてこの山には年劫を経た一匹の白い猿がすんでいたといい、猿
が申(さる)に通じるところから庚申山と名付けられて信仰された
のだそうです。そんなころから庚申山は「猿の浄土」とも呼ばれて
います。

 猿はまた「古事記」などの天孫降臨の神話で、道案内をした猿田
彦の猿にも通じるため、この山には猿田彦神をも祭っています。

 この山は、日光を開山したことで有名な勝道上人が奈良時代の7
84(延暦3)年に開いたとされ、山伏たちの修行の道場だったと
いう。駒掛山から鋸山へ連なる「鋸十一峰」は地蔵岳、薬師岳、蔵
王岳、剣の山など、いかにもそれらしい名前のピークが続いていま
す。

 奥にそびえる皇海山(すかいさん)は庚申山の奥の院で、山頂の
すぐ東側に青銅の剣が建っていて、「庚申二柱大神」の文字と東京
庚申講の先達の木林惟一の名も書かれています。

 江戸後期の1820(文政3)年上総の三橋臣彦(「天狗列伝」
では佐野一信になっているが同一人物でしょうか?)が「庚申山記」
を書き(「天狗列伝」による)、さらに1841(天保12)年、滝
沢馬琴が「南総里見八犬伝」で、犬飼現八が犬村大角の父の亡霊に
会い、復讐を頼まれ、大角を助け、山の年くった猿を退治する話を
展開してからこの山は一躍有名になりました。

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 江戸の末期には信者も増えて庚申山「お山廻り」が流行します。
その後も山を紹介する本が続いたせいもあって、登山道にはいろい
ろな講中から寄進された石仏や灯篭、また里程標などが今でもズラ
リとならんでいます。

 江戸も末期の1865(慶応元)年には、江戸だけで庚申講に加
わる人が3000人もいたと伝え、ふもとの通洞付近の宿はにぎわ
ったということです。庚申山はコウシンソウの自生地としても有名
です。

・栃木県足尾町 わたらせ渓谷鉄道通胴駅からタクシー、銀山平か
ら3時間20分で庚申山(1892m) 2万5千分の1地形図「皇
海山」

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第3章

 

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■荒船山の祠伝説

 でっかい船の形をした、その名も荒船山。「あの平らな頂上の突
角が突如落ちて、本当に船の軸のようになっているところを見ると、
たしかに荒船という名にふさわしい」と大島亮吉も「荒船と神津牧
場附近」という一文に書いています。

 荒船山は南北に1200m、幅800m。南に向いた船体の船首
に当たるのがこの山の最高峰・行塚山。かつて弘法大師が経文を埋
めたという伝説があり、行塚は経塚の意味だともいわれています。

 船の「甲板」は、平坦で低い樹林とササが続く気持ちのよいハイ
キングコース。船尾に当たるのが北端の艫岩で、荒船溶岩が削り取
られ、高さが約170m、幅600mもの大絶壁になっています。

 この山もかつては山岳信仰の山。甲板中央に「諏訪明神」を祭る
荒船神社の本社の石宮が、行塚山にもいまではつぶれかかった石の
祠があります。東側、群馬県富岡市の一の宮貫前神社、西側、長野
県佐久市の荒船神社(本社遥拝所)が、ともに仲良く荒船神社本社
の里宮だという。

 これらの神社は、「神道集」(室町時代成立といわれる神社の由来
縁起などを説いた何やら難しそうな本)によると「……さて諏訪大
明神は、母御前のいる日光の岳へ通ううち、この姫(荒船山に住む
のちの貫前神)と互いに顔見知りになり、男女の道に心を移して夫
婦になった……」とあるほどの仲だというからうなずけます。(同
姫はインドのクルベイ国の長者の娘で国王があまりしつこく言い寄
るためここまで逃げてきて、荒船山に隠れ住んでいたという)。一
方、荒船大明神というのはこの姫の美人侍女の一人だとしています
(同書)。

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 荒船山は修験道の山でもあり、山腹に荒船不動、山麓には天台宗
などのお寺も多くあります。

 大昔、このあたりにデイラン坊という大男が住んでいました。冬
の寒い日、大男は火を吹き上げる浅間山をこたつにして、荒船山を
枕に寝たが、夜になって冷え込んだせいかくしゃみをした。その音
があまり大きかったせいで浅間山が爆発を起こしたという伝承もあ
ります。

・群馬県下仁田町と南牧村、長野県佐久市との境 上信電鉄下仁田
駅からバス、三ツ瀬から歩いて2時間45分行塚山 2万5千分の
1地形図「荒船山」

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第3章

 

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■両神山の両神神社

 その昔、日本武尊が東征の折り、筑波山から八日間この山を見な
がらこの山に至ったので「八日見山(ようかみやま)」。それが転訛
して両神山になったという。しかしこれは小鹿野町側からの呼び名
だそうです。両神村側では竜神(頭)山(りゅうかみやま)といっ
ていました。

 もっとも、八日見のヨ(ヤ)ウカミはヤオカミのことで、ヤは八、
オカミはオロチ(大蛇)。つまり八つの頭を持つ竜王(竜頭大明神)
だというから、八日見でも竜神でも同じことではあります。竜頭山
の名もあり、北の坂本地区には竜頭神社があります。

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 山頂直下の平坦部には、ふたつの神社が背中合わせに鎮座してい
ます。東向きに建っているのが両神神社(旧両神明神社・里宮は薄
地区日向大谷・別当観蔵院金生寺・当山派)、もう一つ南向きに建
っているのは両神大神社(御嶽神社)(両神山両神神社)(旧両神権
現社・里宮は浦島地区・別当金剛院・本山派)の奥社で両方ともオ
オカミの狛犬が建っています。

 北側の剣ヶ峰には両神神社の奧社(小祠)、両神大神社の祭神を
刻んだ石祠と普寛行者の碑が安置されています。剣ヶ峰の北の東岳
と西岳の中間鞍部に竜神神社の奧社(小祠)が祀られています。こ
れら三社の信仰拠点が両神信仰の中核をなしています。

 オオカミは神使で大神に通じるため、おいのさまと呼ばれ、かつ
てはこの一帯はオオカミ信仰が盛んだったそうです。ともに盗難、
火難よけの大口の真神の神札を発行し、村人はそれを持ち帰り家の
戸口などに張っています。山頂には両神神社奥社(祠)と、両神大
神社の祭神を刻んだ石碑と普寛行者の碑が安置してある(「両神山
の信仰」)。

 両神神社奥の院は、両神から転訛した名前から伊弉諾尊(いざな
ぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の両神をまつります。
この両神信仰は八世紀初頭、一位道人という人が広めたと伝えられ
ます。

 奈良時代、役ノ行者(役ノ小角・えんのおづぬ)が開山したとい
い、江戸時代は修験者の道場。山中のあちこちに300以上の石仏
・石神が建っています。

 また、両神大神社は御岳神社ともいうようにこの山も木曽の御嶽
行者が修行した山で、御嶽講の霊神碑も多く建っており、御嶽講の
教祖普寛(ふかん)行者の碑も安置され、山中にも木曽の御岳山の
前山、八海山とか三笠山、阿留摩耶山(あるまやさん)などの地名
が散在しています。表参道には八海山の天狗の分身大頭羅神王(だ
いずらしんんのう)の像もあります。

 竜神山の異名があるように、ここは古くは竜王の山。雨乞いも行
われ、稜線東岳と西岳の間には竜頭神社奥社の祠があります。

・埼玉県両神村 西武線秩父駅からバス・小鹿野乗り換え出原から
歩いて4時間で両神山山頂 2万5千分の1地形図「両神山」

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第3章

 

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■北関東・西上州の山 参考文献

・「日光山の信仰伝承」飯田真(「山岳宗教史研究叢書・16」所収 
名著出版)
・「皇海山紀行」木暮理太郎 (「山岳宗教史研究叢書・5」所収 
名著出版)
・「関東百山」横山厚夫ほか(実業之日本社)1985年6月20

・「日光修験道史」中川光熹(「山岳宗教史研究叢書・8」所収 名
著出版)
・「両神山の信仰」千嶋寿(「山岳宗教史研究叢書・8」所収 名著
出版)
・「角川日本地名大辞典・栃木」角川書店

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(第3章 終わり)

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