■第10章 葬 送

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▼中 扉

この章の目次
 ・遺言・遺書
 ・永眠(死に水、湯かん、枕かざり)
 ・葬儀社
 ・北枕西向き
 ・死亡診断書
 ・死亡届
 ・埋葬許可証
 ・戒名
 ・納棺
 ・祭壇
 ・通夜
 ・位牌
 ・焼香
 ・合掌
 ・神式キリスト教通夜・葬儀(喪主、供物、花輪
   数珠、喪服、香典、不祝儀袋)
 ・告別式(出棺、霊柩車、神式キリスト教式告別式)
 ・火葬
 ・塩
 ・土葬風葬水葬
 ・精進料理(精進落とし)
 ・仏壇(仏具)
 ・墓地(墓石、卒塔婆)
 ・相続(形見分け)
 ・香典返し
 ・忌中喪中
 ・新盆

−p193-

 

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・遺言・遺書

 

 人間も最後は死を迎えます。悲しいことにこれはどうしようもな

い宿命。この宿命は人間与えられたたった一つの平等で、権力にし

がみついている人も天下りで私腹ばかり肥やしている官僚もみんな

同じです。ところで、いまも戸主が亡くなったあとの財産争いを聞

きます。そこで遺言(いごん・ゆいごん)・遺書(いしょ)の登場

です。



 古代ローマでは、紀元前5世紀ごろすでに「十二表法」に遺言法

があったという。これは紀元前2000年ごろにはもう普通に行わ

れていたそうですから驚きです。12世紀以後、やっとドイツやフ

ランスの一般庶民に遺言や遺書を書くことが広まったという。



 さて日本では、718年(奈良時代)の「養老律令」に<存日処

分>として遺言処分が認められていたそうです。しかし、もっとも

よく<遺言>されたのは江戸時代だという。江戸の庶民は家の相続、

財産相続などみんな遺言により行われたそうです。ところが武士は

遺言処分はできなかったいうのです。それは武士の財産は一切「ト

ノ」からの封禄(ほうろく)でできたものとされ、自分では自由に

ならなかったわけです。



 いま、遺言書をみつけたら家庭裁判所に手続きし検認を受けます。

勝手に破棄してはいけないそうです。

−p194−

 

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・永 眠

 

 医師が「ご臨終」と告げて、心臓の動きが止まっても、身体の組

織細胞が完全に死ぬまでは、約1昼夜かかるのだそうです。そのた

め、法律では解剖や法定伝染病などでない限り24時間たたないと

火葬などはきないことになっているそうです。



 かつては息が絶えてもすぐ死とは見ず、魂の脱け出た遺体に悪霊

がとりつかないよう刃物をおいて灯火を絶やさないようにする習慣

だったという。



 遺体には死に水を与え消毒用アルコールを入れた湯で全身をふき

清め、汚物が出ないよう口、耳、肛門に脱脂綿を詰め、目、口を閉

じひげをそったり薄化粧させます。いまでは業者が別室で一切処置

し、きれいに化粧して遺族に引き渡してくれます。しかし中を覗か

ないよう釘を刺されるのですが、何をしているのかちょっと気にな

ります。

−p195−

 

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・死に水

 

 医者から臨終の宣告があったら遺体に死に水を与えます。末期(ま

つご)の水ともいい、新しい筆の穂か、割り箸の先に脱脂綿を白糸

でしばったものに、茶わんの水をふくませ、唇をなでるよううるお

します。いまは葬送業者に一切を任せ、取り仕切って貰っているよ

うです。



 昔は魂はすぐに遠くに行かずその辺にいると信じられていまし

た。そのため大声で名前を呼んだり、屋根や樹の上や丘に登って名

前を呼んだりし、なんとか魂をこの世に呼びもどそうとしたことも

あったそうです。



 またあの世にあるという火の山を登る時、のどが乾かないよう死

に水を与えるのだともいいます。しかしやはり住んでいる土地の水

の霊力で魂をこの世につなぎ止めようとするのが死に水をやる目的

だったのではないかといわれています。

−p196−

 

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・湯かん

 

 入棺の前に湯かんといい、湯水で死体を清めます。いまは消毒用

アルコールをいれた湯にガーゼなどをひたし形式的に死体の一部を

ぬぐうそうです。お湯を用意するとき洗面器にまず水を入れ、あと

から熱湯をつぐといった、普通のときとは逆のことをするのだそう

です。



 以前は、納棺の前に遺体をたらいに入れて、ぬるま湯で洗い清め

たりしましたが、いまではあまりしないそうです。湯かんにはもと

もと、正月の若水、誕生の産湯と同じように、霊魂復活の意味があ

るのではといわれています。



 昔は死に装束として、経帷子(きょうかたびら)を着せて手甲き

やはん、白たびにわらじ、頭陀袋(ずだぶくろ)、数珠(じゅず)

を持たせ、また三途(さんず)の川の渡し賃として、紙の六文銭を

添えたそうです。この経帷子は、葬儀社でも用意してくれます。今

では上から掛けたほうが見た目にきれいなので、この方法が多いよ

うです。いまは葬儀社が取り仕切ってくれるようです。

−p197−

 

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・枕かざり

 

 死者は北枕に寝かせ、生前の着物を裾(すそ)と衿(えり)を逆

にして着せます。(さかさ着物)。また枕もとか胸の上には、悪魔(猫

又)が近づかないように刀や鎌など刃物を置くしきたりという。た

だこのようなことは宗派や地方の習慣で異なります。



 さらに屏風(びょうぶ)を逆さに立て壇をつくり供物を置きます。

供物は水器に水、まくらだんご、まくら飯、一本花、香炉を置き線

香を絶やさないようにするという。線香をあげるときは1本だそう

です。そのほか燭台、箸をたてたご飯にシキミなどです。



 神式では枕なおしの儀といい遺体を北向きにし、線香はあげませ

ん。灯明を絶やさないようにします。



 キリスト教式ではまくらかざりの習慣はないそうで、聖書や生前

好きだった花など供えるのだといいます。

−p198−

 

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・葬儀社

 

 葬儀社のはしりとして、はじめて葬式のための葬具の貸し出し業

があらわれたのは明治時代だといいます。1886(明治19)年

の「朝野新聞」という新聞に、神式・仏式双方の葬儀用一切の葬具

をそなえ、手軽に求めに応じる葬儀社が東京にできたといういう記

事が載っています。



 葬儀用の人力車(いまならさしずめ霊柩車)貸し出し業というの

も1873年(明治6)ころから東京にあったそうです。



 一方、遺体の取り扱いについては、古くから特殊な身分とされる

人々がおり、それを受け持つ風習が広く一般にあったという。京・

大坂・江戸の周辺での火葬場の従事者も同様な人たちだったという

ことです。



 明治に入り、大規模な火葬会社が出現、大規模な火葬会社が出来

てきてやがていまのような公営の火葬施設も出来て、互助会や葬儀

社が扱うようになりました。

−p199-

 

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・北枕西向き

 

 遺体の頭が北向きになるよう安置し、両手を胸もとで合掌させ、

数珠をかけ、白布で顔をおおいます。これはお釈迦さまが入滅した

ときの姿だといわれ、敷布団は1枚、さっぱりしたシーツに、かけ

ぶとんは上下逆さまにしてかけます。神式でもこの姿をとるのだそ

うです。北向きにできない部屋では西に向けるという。



 昔は遺体に白い経かたびらを左前に着せて、胸にずた袋、手甲き

ゃはんをつけ、三途の川の舟賃まで持たせたそうですが、いまは葬

儀社が用意し遺体の上から納棺します。


キリスト教では特に方向を問わないそうです。

−p200-

 

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・死亡診断書

 

 人が死亡したら、7日以内に死亡診断書または死体検案書をつけ

て、死亡届を出さなければいけないことになっています。



 診断書は、臨終に立ち会った医師が交付してくれ、また立ちあわ

なくても24時間以内に診察し、医学的に推断出来る場合は書いて

くれるようです。



 この死亡診断書は医師だけが書けるものだそうで、勝手に書いて

やるヨというわけにはいきません。死亡診断書はまた、人の法律的

な権利や義務の終わりを証明するものと、いわれれば納得です。



 普通の病気以外で死んだ場合や事故死、自殺、死因のはっきりし

ないときは、医師は観察医務院に知らせます。すると監察医が派遣

され遺体を調べます。解剖が必要なら行政解剖に処したうえで死亡

検案書を交付するのだそうです。

−p201-

 

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・死亡届

 

 死亡診断書と死体火葬許可申請書をつけて、7日以内に死亡届を

出さなければなりません。死亡届を出すときは死亡診断書を必ず添

付しなければならない(戸籍法八十六条二)と決まっているそうで

す。



 届け出先は、死亡地・死亡した本人の本籍地、あるいは届出人の

住所地の市町村役場です。用紙はそこでもらえます。市町村役場で

は日曜、祝日執務時間外でも受け付けているそうです。



 死亡届は本人が届けるわけにはいきません。そこで親族、同居者、

家主・地主または家屋や土地の管理人の順で届け出義務者となりま

す。死亡届は亡くなった人の本籍地の場合は1通、死亡届や届け出

人の住所地のときは2通。それに印鑑が必要です。死亡届に死亡診

断書、死体火葬許可証申請書をつけて市役所などに届けると、死体

火葬(埋葬)許可証をくれます。(原則として死亡地の役所)



 世界で最初に出生届や死亡届を制度化したのは1621年カナダ

だったということです。

−p202-

 

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・埋葬許可書

 

 死亡届に死亡診断書を添えて、死亡地・亡くなった本人の本籍地

または届出人の住所地のいずれかの市町村役場に届け出すると、埋

葬(死体火葬)許可証をくれます。貰った火葬許可証は火葬場に提

出し、署名・捺印すると埋葬許可証になるのだそうです。



 日本では古くから土葬、火葬、風葬、水葬の四しゅるいの葬法が

行われてきましたが、そのうち最も基本的なものが土葬で、現在知

られる最古の葬法も縄文式早期のものだといいます。またキリスト

教でも「土から生まれたものは土に帰らねばならぬ」とされて、遺

体は土に帰ることが理想、イスラム教、キリスト教などでも土葬が

正葬だったそうです。



 また一般に行われる火葬は、仏教では貴ばれる葬法で日本へは仏

教の伝来とともに伝来したという。日本で最初に火葬されたのは文

武天皇4(700)年、道昭上人だとされています。



 明治時代以降、火葬を普及するための猛烈な努力が傾けられ、い

までは世界中でも珍しいほど火葬率の高い国になっています。 現

在は制度上土葬やその他の埋葬法もできることになっていますが、

ほとんどの自治体では保健衛生管理のため、高額の費用を請求され

るそうですよ。



 ちなみに、よく聞く「荼毘(だび)に付す」というのは仏教用語

で火葬のことだそうです。

−p203-

 

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・戒 名

 

 戒名(かいみょう)とは、本来は仏門に入り、五戒、十善戒、具

足戒、菩薩戒などの戒を受けた人がはじめて与えられる法号だとい

う。これは仏教が中国に伝わってからできたもので、本家本元のイ

ンドにはないそうです。それが日本に渡来。生前、戒名を受けなか

った者に死後与えるようになりました。



 戒名は剃髪(ていはつ)式、頭を丸めてからもらうのですが、い

まは省略され、通夜のときか、葬儀のとき、お坊さんがカミソリを

手に読経、位牌(いはい)に墨で書くのだそうです。戒名にも位が

あり「地獄のさたも金次第」とばかり、江戸時代に位の上の戒名を

売りものにする僧もいたそうです。



 戒名はだいたい、@男には大居士(こじ)、居士、大禅定門、禅

定門信士、清信士、A女には、清大姉、大姉、大禅定尼、禅定尼、

信女、清信女、B男の子には大童児、清童子、童子、C大童女、清

童女、童女、D男の嬰児には孩児、嬰児、E女の嬰児、孩女、嬰女

などの文字が使われています。



 浄土真宗には授戒の作法がないので、戒名とはいわなず法号とか

法名というそうです。

−p204-

 

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・納 棺

 

 納棺は仏教式は僧侶、神道式は神官、キリスト教式は牧師を招き、

それぞれの方式で死者の霊魂に祈りを捧げます。



 仏教方式では経かたびらをかけ、合掌させた手に数珠(じゅず)

を持たせ、首から頭陀袋(ずだぶくろ)をかけ、三角の白布をひた

いに当てたりします。昔は頭陀袋に米麦などの五穀、一文銭6枚を

入れ、五穀はあの世で犬に追われたとき投げ与えて逃げるため、一

文銭は三途(さんず)の川の渡し賃なのだそうです。



 神道方式では納棺の儀といい、遺体の扱い方は仏教方式とほとん

ど変わらないという。喪主をはじめとし一同が遺体に礼拝ののち棺

に治め、白布で覆い、祭壇に安置します。次に一同で祭壇に礼拝し

ます。



 キリスト教式では、牧師が枕元に座り祈ったのち、近親者の手で

遺体を納棺し、顔や胸のまわりを花でかざり、黒い布で覆い祭壇に

安置します。その上に白い花でつくった十字架を飾ります。



 縄文時代は故人の手足を折り曲げてきつくしばり遺体を穴に埋め

るだけだったという。またいまの納棺のように、大きな大きな甕棺

(かめかん)に入れることもあったという。弥生時代になると甕棺

を大量に使用、また板石を組み合わせた箱式石棺がつくられはじめ

ました。



 その後、木でつくった棺もあらわれ、「日本書紀」神代上の巻に

は、杉で棺をつくったことが記載されています。また東北・平泉の

中尊寺にある、藤原三代黒漆に金箔を押した木棺は有名です。



 いまのように寝棺が庶民が使うようになったのは明治以降のこ

と。それまでは座ったまま埋葬される座棺だったそうです。

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・祭 壇

 

 祭壇は仏式、神式、キリスト教式によって違いがあり、また仏式

でも日蓮宗や禅宗、真宗など各宗派により違うそうです。宗教や宗

派を伝えれば、葬儀社や互助会の人が祭壇の飾りつけ一切をやって

くれるそうです。



 家族は前もって葬儀社と打ち合わせをし、写真、お菓子やくだも

の、生花どを用意しておく場合もあります。祭壇には簡単な3段飾

りや5段・7段飾りと、お金によって種類があり、並、上、特上と

まるでお寿司のようです。しかし最近は、こんな見栄をはるより互

助会の斎場で専用の祭壇を利用するようです。祭壇の中央に座布団

を一枚用意します。

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・通 夜

 

 一般に通夜(つや)というと、神社などでおこもりをして夜通し

起きている場合と、亡くなった人のそばで夜をあかすいわゆる「お

つや」があります。



 おつやは、埋葬までの邪霊の侵入を防ぐことが目的だといいます。

また、ムカシは死の汚れを受けた近親者は、死者とともに喪屋(も

や)生活をする習慣があったとか。このなごりが通夜になったのだ

ともいいます。



 そして忌火といい、他の人は死者の出た家の煮炊きしたものは食

べなかったといいます。いまは死の忌みに関係のない人も通夜の席

に顔を出し、料理を食べるようになりました。



 埋葬の前に遺体のそばで夜を明かす習慣はよとぎ、ほとけまぶり、

めざましなどともいいます。本来は喪屋(もや)生活のなごりで古

くは野辺送り前とはかぎらず、また忌みがかりになる近親者だけの

習慣だったそうです。身うちの者が死者とそい寝をする風習がいま

でも残っています。

−p207-

 

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・位 牌

 

 位牌(いはい)は大昔、神の祭りや魂祭に使われた神や霊が宿っ

た依代(よりしろ)と、仏教の卒塔婆(そとうば)が習合してでき

たものとも、儒教の神主(しんしゅ)の習慣が転じたものともいわ

れています。



 位牌には大別して「野位牌」、「内位牌」、「寺位牌」の3つがある

という。野位牌は白木の粗末なもので死後すぐにつくります。葬式

の時祭壇に置いてあるあれです。坊さんなどに戒名を書いてもらい

葬列では相続人が持ちます。



 この白木の野位牌は忌み明けになると寺院に納め、新しくつくり

かえた漆塗りの内位牌をかざります。寺位牌は内位牌とは別につく

りお寺にあげます。



 位牌は大きさばかりでなく彫りや塗りのよいものがよく、中京産、

会津産などが有名なのだそうです。



 江戸時代、宗門改めで寺壇(だん)制度が確立すると、宗派によ

りいろいろ手を入れられた形や書式が難しく決められたこともあっ

たそうです。

−p208-

 

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・焼 香

 

 香をたいて香気で不浄をはらい霊前を清めます。香には粉の抹香

と線香があります。告別式などの焼香には抹香をたくことになって

います。もとは香を持参し仏前で懐中から香の包みを出して香炉に

くべて礼拝したもののようです。



 仏教の発祥地インドは香木の産地。また現地は酷暑のための悪臭

がただよいがち。それを防ぐため香は重要なものだったといいます。



 仏教の伝来とともに香が日本にも伝来します。8世紀のころには

部屋や衣服、髪の毛にまで香をたくようになったそうです。やがて

武士の間にまで甲冑に香をたくのがたしなみとなり、いまの香水の

ように使われたということです。



 焼香はまず合掌し、右手で抹香(まっこう)を少しつまみ軽く目

の高さにささげて香炉におとします(焼香)。もう一度香をとり、

こんどはささげないで落とし(従香)合掌して深く一礼するのが正

しいやり方とか。



 ふつうはこのように2回ですが、宗派によって「仏・法・僧」に

ささげるとの意味で3回する場合もあり、どれが正式か気にしだし

たら切りがありません。



 線香は、1本か2,3本を1本ずつ香炉に立てます。火は口では

吹き消さないよう……。ちなみに線香は、江戸時代1668年(寛

文8)に清川八兵衛という人がつくり出したものだそうです。線香

といえばこのほか「香水線香」や蚊取り線香もあります。香を液体

にしたのが香水になるわけです。

−p209-

 

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・合 掌

 

 焼香をしたあと手を合わせて合掌します。これはインドで古くか

ら行われた敬礼法の一種だそうです。合掌には10本の指をそろえ、

てのひらを合わせる形のほか、指を交互に組み合わせる合掌叉十(し

ゃじゅう)、それに握り手を片方の手で覆う合掌叉手(しゃしゅ)

があるそうです。どれも輪と十字の統合・中心を表しているのだと

か。



 また、清い右手と不浄な左手を合わせる合掌は、神聖と汚れにか

かわっている人間の純真な祈りの姿なのだそうです。



 よく指だけ合わせて掌の離れている合掌をするのを見かけます

が、これは心の統一を欠くものとされているのだそうです。気をつ

けましょう。真言密教では合掌を12種類に分け、それぞれ独特な

解釈を与えてそれを「十二合掌」といっていたといいます。

−p210-

 

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・神式・キリスト教式通夜

 ふつうでいうお通夜は、神式では通夜祭といい遷霊祭(せんれい

さい=故人の霊を霊璽に移す式)に引きつづいて行います。霊璽(れ

いじ)とは霊のしるしで仏教の位牌にかわるもの。木主や鏡、笏(し

ゃく)または故人の形見を用いるそうです。



 通夜祭はまず神官がごはんと水、酒、魚などを供え、祭詞をとな

え玉串をささげます。神官につづいて喪主、遺族の順にささげます。

明治維新になってから神式葬が奨励されたことがあったそうです

が、一般市民はあまり関心を持たずあまり広められなかったという

いきさつもあります。



 カトリックでは黒い布で棺を覆い、遺影、花、ローソクを飾り聖

書を朗読し、死者の復活と神の恵みを祈ります。のちに、司祭、遺

族、親族の順に最後の対面を済ませます。



 プロテスタントでは前夜祭といい、牧師を招いて讃美歌、聖書、

祈とうなどをします。式が終わったら茶菓を囲み故人を追憶します。

死は天に召され、神のもとで使える日が来たことで、生前の恵みを

感謝し天での再会を祈るのだそうです。

−p211-

 

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・葬 儀

 

 いよいよ葬儀の時がやってきました。人は死後、お釈迦さまのも

とに往生し、仏さまの弟子として成仏するというのが仏教の教えだ

そうです。だから残された人々が供養して、迷わずに悟りの世界に

行けるよう故人を送ろうとするのが葬儀式だといいます。



 葬儀の日どりはふつうは入棺、通夜の翌日に行います。しかし準

備の都合や六曜星の「友引」の日だったりすると1、2日遅らせた

りすることもあります。友引は友を引き、一緒に誰かが死の世界に

引かれるなどという縁起から葬儀を行うのを否みます。



 葬儀は式次第に添って進められます。死者が死の苦しみや迷いか

ら、悟りの世界に導かれ、成仏するように引導を渡すなど宗派によ

り異なるそうです。



 【葬儀式次第】 @参列者着席:遺族や近親者は祭壇に向かって

右側に喪主から順につきます。参列者は左側 A開式のあいさつ:

司会者 B僧の入場:低頭して迎える C読経引導:30〜40分

かかります。 D弔辞。 E弔電披露:司会者が読みます。 F焼

香:まず僧が焼香し、読経の中、喪主・遺族・親族…の順に焼香し

ます。式場がせまい時は盆にのせて回します。 葬儀が終わり告別
式につづきます。



 焼香はふつうは2回ですが、会葬者の多いときは1回の方がよい

ときもあるし、3回する所もあって……つまりどれが正しいってこ

とはないようです。

−p212-

 

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・喪 主

 

 葬儀を行う時まず喪主を決めます。喪主は葬儀社や互助会に連絡、

葬儀の日時を決め、仏式で行うか、神式で行うか、また質素にやる

か盛大に行うかを決めます。喪主は、家族や近親者の中心となって

葬儀をとり行い、故人に代わって弔問を受けます。



 以前はたいてい戸主が喪主になっていましたが、最近は子どもが

まだ未成年かあるいはいない場合は妻がなっているようです。普通

は後継ぎ、またははその配偶者などと故人といちばんつながりの深

い人がなっているようです。



 喪主は、葬儀の細かなことはいっさい世話人にまかせ、家族とい

っしょに遺体のそばにいて、弔問にこたえるようにします。いまは

だれでも喪服を着て通夜の席に行きますが、本来は喪主以外は、通

夜の席では喪服の必要はないのだそうです。

−p213-

 

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・供 物

 

 霊前に花輪、生花、線香、ローソク、くだもの、くす玉、盛り菓

子などを供えます。それを供物(くもつ)といっています。しかし

供物は本来神に供える飲食物や物品のことだといいます。



 仏教での供物は、くわしくは供養物(くようもつ)なのだそうで

す。これは本来は仏陀(ぶつだ)や聖者に対する信仰帰依(きえ)、

報恩感謝をあらわす捧物(ささげもの)。華(け)・香・灯明・茶・

菓・飲食(おんじき)などなど種類とか量に制限がなかったという。



 後世になりその形や種類が形式化され主に仏に対する供物の意味

になり、また種類も香・灯明・花・菓・茶などになったという。さ

らに儀式用には華・香・瓔珞(ようらく)・抹香(まっこう)・塗香

(ずこう)・焼香・幡蓋(ばんがい)・衣服・伎楽(ぎがく)・合掌

の10項目が「十種供養」といわれるようになったという。またそ

のほかには密教には6種があります。



 このような供物はさらに意味が転じて仏前に供えた物を分けて貰

い、仏縁を結ぶ意味から、寺院から参拝者に配った菓子類をいうよ

うになっていきます。いまは単に死者の霊を慰めるために供えます。

−p214-

 

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・花 輪

 

 故人の霊をなぐさめるために、花輪、生花、くだもの、盛り菓子

など供え物を贈ります。贈るときは祭壇に供えるものですから通夜

の前か、葬儀の前日には届くようにするのだそうです。供え物を遺

族に渡すときは「ご霊前に供えていただきたいのですが」といって、

「つまらないものですが」などといってはいけないのだそうです。

なるほど。



 その中に花輪があります。花輪は英語でいうリース。これはマラ

ソンの優勝者などに贈る花冠の意味にもまた、葬式の花輪の意味に

も使われるのだそうです。ずーっとさかのぼる古代ギリシャでは特

別な植物には魔力が宿ると信じられていました。たとえば、月桂樹

には病魔を退ける力があるといって、病人のある家の戸口に小枝を

ささげました。また、パセリは縁起の悪い植物だというので墓や墓

地に飾られたりしたという。



 時代が移るにしたがい花も加わり花輪や花綵(はなづな=花や葉

を綱の編んだ飾り)がつくられるようになります。また月桂樹がア

ポロンにささげられ、月桂樹の輪の冠が勝利者に与えられるように

なり、さらにたくさんの花でつくった花輪が結婚式の日の花嫁の家

の戸口に飾られたという。



 ローマ時代には花冠は国家が勲功を表彰するシンボルに発展、同

時に花嫁や死者のための花冠もあらわれるようになりました。この

花輪や花冠の習慣はそのままヨーロッパに残ります。キリスト教が

盛んになるにしたがい、それぞれの花のシンボルがキリスト教的な

意味に変わっていきます。



 また墓地に飾る花は長持ちのする乾燥花を用いる風習が出来、1

9世紀パリなどではお墓にお参りする人のほとんどが乾燥花をささ

げたという。そういえば葬式の時ならぶ花輪も造花です。



 この造花の花輪には買い切りと貸し出しがあるそうでが、これを

買いとってもあとの始末に困りますよね。種類もいろいろあって値

段により大きさや造りや数が違うようです。



 ついでながら、このような大型の花輪は不祝儀用のものでお店の

開店祝いやおめでたい時に使わない方がいいとものの本に書いてあ

りました。

−p215-

 

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・数 珠

 数珠は「すず」とも読み、また念珠ともいうそうです。本来は仏

さまの名前や秘呪(ひじゅ)の陀羅尼(だらに)の経文を唱えると

き、その回数を数えるためのものだったそうです。それが次第に手

にかけたり、修験者や弁慶のように首にかけるようになって、いま

は仏教徒であるという目印にもなっています。



 ふつう数珠は、108の珠をつないでいます。それは108の煩

悩を清め断つことを表しているのだそうです。それに両端に2個の

母珠、中間に4個の小珠、さらに2つの母珠にそれぞれ房がついて

います。



 また半分の54珠にして菩薩の54階位を表したり、またその半

分の27珠にして27人の賢聖人(けんしょうにん)の数に合わし

たりもしているのだそうです。



 珠の数についてはいろいろな経典をみると、1080・108・

54・27の4種類が多いそうですがこのほか42・21・14も

あるといいます。また日本ではこのほか36や18などもあるとい

う。種類は宗派によっても違い、大きさ、材質もいろいろだそうで

す。



 いまはふつうに見られるこのような数珠も、お釈迦さまの時代に

は数珠を使わなかったらしいというから分からなくなります。

−p216-

 

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・喪 服

 

 お通夜や葬式には黒ずくめの喪服を着て行きます。喪服はもとも

とは故人の近親者が喪に服す期間、ずーっと着ていたものだったそ

うです。古くは死の汚れをもつ人々が、麻などの加工しない生地の

ままの素服、または白の喪服をまとって忌みごもりをしたのだとい

う。「日本書紀」などにも素服(あさのみそ)と出てきます。



 平安時代以降、複雑な喪服の制ができ、素服・心喪(しんそう)

の服・諒闇(りょうあん)の服など、その種類も数多く登場します。

素服はもと素または白の喪服のことでしたが、のち喪服の一般的に

なった名前だという。



 その後、素服の色はネズミ色になったり、薄墨の単衣(ひとえ)

の指貫(さしぬき)になったり一様でなく、いろいろな服装構成が

行われたそうです。また近親者は重服といい、濃い黒、遠い縁者は

軽服といい淡く染めた黒の服を着たといいます。しかし、後世には

素服はまた白に変わり白布でつくった袖のない短衣をいい、葬式が

終わるとその場で脱ぎ捨てるものになったという。



 江戸時代、幕府は喪服の制を設けなかったので男性は麻上下(あ

さかみしも)・長上下など、また女性はもっぱら白無垢(しろむく)

の小袖(こそで)に白の白の帯を用いていたそうです。



 明治になり、洋服が着られようになると西洋にならって左腕・帽

子などに黒布を巻くようになります。このころは和服では男性は黒

紋服に袴、女性はまだ白無垢に白の帯を用いていました。やがて昭

和に入ると女性も男と同じように黒紋服と黒の帯になったのだそう

です。黒ずくめの喪服になったのは昭和になってからでほんの最近

なんですね。

−p217-

 

…………………………………………………

・香 典

 

 香典(こうでん)は香奠とも書き、普通、通夜の夜か出棺日に持

参します。香典の文字のとおり、亡くなった人の霊にたむける香の

代金の意味。昔は米、強めし、野菜なども香典として贈った時代が

あったそうです。



 それも近親者の贈るものと近隣組内の贈るものとがあったとい

う。近親者のものは故人と共同飲食をするために贈るのが元の趣旨

でした。一方、近隣組内からの香典は自分の食料分として持ち寄っ

たものだそうです。



 元来の香典の意味は、忌のかかった親しい者たちがいっしょに飲

み食いし、死者の霊と家族を慰めようとして贈ったものだそうです。

なお、香典返しは本来はしないものだったようです。いまいう「香

典返しは半返し」は大正時代につくられた習慣だったそうです。



 香典は、仏式は「御仏前」「御香典」。神式は「御神前」「御玉串

料」、キリスト教なら「御花料」と書くようですが、表書きが「御

霊前」なら仏式・神式などどこでも通用するそうです。

−p218-

 

…………………………………………………

・不祝儀袋

 

 不祝儀袋(ぶしゅうぎぶくろ)は、いまではほとんどが略式で、

文房具屋さんなどに売っているもので間にあわせます。昔風に包む

場合は大変だったそうで、お金を半紙に中包みし表側に金額を書き、

奉書紙か美濃紙で外包みして、黒と白の水引をかけたそうです。水

引は黒が右、白を左にし、凶事が再びおきないように「結びきり」

にします。



 水引より上の中央に薄墨で「御霊前」などの表書きをして、水引

の下部中央か少し左よりに自分の名前を、フルネームで書くように

します。



 不祝儀袋の水引は黒白や黒と銀、銀だけ、白のみ、白と黄色など

と、いろいろありますがふつうは黒と白のものを使っています。遺

族と面識がないときは、住所を書き添えるか名刺をはりつけておく

ようにするのだそうです。



 なお、水引は結婚式や病気見舞いも再びないように「結び切り」

にし、何回あってもよい場合は「ちょう結び」にするのだそうです。

−p219-

 

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・告別式

 

いよいよ故人と最後の別れる告別式です。葬儀でお坊さんが死者に

引導(いんどう)を渡し、弔電披露、遺族、近親者の焼香が終わる

と引き続いて告別式に入り、一般会葬者の焼香です。喪主や遺族が、

あいさつのため祭壇わきにすわります。お坊さんの読経の中、会葬

者が順に焼香していきます。遺族は、ひとりひとりに黙礼します。



 会葬者の焼香が終わると、お坊さんは読経をやめて退場、別室に

移ります。司会者が閉式のあいさつをして葬儀と告別式は終了、出

棺に移っていきます。



 宗教によらない葬儀や告別式には、音楽葬、文学葬、組合葬、山

岳葬などがあります。その告別式は司会者により進められ、故人の

略歴紹介、弔事朗読、遺族代表の挨拶などと進行しますが、故人に

ふさわしい行事も取り入れるのだそうです。



 たとえば作家なら霊前での代表作の朗読、山が好きな人だったら

遺骨をもって故人が生前好きだった山で告別式を行うなどの方法が

あるようです。

−p220-

 

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・出 棺

 葬儀や告別式が終わると出棺です。祭壇から棺がおろされ、遺族

や近親者は、故人と最後の対面をします。別れ花といって供え物の

生花の花をちぎり、遺体のまわりに納めます。



 つづいて棺のふたをしめ、遺族などの手でくぎを打ちます。金づ

ちを使わずどういうわけか小石です。小石は葬儀社の方で用意しま

す。



 故人とつながりの深い人から順に、石で2回ずつ別れを惜しんで

軽く打ちます。あとは葬儀社の人に任せます。いよいよ出棺。棺は

足の方を先にして運び、霊柩車には足の方から入れるのだそうです。

いろいろ決まりがあるものです。

−p221-

 

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・霊柩車

 

 棺を霊柩車(れいきゅうしゃ)に納めます。ふつう、このとき遺

族代表が会葬者にあいさつし、火葬場へ出発します。霊柩車には、

棺と運転手そして葬儀社の人が乗り、次のクルマに喪主と遺族、近

親者、友人、知人とつづきます。



 昔、土葬がふつうだったころは、棺を墓場まで担いで運び、その

あとを遺族や親戚、近所の人の行列がつづいて「野辺(のべ)送り」

をしました。その風習が残り、いまでも火葬場までのクルマで行列

して行きます。それも野辺送りと呼んでいます。霊柩車には棺と運

転手、それに葬儀社や互助会の人が乗ります。喪主と遺族、僧侶な

どは次のクルマに乗るのだそうです。



 子どもが両親より先立つことを逆縁といって最大の親不孝とさ

れ、以前は両親が見送らない習慣もあったという。



 話はガラッと変わって世界初の霊柩車。1900年アメリカ・ニ

ューヨークの葬式に電気自動車が使われたのがはじめてなのだそう

です。霊柩車用に設計されたクルマが登場したのはパリで1905

年末のことだったという。つぎはベルリンで1907年。当時、こ

のクルマのおかげで葬式の時間が3分の1に縮まったと喜んでいた

そうです。

−p222-

 

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・神式・キリスト教式告別式

 

 神道での葬儀は、故人の遺骸は墳墓(ふんぼ)におさめて霊を鎮

め、死者を神としての命とあがめます。そして祖先の神々とともに

その家の守護神として祭ります。神葬祭、葬場祭ともいうそうです。



 神道式では手水(ちょうず)の儀、参列者着席、開式のことば、

修祓(しゅうばつ=神官がはらい清める)、献饌(けんせん)、奉帛

(ほうはく=飲食物、供え物を供え楽をかなでる)などをします。



 そして霊前に玉串をささげる玉串奉奠(たまぐしほうてん)に移

ります。玉串は清浄地や境界を意味し、かつては標木として地面に

さしました。いまはサカキに紙垂(しで)をつけているという。告

別式は仏式に準じるようになっているそうです。



 またキリスト教式は教会堂で行われ、プロテスタント(新教)と

カトリック(旧教)では式次第が違い、葬儀と告別式をも区別しな

いことになっているそうです。



 カトリックの葬儀は @出棺式 A入堂式 Bミサ聖祭 C赦

(しゃ)とう式 D告別と進みます。



 一方、プロテスタントの葬儀は、@参列者着席 A前奏 B棺と

遺族入場 C讃美歌 D聖書朗読 E祈(き)とう F讃美歌 G

故人の略歴朗読 H式辞または説教 I祈とう J讃美歌 K弔詞

弔電披露 L讃美歌 M祈とう N後奏 O遺族代表あいさつ P

献花となっています。

−p223-

 

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・火 葬

 

 火葬はかなり進んだ文化を持った民族に多く、アジアではインド

を中心として広い地域に分布しているそうです。死体を火で焼くた

め魂が早く肉体からはなれることができるとし、新しいすみかを見

つけ生まれかわるきっかけをつくろうとするわけです。



 火葬の習慣は日本では6世紀からあったともされていますが、普

通は8世紀仏教文化とともにその習俗が始まったといわれていま

す。遺体を火葬することは、はじめ上層階級に導入され次第に地方

の豪族に広まっていきます。



 15世紀ごろには仏教が庶民にも広まるにつれ火葬の習慣も普及

します。当時は土中に穴を掘り、薪やわらを積み上げて棺といっし

ょに長い時間をかけて焼いたのだそうです。明治に入り、廃仏棄釈

の思想から神道の国教化政策が進められると、火葬は仏教の習慣だ

というので1873(明治6)年火葬禁止の太政官(だじょうかん)

布告が出されたこともあったそうです。これは2年後にはもう廃止

になっています。



 その後明治政府が伝染病で亡くなった人を火葬にふすことを命じ

たこともあり、地方の市町村でも火葬場を設けるようになったとい

う。1915(大正4)年の全国の火葬率は36.2%だったとい

う。いまでは離島や山間部を除いてほとんどが火葬で、離島を抱え

る東京都でも1992(平成4)年の火葬率は実に99.9%だっ

たという。



 しかし、世界的にみれば火葬が当たり前ではなく、アメリカでも

30%、世界火葬協会の本部が置かれているイギリスでも70%の

普及率。日本でも法律的(墓埋法)には土葬も許されているそうで

す。



 日本での火葬の最初の記録は700年(文武4・飛鳥時代)に僧

・道昭の遺言で遺体を火葬にしたというもの。



 ここでまたまた最初病……世界ではじめての火葬場はアメリカ・

ペンシルベニア州のジュリアス・ル=モインが自分の土地内にたて

たもの。またイタリア・ミラノにミラノ火葬協会なるものの会長ピ

ニ博士がたてたものだという。それぞれ1876年のことだったと

いうことです。

−p224-

 

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・塩

 

 火葬場や弔問から帰って来た時、家に入る前に塩をかけて清める

習慣があります。塩はどこの国でも清浄のシンボルであり、神聖視

されて大昔から誠実、友情、また神と人間、人間同士の社交のしる

しとしても通用してきたのだそうです。



 日本でも清めのために塩を使う風習があり、神事の祭場や神棚、

相撲の土俵などにもよく使われています。欧食店でも掃除のあと店

の前に盛り塩をします。



 また、弘法大師が塩のない土地を気の毒に思い、錫杖(しゃくじ

ょう)をつき塩水の出る井戸をつくったという伝説もあちこちにあ

ります。

−p225-

 

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・土葬・風葬・水葬

 

 昔から日本では遺体を葬る方法として火葬、土葬、風葬、水葬の

4種類があったという。縄文時代の遺跡からも土葬の跡が発掘され

ており、なかには手足をしばったものや甕(かめ)におさめたもの

まであったそうです。時が移り弥生時代になると、貴重なものとい

っしょに遺体を伸ばしたまま、石の棺(ひつぎ)のなかに入れて土

の中に埋めるようになりました。



 その後仏教の伝来とともに火葬が流行しても土葬での葬り方はは

依然根強く残り、ずーっと下って江戸時代には皇室や幕府、大名も

ふたたび土葬に戻ったといいます。こうして土葬、火葬とまざって

昭和にまでいたりました。



 土葬は野辺送りといって参列者が列を組んで亡きがらを墓場まで

送ります。野辺送りには、@位牌持ち(跡取り息子の役)、A飯持

ち(その妻)、B水桶持ち、C香炉・しかばな持ち、D天蓋(てん

がい)持ち、E松明(たいまつ)持ちなどの役が決まっていました。



 また埋めた墓には「息つき竹」といい、中の節をくり抜いた竹を

刺して外の空気と通じるようにし、死者のため外界への通路を残し

たりしました。死んだ人が息を吹き返した時のためだと近所のおじ

さんに聞いたことがあります。



 風葬というのは亡きがらを埋葬せず衣類などで覆って空中にさら

すもの。天然の洞くつや墓地の草むらの中に遺体を置いて風化する

にまかせる方法(法事をしたり仏壇や位牌をつくることはしない)

と、亡きがらを一定期間大気にさらし風化させそのあと遺骨だけを

よく洗い墓に葬る方法があるそうです。かつて琉球でみられたそう

です。



 そのほか水葬というのもあります。遺体をを川や海に葬る方法で

日本では室町時代に疫病で亡くなった人を京都の鴨川に流した記録

があります。いまでも棺のことを「ふね」とか、入棺を「おふねい

り」といい、これらはかつて行われた舟葬の痕跡ではないかとされ

ています。

−p226-

 

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・精進料理

 

 かつては不幸があると魚や肉など生臭いものを避け、一定期間精

進料理を食べて喪に服しひたすら精進に励んだのだそうです。精進

料理とは、野菜(ダイコン、シイタケ、イモ、ウド、レンコン、ナ

ス、ニンジン、ゴボウなど)と海草(コンブ、ヒジキ、ワカメ、ノ

リ)、そしてコンニャク、豆腐などの料理のことです。



 仏教などで、精神修行をする時は肉類などの美食を避けて粗食(植

物性食品)で過ごすのを旨とすることから、肉の入っていない野菜

中心の食べ物を精進料理と呼ぶようになったという。精進料理は仏

教語のサンスクリットのビルヤーナから出ている精勤(しょうごん)

という意味だそうです。



 しかし、日本では古くは動物性食品を絶対避けるというわけでは

ないらしく、奈良時代に聖武天皇が東大寺の学僧に学問精進のため、

越前(いまの福井県)の「鮭の庄」を贈ったとの記録があり、学問

精進のための料理は精進料理ではなかったようです。



 ちなみに道元禅師開祖の永平寺(福井県)の修行僧の昼食は、麦

飯・みそ汁・たくあん・野菜の煮つけ・がんもどきの煮つけだそう

です。

−p227-

 

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・精進落とし

 

 精進落としは「精進あけ」ともいい、本来はとむらいや祭りの後、

中陰(四十九日の喪に服す)のような精進の期間があけ、遠ざけて

いた魚や肉の料理を食べられるふだんの生活にもどります。



 精進とは仏教語でサンスクリットのビールヤ(毘離耶・ビルヤー

ナ)の訳という。精勤(しょうごん)ともいい、悪事を断ちひたす

ら善行に励みます。「精」は心を純一無雑にし、「進」は理想に向か

って進趣する……なにやらムズカシイことなのであります。



 しかしいまでは火葬場からもどってきて遺影や位牌を安置。還骨

回向(かんこつえこう)と初七日忌、そして精進落としまでいっぺ

んにしてしまい、本来の意義はうすれ世話になった人たちへの慰労

の宴会になっています。



 また、かつて近畿あたりでは若者が大峰入りの修行の後、遊郭に

くりこむことをも精進落としといったそうです。

−p228-

 

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・仏 壇

 

 本来仏壇とは、仏像を安置して供養などをする須弥壇(しゅみだ

ん)のことをいうそうですが、いまは家庭内にある仏像や位牌を納

める厨子(ずし)を仏壇といっています。須弥壇のように壇の上に

仏像を安置する形はインド、中国の石窟からも発見されており、日

本でも石でつくった石壇や土の土壇、また木壇があるそうです。



 「日本書紀」には、「諸国(くにぐに)の家毎(いえごと)に仏

舎(てら)を作り乃(すなわ)ち仏像及び経を置き、以(もっ)て

礼拝(らいはい)供養せよ」との天武天皇14(685・飛鳥時代)

年の詔(みことのり)があります。下って平安時代、貴族が競って

自分の住宅を寺院化して、内仏堂を置くようになったという。



 江戸時代には幕府の宗教政策により、庶民にも仏壇設置を強要、

仏壇のない家は邪宗門として告発されたこともあったそうです。



 仏壇には位牌を置きます。これは中国儒教の、祠(し)堂に木牌

を安置する習慣が仏教と混同して禅宗とともに日本に渡来、そのま

ま定着し仏壇に位牌は欠かせないものになっています。



 さて仏壇は、ヒノキや杉を素材に漆を塗り、金箔(きんぱく)を

ほどこす塗り仏壇と、紫檀(したん)黒檀、花梨(かりん)、桑、

桜などでつくり、黒や紫檀色(桜色)に仕上げる唐木仏壇に大別さ

れます。もちろん大きさや材質、彫刻や蒔絵(まきえ)などの施し

ようでお値段がグーンとちがいます。最近はプリント合板のものも

あらわれているようです。

−p229-

 

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・仏 具

 

 仏壇にはいろいろな仏具がならんでいます。その飾り方は宗派に

よりまちまちだそうですが、ごく一般的には中央に本尊を置き、両

側に祖先の位牌や過去帳をならべ、その前に三具足(みつぐそく)

といい花びん・燭台・香炉を、さらに仏飯器・茶湯器・供え物の高

杯(たかつき)などの順で置くそうです。



 またいちばん手前に、線香をたて、前香炉・りん・りん棒・木魚

・燭台・香入れ・数珠・ローソク立てなどがならびます。



 これらも仏壇と同様、お金をかければきりがなく、三具足が五具

足、七具足とグレードが上があり、仏具屋さんは忙しくなります。

−p230-

 

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・墓 地

 

 お墓の墓は、はぶり(葬り)の「は」と、場所をあらわす「か」

がいっしょになってできた言葉だという。だいたい死者をほおむる

場所には「墓」と「塚」のふたつがあり、ひっくるめて塋(えい)

というそうです。土を盛って木を植えた葬所が塚、土を盛るかわり

に建造物を立てた所を墓といいます。またよく聞く古墳などの墳は

丘のように盛り土した大きな塚のことだという。



 かつては墓は、身分によって作り方が決められていたそうで、6

46年(大化2)の「墓制」では、王以下小智(冠位十二階の一番

下の位)以上の身分の者は小石で墓をつくり、庶民の遺体はひとま

とめしてに収めて葬ったという。勝手にお墓をつくることは許され

なかったということです。大宝(701〜704年)以後は三位以

上の者だけがお墓を作ることが許されたという。



 墓地はふつうは、そこが死者を葬った場所でそれからもそこへお

まいりします。単墓制というそうです。それに対して地方によって

は死者を埋葬する所とお参りする所がちがう場合があります。それ

を両墓制というやり方だそうです。両墓制は近畿地方に多く分布し、

本州の各地にも点在しているという。



 さて有名な東京・青山の墓地は1882(明治15)年に共同墓

地として開かれ、その広さ30万平方メートルもあります。



 また「聖徳太子伝暦」によれば、仏教に深く帰依した聖徳太子は

618年、生前にみずから墓地をつくっていたという話もあります。

−p231-

 

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・墓 石

 

 いま霊園などはサクラ、フジ、ツツジ、秋の紅葉まで四季折々き

れいな花が咲き、公園のように整備され、訪れるのも楽しくなるよ

うです。墓地の中を歩いてみるといろいろな形のお墓が目につきま

す。墓石(石碑)の形にきまりはないそうですが、大ざっぱに分け

ると塔形墓標、卵塔(らんとう)形墓標、仏像形墓標、塔婆(とう

ば)形墓標、角石塔形墓標、異形墓標、洋風の墓標などがあるよう

です。塔形墓標には層塔、宝塔、王輪塔、宝篋印塔(ほうきょうい

んとう)、法華堂(ほっけどう)があります。中でも一番多く見ら

れるのが角石塔形と呼ばれる墓標です。



 墓石には灰色の安山岩、御影石(みかげいし)とよばれる花崗(か

こう)岩(産地によって色が違う)、せん緑岩、はんれい岩、けつ

岩などが使われているという。最近は外国から輸入された石も多く

なっているそうです。近世の中ごろからは庶民でも墓石を建てるこ

とが許されて、我も我もと建てはじめたこともあり石屋さんが忙し

くなり石碑を刻む技術が発達し、堅い石材を使うようになってきま

した。



 かつて生前に自分の墓をたてることが流行した時代があったとい

う。そのとき死者の墓と区別するため刻んだ芳名に朱色を入れてお

いて、亡くなったあと黒い字に変えたといいますが、いまでもとと

きどき芳名を赤く刻んだお墓を見かけます。聖徳太子のマネなので

しょうか。



 ちなみに世間には墓相の善し悪しをいう人があります。江戸時代

も後期の文化・文政(1804〜30年)のころにあらわれた国学

者高田松屋なるものが墓相を講じたことがあったという。その弟子

がその要点をまとめた冊子を出版、「墓相小言」という小冊子がい

まに伝わっています。これが墓相に関する一番古い記録だといいま

す。



 その相というのは、「自然石で墓石をつくると血統が断絶する」

とか、「竿石と台石の間に猫足(ねこあし)の台石をつけると家運

が不安定になる」などというもの。しかしこんなことはなんの根拠

もないと専門家がものの本に書いています。手相に人相・家相が貧

相……お墓まで相があるのか。

−p232-

 

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・卒塔婆

 

 卒塔婆(そとば)は塔婆(とうば)ともいい、古代インド語のト

ゥーバ(方墳、霊廟)がなまったもので塔のことだそうです。板の

上の部分を塔の形にけずったもので墓地に立てて、死者の冥福(め

いふく)を祈ります。卒塔婆はすでに鎌倉時代からあったといい、

板碑(いたび)とよばれる1メートルくらいの石碑を建てたとか。



 卒塔姿は墓標として王輪塔を建てたことに由来するといい、五輪

思想に基づいているそうです。五輪思想とは、一切万法は、地・水

・火・風・空の5要素から生成され、これによる肉身はそのまま仏

身であるのだそうです??……。そのためそれを象徴する5種の形

をかたどり、梵字の「空・風・火・水・地」や経文などを上の方に

書き、法名や忌日などを記し、お経を上げたあとお墓に備えます。



 もともとトゥーバは積み重ねという意味で、遺体を埋めた小さな

土まんじゅうをいっていたという。のちに墓の上にもった土がだん

だん変化し「塔」になりさまざまな様式ができあがっていったとい

うことです。

−p233-

 

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・相 続

 

 お金持ちが亡くなると問題になるのが相続です。聞いたことのな

いようなオジさん、オバさんが集まり、ああだこうだ、しまいには

裁判ざたになったなどテレビドラマでもよく登場します。



 相続は私有財産が認められる制度とともに発達したという。相続

の中心はどうしても財産相続。しかしそのほか身分相続・祭祀(さ

いし)相続・祖名相続というのもあります。



 いまの相続法が施行される昭和23(1948)年以前は、家制

度のもと、「家の相続」と「財産の相続」に分かれていたという。

かつての家制度で長男は家業や財産、名字までも相続の対象だった

のだそうです。



 昭和23年の相続法では2つの原則からなっているという。ひと

つは「諸子均分の原則」、もう一つは「配偶者の必然相続権」だと

いう。この必然相続権というのは、必ず常に相続人になるという意

味。



 相続の権利を持つものとして、亡くなった人の、@子・A直系尊

属・B兄弟姉妹の順。それに配偶者は先の「配偶者の必然相続権」

で、どの順位の者が相続人になる場合でもその人とともに相続人に

なるのだそうです。



 子が数人いる場合はみんな相続人になり、実子であろうと養子だ

ろうとまた、よそへ嫁や養子にいっていようと男女の別も問題にな

らないという。子が相続される人より早く亡くなっている時は、そ

の者に子(被相続人の孫)がいればその被相続人の孫が、生存する

相続人の子と同じ順位で相続人になれるのだそうです。



 その相続分については、@子と配偶者が相続人の時は、子は全員

で2分の1で配偶者も2分の1。A直系尊属と配偶者が相続人の時、

直系尊属が3分の1で配偶者が3分の2。B兄弟姉妹と配偶者が相

続人の時は、兄弟姉妹は全員で4分の1で配偶者は4分の3、など

などと細かい規定があるようです。詳しく知りたい場合は専門書を

どうぞ。

−p234-

 

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・形見分け

 

 亡くなった人の衣類や持ち物を形見に貰います。形見分けは片身

分けとも書き、本来は死者の霊を継承するため、または死者にあや

かりたいと思う行為です。そのために霊魂のこもりやすいと思われ

る衣類を分けます。その期日は35日か49日の、昔流でいうと死

後のきびしい忌(い)みが明けて、亡くなった人の霊も落ちつくべ

き所に落ちついてから行うのだそうです。



 形見分けは、故人にあやかるという趣旨から、特別に請われない

かぎり、目上の人には分けないのが礼儀だそうです。また品物は包

装せず裸のまま渡すのがよいといいます。



 キリスト教式には特にこのような習慣はない。日本では1週間後、

1カ月後に行うのが多いとか。

−p235-

 

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・香典返し

 

 本来、香典のお返しはしなくてもよいものだったそうですが、告

別式に出るだけで帰る人が多くなったり、またほかの贈答の習慣の

影響を受けたりして、いまでは一般的には香典返しをするようにな

りました。



 香典返しは、「三十五日」か「四十九日の忌み明け」後にあいさ

つ状を添えて贈る習慣があります。以前から香典返しは「半返し」

のしきたりがあるそうで、香典としてもらった額の半分ぐらいの物

とか、高額の香典の場合は「3分の1返し」とかうるさいきまりが

あります。しかし最近は、葬儀の日に略式ですませたり、福祉施設

などに寄付する人が多くなっているそうです。



 神式では「三十日祭」か「五十日祭」。キリスト教式ではふつう

一ヶ月後の昇天記念日ごろといいます。香典返しは貰っても礼状を

書くのは「あとを引く」といい、きらわれるので出さないしきたり

になっています。

−p236−

 

…………………………………………………

・忌中・喪中

 

 家族や親類に死者が出たとき、霊が安らかな眠りにつけるよう精

進して、祝い事や神祭りなどから遠のき、生活を慎しみます。その

一定期間喪に服すことを忌服(きふく)というそうです。忌は慎ん

で家にこもって身を清めることで、服は喪に服して喪服をつけてい

る意味だという。



 ふつう、その期間は四十九日(しじゅうくにち)としています。

しかしそんな長い慎しみはがまんできず、35日、7日、3日とだ

んだん短くなり、ついには葬式当日でチョンというのも多くなりま

した。



 忌中の忌は「いもひ」または「いみ」斎(い)みとも書き、喪(も)

にこもってある期間忌みつつしむこと。喪は「おもひ」。人の死に

対して思慕の情にたえぬありさまをいうのが本来の意味だったよう

です。



 忌(い)みがあける「四十九日」までは霊が不安定で、おさまる

べき所におさまらないのでいると考えられています。大昔は親など

を亡くすと1年間も喪に服した時代もあっっという。葬式を出すと

年賀欠礼のあいさつ状を出します。賀状が届いたときはそのまま受

け取っても、また返礼してもよいのだそうです。



 明治7(1874)年の「太政官布告」に忌服の期間を細かく定

めています。それによると、@故人が父母の場合、忌は50日・服

は13ヶ月。A故人が夫の場合、忌は30日・服は13ヶ月。B妻

の場合、忌が20日・服が90日。嫡子の場合、忌が20日、服が

90日。以下養子、兄弟姉妹から祖父母から甥・姪までつづいてい

ます。

−p237-

 

…………………………………………………

・新 盆

 

 新仏のある家でのお盆は、新盆(にいぼん)を営みます。親類縁

者が白張りの盆ちょうちんを贈ります。これに対して新しい仏のな

い家の盆を吉事盆というそうです。新盆の家は吉事盆とは区別し、

迎え火や送り火も盛大に、盆だなも一般より大きくていねいにつく

り青い葉で飾ったりします。また盆だなを納める日も、新盆の場合

は遅くしたりします。



 ムカシは、盆中に死者が出ると鍋(なべ)かほうろくをかぶせて

埋葬する習慣もあったそうです。これは死者があの世から帰ってく

る「先輩」たちに出会い「オレたちがシャバに帰ろうとするときに

出かけて行くヤツがあるか」と頭を叩かれるからだそうです。あの

世もなかなか厳しいようです。

−p238-

 

 

(第10章「葬送」終わり)

…………………………………………………

第11章へ