『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第9章 路傍の石碑

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▼09-09「地 神」

【本文】
 地神塔という石塔もあります。これは地神講という地神をまつる
講中が供養のために建てたものという。地神講は社日講ともいい、
春分と、秋分にいちばん近い戊(つちのえ)の日を「社日」の日に、
講(結社)に入っている人たちが集まって地神をまつります。

 講中は地神の掛け軸を床の間などの上座に掛けたり、地神塔の前
に集まって供養します。社日の日には、土を掘ったり耕したりして
はいけないといわれ、この日は畑などの仕事をしてはいけないとい
う。

 塔には「地神塔」と文字を刻んだものと、地神の像を刻んだもの
があります。文字塔には、自然石や角柱に「地神」、「地神塔」、「地
神尊」、「地神斉」、「地神社」、「地神宮」などとと刻まれています。
地神の像を刻んだものもあるようで、盛花器と矛を持つ、二手の地
天(堅牢地神ともいう)の像です。これは、仏教の影響を受けたも
のという。

 地神には、陰陽道の系統の「土公神」というものもあり、「埴安
姫命(はにやす)、稲倉魂命(うかのみたま)、大己貴命(おおなむ
ち)、天照大神、少彦名命(すくなひこな)」を、五面に彫った五角
柱(六角柱もある)があるようです。そのほか、神奈川県丹沢山ろ
くでよく見かける「天社神」、秦野市周辺には「后土神」がありま
す。

 地神は、農業の神でもあるという。この神は「百姓の神」とか、
また稲の穂を持ってきた神とも、春の社日に田畑に出て、秋に帰る
まで作物をつくっている神ともいわれます。これは春に山から下り
てきて、作物の成長を見守り、秋にまた山に帰る田の神(作神)と
同じです。そのため、農村地帯で信仰され、多くは部落(小字)単
位で地神講が組織されています。

 地神でいちばん古いのは、群馬県館林市の茂林寺墓地にある、地
天を刻んだ元禄7年(1694)塔だそうです。地神塔はこのころから
建てはじめられ、明治のころが最盛期で、大正以後は少なくなって
いるという。地神は、関東では「ちじん」とよび、静岡県南部では
「地(ち)の神」、九州、四国では「地主(じぬし)様」と呼んで
いるようです。

 もともとは屋敷の隅に祠などを建ててまつってある屋敷神だった
そうです。それが、村やや区域共同で祈願するようになり、村落へ
の入り口や田んぼ、畑のわきにまつるようになりました。そのため、
冥界(めいかい)と、現世との境に立つといわれる勝軍地蔵(地蔵
信仰のひとつ)とも結びついていきました。

 これは地蔵の「地」と地神の「地」が同じため、混合したものら
しい。さらには勝軍地蔵は、悪疫、悪神などを防塞するという信仰
があり、信仰の内容から「塞の神」とも結びついているという。結
びつくといえば、神奈川県小田原市の妙泉寺には「痔神社」があり
ます。これはもちろん、痔瘻治癒の神でもありますが、「地」と「痔」
の音からくるもので、地神からはじまっているそうです。


▼【参考文献】
・『世界大百科事典13』(平凡社)1972年(昭和47)
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)
・『日本大百科全書10』(小学館)1986年(昭和61)
・『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)

 

 

 

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