『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第9章 路傍の石碑

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▼09-11「日待塔」

【前文】

よく道ばたや神社、お寺の境内で「日待塔」・「月待塔」の石碑を見
かけます。「待」は「祭」で、かつては決まった月日の夜、お堂な
どに集まり、飲み食いしながら一夜を明かし、翌朝の日の出を拝む
日待という行事がありました。「日待塔」はその供養や祭礼のしる
しとして建立されたものです。

▼09-11「日待塔」

【本文】
 よく道ばたや神社、お寺の境内で「日待塔」(ひまちとう)・「月
待塔」(つきまちとう)の石碑を見かけます。仏像を刻んだものや、
文字塔のもの、また庚申塔のものなどまでさまざまです。「日待」(ひ
まち)とは、日の出を待つという意味ですが、江戸時代から、待(ま
ち)は「祭」だとする説もあります。

 そういえば、私の生まれた千葉県の下総地方でも、祭りのことを
「マーチ」とか「マチ」といっていました。かつては決まった月日
の夜、ご近所がご馳走などを持ち寄り地区のお堂などに集まり、飲
み食いしながら一夜を明かし、翌朝の日の出を拝む日待(ひまち)
という行事がありました。

 「日待塔」はその供養や祭礼のしるしとして建立されたものだと
いいます。「日待」は、それを行う目的でそれぞれ、庚申待(こう
しんまち)、巳待(みまち・弁天日待とも)、風日待、蚕日待、天王
日待、榛名日待(榛名代参講)などの名前で呼ばれたりします。

 「日待」という行事は、古代の信仰に根ざした古い習俗らしい。
その後になって行われれるようになった、同じような行事の、庚申
待(こうしんまち)や巳待(みまち)、子待(ねまち)などや、山岳
信仰として行われる、「代参講」の待行事は、この「日待」の形式
ならったものだといいます。

 このように、いまいう日待塔(狭義の)以下、あとから行われた
月待塔(二十三夜塔など)、庚申待・甲子塔・己巳塔(きしとう)
の類、念仏塔・題目塔、その他(代参講の類など)は、すべて「日
待塔」(まちごと)に含まれるのだという。

 ちなみに、巳待は、己巳(つちのとみ)の日の巳の刻(午前10時こ
ろ)に、寄合いとして行なう弁財天の祭。また、子待(ねまち)と
は、甲子(きのえね)の日に講で集まって精進する行事。子の刻(真
夜中)、まで起きていた行事です。

 これらの行事(日待・月待)は、かつては旧暦の15日の夜(満月)
に行われたらしく、日の出を待つ間、満月への崇拝や祈願を行うも
のだったといいます。いまでも「日待月待」などと一緒くたに呼ば
れています。

 日待のはじまりというと、「吉田神道家」の伝承では、平安時代
初期の嵯峨天皇の時代に、京都の如意ヶ嶽に登って、日の出を拝ん
だのが最初だといいます。吉田神道とは、室町時代京都吉田神社の
神職吉田兼倶により大成された神道の一流派。儒教,仏教,道教,
陰陽道などいろいろな教説を融和混交させた神道説を唱えていたと
いう。

 さて「日待」の記録で古いのは、南北朝時代の本「吉田鈴鹿家記」
北朝貞治三年(南朝正平十九年・1364)一月十五日の条の「徹夜の
酒宴が行われた」というのが最初です。

 一方、講として建てた1番古い日待塔は、安土桃山時代の文禄5
年(慶長元・1596)の塔で、名古屋市熱田にあるそうです。日待塔
の形には、刻像塔や文字塔、庚申塔などに日待と刻んだ塔がありま
す。

 この大昔から行われてきた日の出を待つ「日待」の行事は、十五
夜の夜(満月の夜)に行われるのがもとの形だったらしい。日の出
を待つ一夜(日待の一夜)、一晩中眺めるのは満月です。当然、月
への崇拝、祈りや願いも行われます。したがって十五夜の日待は、
日と月に対する信仰習俗であったわけです。

 ところで、一方、月は、勢至菩薩(せいしぼさつ)の化現である
と説く教典の説があります。そしてまた、「三十日仏説」では、勢
至菩薩の有縁日(うえんび)は、「二十三日」とされているそうで
す。そこで月に対する礼拝は、「二十三夜」に行うのが本筋である
という考えが生まれます。

 そんなことから、「二十三夜の月待」というものが、室町時代か
ら仏教で盛んに行われるようになりました。二十三夜月待供養の石
造物が建てられるようになったのはこんないきさつがあったようで
す。

 日待塔には「刻像塔」や「文字塔」があります。(A:「刻像の日
待塔」には、大日如来像の塔(神奈川件津久井町など同県北部に多
い)や、観音像の塔(聖観音の日待塔、如意輪観音の日待塔、馬頭
観音の日待塔などがある)、虚空蔵菩薩像の塔、地蔵像の塔、六地
蔵像の塔・弁財天の塔などがあります。

 (B:「文字塔の日待塔」には、文字の塔、日天子の塔、層塔(三
重)の塔があります。さらに「二十三夜塔に日待の文字のある塔、
庚申塔に日待の文字のある塔、題目講の日待塔、巳待の日待塔など
があります。しかし、いまではいずれもすたれて、石塔も風化され
てしまっています。


▼【参考文献】
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)」ほか

 

 

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