『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第9章 路傍の石碑

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▼09-22「出羽三山供養塔」

【本文】
 各地の町や村を歩いていると、神社やお寺に出羽三山の石碑が目
につきます。出羽三山の供養塔は、山形県の羽黒山・月山・湯殿山
の三山を信仰する人たちが建てた供養塔。出羽三山はひとつの山に
なっていますが、その三つのピークを三山としています。最高峰は
月山で標高は、写真測量による標高点では1984mになっています。

 ここは、6世紀末、崇峻(すしゅん)天皇の皇子、蜂子皇子によ
って開山されたといわれる羽黒修験の本拠地です。いま羽黒山に伊
?波神(いではのかみ)をまつる出羽神社、月山に月読命(つきよ
みのみこと)の月山神社、湯殿山に大山祇命(おおやまずみのみこ
と)をまつる湯殿山神社があります。

 三山の中心は羽黒山で、山頂には伊?波(いでは)の神をまつる
伊?波(いでは)神社(羽黒山神社)があります。月山と湯殿山は、
冬には雪が積もって登るのが困難なため、積雪の少ない羽黒山に三
山の神をあわせまつった、「三山合祭殿」が建てられています。中
央に月山神、右に羽黒山神、左に湯殿山神をまつっています。夏の
シーズンには、白装束の信者たちが、羽黒山口や、湯殿山口の各登
山口から三山を巡拝しました。

 この三山巡拝を「奧詣り」、「三山懸け」、「お山懸け」などといい、
記念に供養塔を建てました。この習俗は東北六県、関東六都県、新
潟県、長野県塔などにも分布しているという。出羽三山の供養塔は、
江戸時代中期の宝暦(1751〜64)年間ごろから盛んに建てられる
ようになり、幕末のころが最盛期といいます。

 供養塔の文字は、関東では真ん中に高く「湯殿山大権現」、「羽黒
山大権現」、「月山大権現」と掘られたものや、「湯殿山」、一段低く
右に「月山」、左に「湯殿山」とあるものがあります。しかし明治
になると、神仏分離・廃仏棄釈の嵐が吹き荒れます。「湯殿山大権
現」というような神仏混淆の匂いのする文字は、神道系の流言に乗
った暴徒によって破壊されかねません。

 そのため「湯殿山神社」とか、「湯殿山大神」というような、神
道的な文字が刻まれるようになっていきます。出羽三山供養塔は、
私の故郷の千葉県にとくに多いそうで、「月山神社」、「羽黒山神社」
「湯殿山神社」と書かれた供養塔は普通に見られます。

 講中は三山講、湯殿山講、権現講、奥講などと呼ばれ、出羽三山
に参詣して五穀豊穣、家内安全、無病息災を祈願します。この講は
地域ごとに組織され、くじ引きでことしの参詣者(代参者)を決め、
参詣者は精進潔斎を行い、村の鎮守に道中の無事を祈願して出発し
たという。

 家内の祖父が出羽三山の先達で木更津市の近郊の実家に修験者が
泊まりに来たといい、よくホラ貝を吹き大勢を連れて出羽三山へ案
内していったそうです。形見分けにもらった装束を大事にしていま
す。


▼【参考文献】
・『修験道辞典』宮家準(東京堂出版)1991年(平成3)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)
・『民間信仰辞典』桜井徳太郎編(東京堂出版)1984年(昭和59)

 

 

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