CD-R「ふるさと歳時記」 【12月】

………………………………

 ▼この章のもくじ
 ・師走(しわす) ・切り干しダイコン ・霜柱 ・乙子の朔日 ・カワビタリ
 ・大雪 ・こと八日(こと納め) ・門松立て ・忘年会 ・大師講 ・)あえのこと
 ・冬至 ・冬至がゆ ・ゆず湯  ・餅つき ・大晦日 ・臼伏せ ・臼休め
 ・年の火 ・年越し ・年越しそば ・年忘れ ・除夜の鐘

………………………………………

▼師走(しわす)

 いよいよ年末最後の月。押し詰まって来ました。12月を師走(し
わす)ともいっています。これは本当は1872年(明治5)まで使
われていた旧暦(太陰太陽暦・たいいんたいようれき)での12月
のことで、いまの暦の1月に当たります。

 「しわす」というのは、「しはつ」のことで、漢字で書くと為果
(しは)つだといい、すべて終わる意味だそうです。

 稲の収穫作業から、もみすり作業の後じまいが終わり、農業に関
する仕事すべて為果つ(仕極つ・しはつ=総仕舞い)の月だという
のです。

 そもそも睦月(むつき)、如月(きさらぎ)、弥生(やよい)、卯
月(うづき)……など1年12ヶ月の呼び方は、すべて稲の成長や、
稲作作業の順序を追って名づけたとする辞典(「大言海」大槻文彦
著・1932年〜37年刊の国語辞書)もあります。

 また、せわしない暮れになり、師匠も趨走(すうそう・チョコチ
ョコ走る)ころです。そんなことから「師趨」といっていたのがい
つのころからか、師走と書くようになったという説もあります。

 一方、昔は正月はお盆と同じ先祖を祭る月。坊さんがあちこちの
家々にお経をあげるために、忙しく馳せ参じます。

 こんなことから師馳(しはせ)月と言っていたのが略されて「し
わす」になったともいいます。師とは法師のことだったのですね。

 そのほか、1年の最後の月なので歳極(としは)つる月、または
歳極(としは)する月の訛だとする辞典(「東雅」)もあります。

 ほかに12月は、四時(春夏秋冬)の1年が果てる月なので、四
極月(しはつづき)だとするのは1688年(元禄1)の「日本歳時
記」(貝原好古編・貝原益軒補)の説です。やはり「極つる」だっ
たのです。

  12月になったとはいえ、農家には貯蔵米の品質管理、畑の排
水、薬害対策、耕起により多年生の雑草の防除、コンバインなどの
農業機械の点検格納、野菜の貯蔵などの仕事が残っています。

 12月はそのほか、年よつむ月、親子月、暮古月(くれこつき)
などの異名もあります。

 ちなみに英語のデッセンバーのデッセンはテン(10)の意味だそ
うです。ローマ暦では10月のことだったという。

 しかしユリウス暦で7月をシーザーの名前をとってジュライ、ア
ウグスッスが8月をオーガストにしたため、2ヶ月ずれて12月にな
ってしまったということです。(01)

 

………………………………………

▼切り干しダイコン

 初冬のむらのなかを歩いてみます。家々の庭先に自家製の「切
り干しダイコン」がならんでいます。竹やヨシでつくったスノコ
の上にならべて天日干しにしているのです。あまりふつうのこと
で気にとめませんが、これも農村の風物詩のひとつ。おばあさん
が一生懸命につくったのでしょう。

 切り干しダイコンは、冬の間の惣菜として、雪国や寒地では生
野菜の代わりとして利用されてきました。ことに戦中・戦後の野
菜不足の時は重要視された食品です。

 日本の太平洋側の季節風は乾燥した冬の北風。この時期にとれ
るダイコンを包丁かダイコン突きで切って、自然の風で乾燥させ
ます。こうした方法もその土地々々の気象を利用した知恵のひと
つ。

 切り干しダイコンは、とくに愛知県や九州・宮崎県などが有名
です。材料としてよいとされるのは、肉質がち密でやわらかく、
甘味のあることが条件だそうです。そんな点からも愛知県特産「宮
重ダイコン」が最も適しているという。

 切り干しダイコンもその切り方で名前がつけられているという。
最も細かに刻んで乾かしたものを「千切り干し」、それよりやや太
めのものを「上切り干し」、たんざく形に切ったものを「角切り干
し」、輪切りにしたものが「花丸切り干し」。

 またダイコンをたてに割って乾かしたものを「割り干し」とい
い、それには「割り干し」と「長割り干し」の二種類があります。

 最近はスーパーなどで求める人も多い。選ぶときは色のうすい
ものが新しいので注意します。それは、手早く短時間で乾かした
ものは白く、長期保存したものや期間がかかったものは強い褐色
になるからだといいます。これはダイコンの中のアミノ酸と糖分
が化学反応をおこして褐色物質をつくるためだそうです。(02)

 

………………………………………

▼霜柱

 朝起きて雨戸を開けると庭が霜で真っ白です。霜柱が太陽に光っ
ています。温暖化が進んでいるといいますが、立派な霜柱がいばっ
ています。

 霜と霜柱は全くの別物だそうです。霜柱は土のあるところではど
こでも立つものではなく、水分を適度に含み、また踏み固められた
ところには立ちません。

 霜柱が立つのは、地表の土が凍ると毛細管現象により地中の水分
が少しずつ地表に吸い上げられ、霜柱になります。要するに寒いほ
ど次々に凍り、地面を盛り上げてゆくわけです。

 厳冬の一時、それも深夜から早朝にかけての限られた時のみ生成
を許された霜柱。霜柱は、地表の土を押し上げます。そこで庭など
にはわらなどを敷き詰めて霜柱の害(霜崩れ)を防ぎます。

 畑では生えたばかりの麦が霜の害に合わないよう農家の人は麦ふ
みを行います。(03)

 

………………………………………

▼乙子(おとご)の朔日(ついたち)

 乙子月の朔日という行事があります。(正月を太郎月と呼ぶのに
対し末子の月の意味で12月の異名を乙子月というのだそうです。な
お、太郎月に対する次郎月は、2月と12月とのどちらをもいうのだ
とか)。

 年間最後の朔日というところから、12月朔日をとくに重く考えた
のだろうということです。この日に餅を食べて祝うところが多い。
餅を食べると水難を免れるという。この季節、水難にあまり関係が
なく、理由はわからないが「川祭りの日」としての信仰であること
は間違いないという。

 12月を陰の極まる月として、水を祭るということであったとも考
えられます。これを6月1日の川祭りに対応する祭日と考えるのは、
ちょっとこじつけの感もありますが、6月と12月とに同じ祭りを繰
り返すことは他にも多いので、まったく理由のないこととも思われ
ません。

 この日、餅をついて祝うところが多い。和歌山市などでは「乙子
の餅」といって白い餅ととう餅を組にしたものを売りに来ました。
また、秋田県平鹿(ひらか)郡では、あずき餅を「乙子の餅」とい
い、それを食べると水難をよけるという。

 関東やその周辺では、12月1日を「川浸り(かわびたり)の朔日」
などといい、その日の餅を「カビタレモチ」、「川流れの餅」などと
いい、その俗信が「乙子の餅」に結びついたものだといいます。

 だいたいに、東日本で「カワビタリの朔日」いうのに対して、西
日本では「乙子の朔日」という傾向にあります。

 和歌山県や熊本県には、「乙子の朔日」を誤解して、末弟のため
に祝う日と考えたところもあります。

 また、愛知県豊橋市付近では、「乙子の祝い」といって二人以上
子供がいる家で祝ったという(「吉田領風俗答書」)。岡山県や鳥取
県では「乙朔日」といって、この日に転んだりしたら良くないこと
がおきるといいました。もし転んだら「牛糞ですべって馬糞で止ま
った」といえなどといいました。

 鳥取県気高(けたか)郡では、この日に必ずナスを食べる習慣が
あるそうで、おはぎや赤飯を食べる家も多いという。京都府中郡で
も「乙子の朔日」にはカラスの鳴かない早朝に、漬けナス、酒粕、
それに果実のカリンを食べるという。

 これを「なす貸す借りん」いい、ナスは返済の意味の「ナス」に
通じ、酒粕の粕は貸すの意味だという。この地方でも、芋飯を炊い
て末子をなぐさめる日としています。(05)

 

………………………………………

▼カワビタリ

 12月1日の水神祭にちなんで、川にちなんだ祭りが各地で行われ
ます。関東地方やその周辺の福島・山梨などではカワビタリ(川浸
り)・カワビタシ、またカビタリ・カビタレなどいっています。

 この日についたもちやおはぎを川に流したり、川原に捨てる所も
あり、これをしないうちは橋を渡ってはいけないともいいます。

 または神に供えたアズキもちを食べないうちに渡るのは危険なの
で、アズキを鼻の先につけて渡れなどと、大まじめにいっていると
ころもあるそうです。

 このもちやおはぎを「川浸しもち」といって水神の祭りに供え、
これを食べると水難をよけるという。また、このもちを食わないう
ちは川を渡るものではないともいいました。

 おはぎをさんだわらにのせて流したり、もちを川に投げ込んであ
とを見ずに帰るようにする村もあるそうです。関東・中部地方や福
島県などで多く行われますが、同じ様な信仰は他でも広く行われて
いるという。

 宮城県では、かっぱれの朔日(川入の朔日)とか「水こぼしの朔
日」、「川除けの朔日」といい、もちや草もちをつき、豆腐を四角に
切ってダイズの茎をさし、いろりの四隅に立てて水を注ぎ、あとで
家族で食べたりしました。

 佐賀・長崎・山口・新潟県などでは「川渡り節供」といっている
という。

 その日のだんごを千葉県安房郡では川渡りもちといい、新潟県で
はカワタシもち、長野県ではナガレノもち、佐渡ではカワナガレモ
チ、栃木県ではカビタレモチ、福島県、群馬県ではカビタリモチ、
茨城県のカワパイリモチなどなど、みな12月1日の水難除けに食べ
るもちの名前だそうです。(05)

 

………………………………………

▼ 大 雪

 毎年、12月7日ころは大雪(たいせつ)。この時期、高い山の上
ばかりでなく、平地にも雪が降るころだぞ、という意味です。太陽
の黄経が255度になる日をいい、二十四節気の一つで小雪から数え
て15日め。

 暦にはよく二十四節気という文字が出てきます。陰暦では太陽の
位置と日付けが一定ではなく、月日と季節がずれてしまいました。

 それでは農作業などの目安がわからず不便です。そこで考え出さ
れたのが「二十四節気」。

 はじめは、1年を360日とし、機械的に15日ずつに割った、中国
からの二十四節気を使っていたが、その後、修正、黄道の位置その
他で調節して使っています。祝日になっている春分、秋分の日もそ
の一つです。

 雪いよいよ降り重ねる折りなればなり……という説もあります。
『暦便覧』。(06)

 

………………………………………

▼事八日(事納め)

 12月8日(2月8日の地方もある)は事八日(オコト)の日で
す。12月を事納めとする所は2月を事始めとします。

 「事」とは祭りの事の意味だそうです。祭り事を正月の祭事とす
る場合は、その準備をする12月を事始めにし、祭り事を農事だと
する場合は、農作業に先立つ2月に事始めを祝い、収穫が終わった
あとの12月に事納めをするというわけです。

 それがいつしか変わり、いまでは関西で年末の方を、関東では2
月の方を重んじるようになっています。目かごにヒイラギをつけた
さおを立てたり、お事汁といい、コンニャクやダイコン、ゴボウ、
ニンジンなどを入れたみそ汁を食べます。また、みそのかわりにし
ょうゆを使ったのを、いとこ汁、むしつ汁などと呼ぶそうです。

 農家では「オコト終い」とか「納めの八日」といって農作業や家
庭の行事の節目の日として祝います。この日は針供養の日でもあり、
石川県能登地方や富山県の一部では針歳暮といい、焼き餅や饅頭を
食べ、贈り物をしあい裁縫の上達を祈ります。

 また12月8日には豆腐を食べるところが多い。長野県伊那地方
では「無実講」といい、無実の罪で処刑された人たちを供養するた
め、豆腐を煮て食べ、餡や黄粉などつけないおはぎ餅を供えます。

 長野県松本市ではその豆腐汁をムセツ汁というそうです。愛知県
知多郡では「ムセツコウ」といいコンニャク、甘酒、五目飯を食べ、
仙台市でも無実の難を逃れるため、豆腐やコンニャクを入れたアズ
キ汁(無実汁)を食べたそうです。

 鳥取県ではこの日を「嘘つき祝い」といって、豆腐を食べると1
年中の嘘が消えるとか、岡山県では1年中腹にたまった嘘を出すた
めコンニャクを食べる「嘘つきじまい」、「嘘はらし」の日といって
いるそうです。(07)

 

………………………………………

▼門松立て

 先日、町内会から市発行の松を印刷した紙の門松が届きました。
もうこんな時期か。年末も押し詰まり、否応に自分をせわしない感
じに追い立てます。

 紙の印刷した門松カードの配布は、戦後の荒廃した森林の保護な
どを目的にスタートしましたが、あれから60数年、最近はカード
を使う家庭も少なくなっています。

 また地方自治体でもこの時期の門松カードの配布仕分けの人件費
がかさみ、その削減などから自治会等を通じた配布はやめる地方が
増えているようです。

 カードが必要な家庭には、自治体の出張所や公民館などで受けと
る方法に変更。またパソコンでダウンロードする方法もあるようで
す。

 門松カードによる門松の簡素化の徹底は、一応効果がありました。
しかしそれにくらべると、クリスマスツリーはまだまだの感が強く、
モミの木を駄目にしてしまうツリーに注目が集まっています。

 松飾りは12月の10日ごろに、近くの山から松の木や枝を切って
きて「松迎え」といわれる行事から行われます。昔から降臨する年
神の依代(よりしろ)として門松はなくてはならないものだったそ
うです。

 門松にはわらでつくったお椀のような形の容器をゆわえて、中に
雑煮などを入れてつる所もあるそうです。歳神さまに食べていただ
くためでしょうか。

 門松の立て方については、門口の両側に心柱を建てて、その上に
松を結んで建てる形が普通ですよね。そのほか、割り木を根元にた
くさん束ねて、それに長い松を立てるもの、また家の中に米俵を台
にして松の木を建てるなど地方によっていろいろなようです。

 門松に使うのは、もともとは松にかぎらずサカキやシキミなどの
常緑樹だったといいます。そのころは「門松」とはいわなかったよ
うです。それが平安後期あたりから次第に松を立てるようになり、
名前も「門松」と定着します。

 その由来については「中国唐の風習が渡来して定着した」、「一夜
の宿を乞う素戔嗚尊(すさのおのみこと)に、お金持ちの巨旦将来
(こたんしょうらい)は冷たく断った。怒った素戔嗚尊は巨旦将来
を殺してしまったという。その墓に建てた墓標が門松のもとになっ
た」

 また「もと皇居前に建ててあった鉾が変化して門松になった」、「貧
しい家の人が、せめて正月には汚いところを隠したいと建てたもの
が変化した」などの説もあります。

 これら正月迎えの準備は、12月中旬にすでに始められたもので
したが、このごろはクリスマスがあるために、遅れて25日以降、
大みそかに近づいてしまっているようです。

 しかし、門松に限らず正月飾りは12月29日に飾るのは「二重苦」、
また9の末日でもあるので「苦松(苦待つ)」などといい、また30
日や大晦日に飾るのは「一夜松」「一日飾り」で、神をおろそかに
するという考えから、28日までに行っているようです。

 門松は、1月6日の夕方にかたづけて、1月7日の「七日正月」
である7日までを「松の内」と呼んでいます。しかし、地方により15
日の小正月まで飾るところもあります。左義長で門松を焼く地方は
それに合わせます。(08)

 

………………………………………

▼忘年会

 忘年会にも、もとはちゃんとした意味がありました。正月は、お
盆と同じ先祖を迎える行事であり、日本にも古くから年越しに先祖
を祭る風習がありました。

 平安時代の和歌にも、除夜は魂(たま)祭りの夜で亡き人の魂が、
くる晩であることを詠んだものがみられます。

 中国でも忘年会は、先祖の祭祀の直会・なおらい(神事のあと供
え物を分けあってひらく酒宴)に相当するするものだそうです。

 「年忘れ」という言葉は、室町時代からあったといい、年末に連
歌を詠みあうこともあったそうです。

 このように歌を詠む忘年会が、いつしか歌をうたう忘年会に変わ
り、いまでは年の暮れでもないのにカラオケボックス通いです。

 「書言字考節用集」という本には、「別歳」や「分歳」の字をあ
てて「としわすれ」と読ませてあります。旧年と新しい年たがわか
れる意味だそうです。(09)

 

………………………………………

▼大師講

 大師講(だいしこう)は旧暦の11月23日から24日にかけての祭り
です。この日は一陽来復をもたらすありがたいお方が、村々を訪れ
る日だとされました。弘法大師が村をめぐるのだという話もあり、
大師さまの好きなアズキがゆをつくり、長い萱のはしを供えます。

 昔から大師講の日は必ず雪が降るものだといわれます。大師さま
はスリコギのような足をした一本足。アズキがゆをもらいに家々を
まわるが、雪で足あとを隠すためだといいます。

 また、その昔、大師さまをもてなすため、畑からダイコンを盗ん
だ貧しい老母の足あとをかくす「あとかしの雪」だという所もあり
ます。

 大師さまは、子どもを大勢連れた貧しい女の神さまだとしている
所もあります。(10)

 

………………………………………

▼あえのこと

 能登半島で行われる、田の神感謝の農耕儀礼アエノコトは、よく
知られる行事です。アエノコトは、本来は霜月の5日に行われてい
たため、秋祭りと正月との間の意味の「アイ」で「間の事」だとす
る説があります。

 また、アエは「饗」で田の神に新穀を供える一種の新嘗祭だとも
いう人もいます。

 春に地上に田の神が降臨し、秋、収穫を見とどけて去っていくと
いう信仰が農村にあります。能登の地方でも旧暦の1月(2月のと
ころもある)の5日(または9日)に、田の神が田んぼに降りてき
て、11月5日に帰って行くと信じられていたため、かつてはアエノ
コトは旧暦の11月に行っていたそうです。

 しかし、いまの暦、太陽暦になってからは12月5日の行事にした
ところが多いとか。でも、いままで通り旧暦の11月4日のままの所
もあるという。

 アエノコトは田の神に感謝をし、家の主人が接待する行事です。
この神は片目または両目が不自由な夫婦の神だと伝えられていま
す。

 接待の仕方は家々によってやり方があるそうですが一般に、床の
間に種俵を飾って、粢(しとぎ)をつくり、神を迎える支度をしま
す。主人が苗代田へ行き「田の神さま、長い間ご苦労さまでござい
ました。お迎えに参りました。おいで下さいまし」と唱えごとをい
い、家まで案内します。神の目は不自由だというので、溝などに落
ちないよう気を配ります。

 家族一同が出迎えるなか家の中に入れ、風呂に案内、「熱うござ
いますか、ぬるうごじますか」などと湯加減を聞いたりします。

 風呂から戻ると床の間のところのお膳に案内。小豆飯、みそ汁、
煮しめ、メバルの尾頭つきなど膳に盛った品をひとつひとつを「ご
飯でございます」「お汁でございます」などと説明してすすめます。
甘酒も供えます。

 夫婦神というので膳を2つ用意。男性の神の前には一斗箕に葉っ
ぱつきのダイコンを1本、女性の神には二股ダイコンを供え、家族
は下座で田の神と同じ料理を食べるという。

 アエノコトの祭りは秋だけでなく、春先にも行う地方もあるそう
です。(11)

 

………………………………………

▼ 冬 至

 冬至は太陽の黄経を二十四等分して、そのひとつずつに季節にふ
さわしい言葉を割り当てた「二十四節気」のひとつです。天球の太
陽の位置である黄経が270度になり、太陽の高度は1年中で一番低
くくなります。地球からいうと太陽が南緯23度27分に達し、いちば
ん昼間が短くなります。

しかし冬至はまた、再び昼が長くなりはじめる日でもあります。だ
から、新しい太陽の誕生日として冬至を祝う行事が世界中にありま
す。クリスマスもそのひとつ。太陽とみなすキリスト、その誕生日
をわざわざこの時期だとして持ってきたものともいわれています。

 再び昼が長くなることを喜び、かつては「一陽来復」(暗い陰が
終わり、明るい陽がもどってくる)をもたらす神がこの日、村々を
まわると考えられていたそうです。これはクリスマスにサンタクロ
ースが村々をまわるのと同じ考え。

 冬至には、中風にならないおまじないにカボチャや冬至がゆを食
べ、風邪をひかないようユズ湯に入ります。コンニャクも食べます。
またレンコン、ミカン、トウガン、ダイコンなど「ん」のつくもの
を七種類食べると、病気にかからず「運」がよくなるなどともいわ
れてきました。

 「二十四節気」をさらに三つずつに分けた「七十二候」(1年を
七十二に分けた)では、最初が立春からはじまるため、第六十四候
から六十六候に当たります。第六十四候(12月11日から26日ころ)
は、「乃東生・ないとう(ウツボグサ)しょうず」(宝暦暦)。現代
では「カズノコ出盛り(東日本)」「つみ肥積み込み(中部日本)」「漬
け物製造(西日本)」。

 第六十五候(12月27日から31日ころ)は、「おおしか角解(びか
くげす)」(おおしかのつのおつる・宝暦暦)。現代では「真冬日入
(東日本)」「積雪始め(中部日本)」「根菜類貯蔵(西日本)」。第六
十六候(1月1日から4日ころ)は、「雪下出麦(せっかむぎをい
だす)」(宝暦暦)。現代では「根雪始まり(東日本)」、「タコ出盛り
(中部日本)」、「タコ出盛り(西日本)」のころとしています。(12)

 

………………………………………

▼冬至がゆ

 いまはあまりないようですが、かつて冬至には冬至粥(とうじが
ゆ)を食べる習慣がありました。年中行事に粥(かゆ)を食べる習
俗は多く、正月の白粥、七草粥、1月15日のアズキ粥、麦まき後
の穴ふさぎ粥、田植え前の苗取り粥、12月大師講のアズキ粥など
があります。

 これらはほとんどが農事暦の行事に結びついているようです。そ
のため、もとは神に供える食べ物だった粥が、次第に庶民の生活に
とけ込んでいったのではないかといわれています。

 神社などでは粥占いという神事もあります。小正月にはお粥を使
って農産物の豊作・凶作など吉兆を占う粥占(かゆうら)の行事も
あります。

 また五穀(日本では一般に米、ムギ、アワ、キビ、豆をさすが、
時代や地方により種類や順序が変わっている)といっしょに煮たカ
ユの中に竹の筒を入れ、その中に入った五穀のどの穀物が多いかで、
その年の作物の出来を占ったりします。

 カユの語源は濃湯(こゆ)からきたのだとも炊湯(かしぎゆ)の
意味からきた言葉だともいわれているそうです。(13)

 

………………………………………

▼ゆず湯

 冬至(毎年12月22日ころ)にはゆず湯に入ります。輪切りにした
ユズを布袋に入れ、ふろにつけると邪気をはらい、風邪を引かない
とかいわれます。

 ゆず湯は、5月の端午の節供のしょうぶ湯と同じく、古代の「み
そぎ」の形を変えた名ごりではないかとされています。みそぎとは
身についた「けがれ」を洗い清めて神に近づける体にしようとする
行事であります。

 また、ゆず湯に入れば、万事融通がきくという語呂合わせの意味
もあり、年末をひかえてなんとなく首もまわるような感じになります。

 ゆず湯は一種の薬湯であり、ユズの皮の芳香湯と、実に含まれて
いるクエン酸などで体が温まり、ひびやあかぎれが治り肌をすべす
べにします。また、このユズを縁の下に投げ込んでおくと火事にな
らないという俗信もあるそうです。(14)

 

………………………………………

▼餅つき

 正月用の鏡餅やお雑煮のもちは、かつては個々の家で用意しまし
た。江戸時代には、臼や杵、かまどまで大八車に積んで町をまわる
「もちつき業者」がいたそうです。これを引摺りといい、大きな商
家などではこの業者に頼み、大勢でにぎやかにつかせ、自分の家の
景気のいいところをみせつけました。

 業者もそれに合わせ、ただもちをつくだけではなく、餅つき歌を
歌いながら千本杵(何人もの人が細い棒形の手杵でつく)でついた
り、なかにはアクロバット的なパフォーマンスをする者までいたそ
うです。これとは別にこのほかに、もち屋に賃銭を払ってつかせる
賃もちもあったという。

農家でもいまはもちつき機を使ったり、お店で買ったりしています
が、かつてはそれぞれの家々で、何俵ものもちを何日もかかってつ
く家もありました。もちつきは、初めのひと臼からお供えの鏡もち
をとるものという。また、きまって臼の下に縁わらを敷きました。

 これを敷かないと、神さまがもちを受け取ってくれないからだそ
うです。また苦餅(くもち)といい、12月29日につくのを避ける風
習がありますが、これは苦松といって29日に門松を立てないのと同
じだそうです。いろいろとシキタリがあるのですねエ。

 もちという言葉は、望(もち・満月)を意味し、円形のことだと
いう説もあります。また心臓をかたどったのだという人もいます。

 正月には鏡もちが欠かせません。鏡もちも確かに丸くできていま
す。鏡餅は古くは「餅鏡・もちひかがみ」といったそうです。「も
ちひ」は餅飯(もちいい)の略で、生米の粉をこねてつくる「しと
ぎ餅」というものに対していったものとか。これに対して正円形の
餅鏡は、供物にする床飾りだけの特別な餅だったのではないかとい
う人もいます。

 鏡餅の方言には、仙台、岡山、広島、長崎、大分、佐賀、熊本、
香川県などの「オスワリ」や、また「アタタキ」、「アタタケ」とい
う所があります。アタタケは、「戴き餅」のなまったものらしく、
平安時代、子供の頭にもちを「戴く」行事のなごりだそうです。そ
のほか鏡餅をお祝い、祝い、フクデ、セチ、オカサネ、オカザリ、
ミカガミなど地方地方の呼び方があります。(15)

 

………………………………………

▼大晦日

 門松も飾り終わりました。餅も用意しました。歳神さまのしめな
わもつけました……正月の準備が終わったきょうは、年越しそばを
食べ、ミソカバライをし、除夜の鐘を聞き正月の神の来臨を待ちま
す。

 年越しそばは、寿命そば、運気そばなどと呼んでいるところもも
ありますが、それを食べるのはそばのように長く幸せにという縁起
とも、また昔、金箔師が金銀の粉をそば粉をこねて集めたのにちな
み、金銀をかき集める意味ともいわれています。

 大みそかに欠かせないのが除夜の鐘。この百八つの鐘の音は弱く
54、強く54打つ中国の仏教儀式。宋の時代からはじまったものだそ
うです。1年12ヶ月、24気、72候を合わせた数字が百と八つなのだ
という。それが後になって百八つの煩悩をさますためにといわれる
ようになりました。

 この夜は厳重な物忌みをして終夜起き明かしたもので、早く寝る
と白髪になるとか、しわができるとかいまでも戒めています。年ご
もりとといって神社にこもるならわしも広く行われていました。

 大みそかには臼や道具をやすめて、しめなわを飾り、もちを供え
る風習もあります。

むかしは日の暮れが1日の境い目だったので大みそかが暮れるとも
う新しい年。おめでとうというわけで神祭をすまし家族一同年取り
の食事をしました。このように厳粛な気持ちで神をむかえ、新しい
年に向かった希望を燃やします。(16)

 

………………………………………

▼臼伏せ

大みそかに行う農村行事に「臼伏せ」があります。地方によって
は「臼休め」、「うさ姫起こし」などと言ったりします。

 「臼伏せ」というのは青森県津軽地方など。これは米占(ルビ・
こめうら)の行事で西津軽郡では、3個のもちをそれぞれ、わせ・
なか・おくてときめ、それを米の入った一升ますに乗せます。この
ますを土間に置き、その上にしめ縄を張った臼を伏せます。元旦に
臼をのけ、いちばん多く米粒のついたもちの品種がことしの豊作の
稲とします。

 東津軽郡では、年男がお盆に白米を3ヶ所に盛り、もちをのせて、
それに臼や鍋などを伏せて占います。南津軽郡では臼伏せの祝いと
いい、土間に農具を全部ならべてお供えもちを上げ、これを拝んで
からもちの上に臼を伏せるという。

 臼を祭壇として田の神の祭りをするのは、ほかの地方にも多くあ
ります。年越しの夜、伏せた臼を、正月2日などに起こして使える
ようにするのを「臼起し」といっています。

 また、「臼休め」といっているのは佐賀県東松浦郡地方。やはり
年越しの夜、庭にむしろを敷き、臼を横に寝させて年のもちを供え、
灯明を上げる行事です。これと同じ風習がかつて秋田県八郎潟の湖
岸でも行われていたという(1810・文化7年の紀行『氷魚(ルビ・
ひお)の村君』菅江真澄著)。

 これは正月15日の夜、寝ぎわに行ったもので、大臼・小臼・磨き
臼をみな伏せて、その上に若水桶をのせるもので、「何処も同じ」
と同書は書いています。臼は逆木で作るものですから、年に3度、
年越しの夜と、正月15日の夜と、2月の朔日の夜には、伏せて直木
に返す習わしであるとも記しています。年越しの夜に道具を屋内に
取りこんで物忌みをするという土地が他にもあり、臼伏せはそれを
年寵りの行事として行ったものだそうです。

 「うさ姫起こし」という行事も長崎県にあります。「うさ姫起こ
し」は「臼姫起こし」のことで、臼を女性に見立てて姫といったも
のだそうです。普通は正月のはじめに行われる臼起しの行事のひと
つだそうです。長崎県下五島では、年越しの深夜に主人夫婦が行っ
たという。いったん休めておいた臼を起こし、この中へふたつのも
ちを入れてふたりが手杵でつく形を行います。(17)

 

………………………………………

▼臼休め

 年越しの夜、庭にむしろを敷いてその上に臼を横に寝かせてもち
を供え、灯明をあげる臼休めという行事が九州にあります。東北で
も大晦日の夜、土間に農具を全部並べてお供えもちをあげ、家長と
下男頭がこれを拝んでからそのもちに臼を伏せる臼伏せの行事があ
ったという。

 これは年の夜の忌み篭りのための行事だといいます。伏せた臼を
祭壇にして、年の夜の行事や田の神さまの祭を行うことは、ほかの
地方にもたくさん見られるという。

 また東北の各地方ではかつて、小正月(1月15日)に臼休めが行わ
れ、大臼・小臼・磨き臼などを伏せて、その上に若水桶をのせるしき
たりがあったと、江戸中期の民俗学者で紀行家の菅江真澄も文化7
(1810)年の「氷魚(ひお)の村君」で書いています。

 臼は逆木で作るものなので、1年のうち3回、年越しの夜と正月
15日の夜、そして2月1日の夜には、臼を伏せて直木に返してやる
習わしがあったといいます。

 祭りの忌み篭りには、臼や杵、また糸車の音なども立てぬように
して慎んだということです。

 なお、同じ大晦日の晩に行われる、わせ、なかて、おくてと決め
たもちを、1升桝に入った米にのせ、どのもちに一番多く米がつい
たかでその年植える稲を占うという米占いをする臼伏せ行事もあり
ます。(18)

 

………………………………………

▼年の火

 大みそかの晩に泊まった旅人に貧しい家人は、せめてもの心づく
しにと、火をたいてもてなしたところ、翌朝旅人は黄金のかたまり
になっていて、その家は大金持ちになったという昔話があります。

 この昔話に関係あるのか、以前は大みそかの夜にさかんに火をた
く風習がありました。明かりのとぼしい昔は、いろりで大火をたけ
ば、家の中が明るく暖かくなり、除夜の祝膳を楽しくする目的もあ
ったとか。

 かつては、山村以外の農家は貧しいため、ふつうは薪のかわりに
わらや柴をたいていました。だから正月くらいは本式の薪をと、大
みそかの夜からたきはじめたのだという。天井に火がとどくほど大
火をたけば、その分だけ長者になれるなどともいわれました。

 九州では、年回りのよかった家では、年の火をそのまま新年に持
ち越し、年回りのよくなかった家は、火を消して新規まきなおしの
意味をこめ、新しい火に切り替える地方も有ったそうです。(19)

 

………………………………………

▼年越し

 年越しは新年を迎えるための夜の行事です。大晦日には大はらえ
をし、物いみをして一晩中おきて正月さまをむかえます。

 昔は日の暮れから日の暮れまでが一日だったので、夕方が一日の
はじまり。大晦日が暮れるともう新しい年で、正月の神まつりが行
った後は家族一同が直会(なおらい)として年取りの食事をしたそ
うです。

 以前は大晦日は年ごもりといって神社やお寺へ行って元日を迎え
ました。農家は臼や主な農作業の道具を祭壇ふうに飾り、しめ縄を
しめ餅を供えました。

 新潟県では大みそかの夜、歳神を迎えるため大戸を開き、7つぶ
の黒豆を入れお湯をわかす行事があります。また岡山県のように年
越しイワシといって、大みそかには必ず夕飯にイワシをつける所も
あります。(20)

 

………………………………………

▼年越しそば

 大みそかの夜は、年越しそばを食べて縁起を祝います。「みそか
そば」、「つごもりそば」といい、「運気そば」、「寿命そば」と呼ん
でる所もあります。

 なぜ大みそかにそばを食べるのか、その由来についてははっきり
しませんが、そばのように長くしあわせにと縁起をかついで、そば
から体の中にかきこもうとするのだという人もいます。

 また、昔金箔師は、仕事を終えて、散らばった金や銀の粉を集め
るのに、そば粉をこねて塊につけて集めました。

 そんなことから、大みそかにそばを食べて金銀をふところにかき
集める意味だという説があります。

 もともと昔の商人は、月末が忙しく夜遅くまで仕事をしなければ
ならず、毎月末の夜はみそかそばですます風習がありました。一方
普通の月はみそかそばを食べない家でも、大みそかはめっぽう忙し
い。そこで商人の家の風習をまねたわけでだはないが、つごもりそ
ばだけは食べるしきたりができて、それが一般に広まったという説
もあります。(21)

 

………………………………………

▼年忘れ

 かつて年の暮れに、集落の人たちが集い、年中の労を忘れ息災を
祝い合う「年忘れ」の会がありました。

 古書に別歳、分歳と書いてトシワスレと読ませてあります。中国、
前漢の名臣・蘇武の詩に「蜀俗歳晩に酒食相遨へ、呼びて別歳とな
す」とあり、別歳について説明しています。分歳は旧年と新年とが
別れる意で、やはり年忘れの宴会。中国では忘年会が先祖の祀る行
事でした。

 大晦日の夜、先祖を祭る習慣は日本にも古くからあり、平安時代
の和歌にも、除夜は亡き人の魂がくる夜であることを詠んだものが
あります。年忘れの言葉は室町時代からあり、大晦日に連歌を詠み、
元日まで続ける例もあったという。

 このように先祖を祭る年忘れの行事は、やがて庶民の間にも広ま
り、仲間同志でことしの労をねぎらいあうようになり、いまでいう
忘年会として残っています。(22)

 

………………………………………

▼除夜の鐘

 大みそかに除夜の鐘はかかせません。108回つくのは、百八つの
煩悩をさますためで、百七つは大みそかのうちに、残りの一つは新
年になってからつきます。また、そのうち54回は弱く、54回は強く
打つのだそうです。

 百八つの煩悩とは、六根や六塵が好、悪平の不同があるため、18
種ずつ36種の煩悩になり、これがさらに過去、現在、未来にあるた
め、3をかけて108の煩悩になるのだそうです。

 また、この数は煩悩ではなく、一年をあらわしているといいます。
1年は、12か月二十四節気七十二候。それをたすと……電卓で計算
したらなるほど108になりました。

 その他、心を狂わせて修行を妨げるむぜん(無、りっしんべんに
斬)、むき(無、りっしんべんに鬼)、嫉(しつ)、けん(りっしん
べんに堅)……などの十種と、人を迷うに結縛(けちばく)する九
十八結(けち)の合計百八だとの説も。なお、除夜の鐘は中国宋の
時代に始まった行事だという。(23)

 

(12月終わり)

………………………………………………………………

あとがき】へ