『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第9章 路傍の石碑
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▼09-07「金毘羅宮」
【前文】
コンピラさんといえば、香川県琴平町の金毘羅権現が中心。この金
刀比羅宮の境内に、本尊をお釈迦さまとする松尾寺があり、裏山を
「象頭山」と名づけ、象頭山金毘羅大権現呼ぶようになりました。
海上交通が盛んになると、豊漁、海上安全の神としてあがめられ、
また水神、雨乞いの神として農村にまで伝播していきました。
▼「金毘羅宮」
【本文】
金毘羅は薬師さまの眷属である十二神将の一人で、般若守護十六
善神の一人でもあり、また、竜王、夜叉神王とも名のり、多くの夜
叉をひきいて仏法守護をします。
そもそも金毘羅は、サンスクリット語の「クンピーラ」から出た
名前だそうです。ガンジス河にすむワニなのだそうです。これがお
釈迦さまが修行した王舎城内ヒフラ山の守護神になり、山がゾウの
鼻に似ているので「象頭山」といいました。
この「ワニ神」信仰が日本に渡って来ると、水に住む神というの
で、いつの間にか十二神将とは別の海上の守護神、海難救済の神と
しての信仰になっていきます。
コンピラさんといえば、香川県琴平町の金刀比羅宮の金毘羅権現
が中心です。祭神は大物主神で、相殿(あいどの)に、「保元の乱」
でここに流された、崇徳天皇をまつっています。この金刀比羅宮の
境内には松尾寺というお寺があり、本尊をお釈迦さまとしていまし
た。
そこで釈迦に関係のある金毘羅を寺の守護神として勧請し、裏山
を「象頭山」と名づけたという。時が過ぎるにしたがい神仏習合、
本地垂迹説の影響で象頭山金毘羅大権現というようになり、松尾寺
が別当を努めていました。
室町時代に入り、海上交通が盛んになると、豊漁、海上安全の神
としてあがめられ各地に神社を建立。また水神、雨乞いの神として
農村にまで伝播します。
こうして全国に広がったコンピラさん信仰は、ますます盛んにな
っていきました。「金毘羅参り」は、「伊勢参り」とならんで、一生
一度の庶民の願いでありました。江戸時代に入ると講が組織され、
こんぴら船をチャーターするようになり、♪追い手に帆かけてシュ
ラシュシシュ……と、金毘羅詣での列がつながります。
ところがこの船、当時大阪港や岡山県の下津井港と、香川県の琴
平近くの丸亀港や、多度津港の間を毎日2便、快速航行する定期便
だったというのです。船元との特約に赤字を出さないように、各地
の講元は旅行代理店よろしく、営業活動しなければなりません。旅
行積立金を徴収して、「くじ」や輪番で、選ばれた代表人を送り込
んでいたのですから、大した組織力だったわけです。
江戸時代も後半になると、金毘羅参りもレジャー化してきます。
物見遊山の参詣客が増えるにしたがって、宿場も歓楽化の一途をた
どります。賭博場もでき、遊女を世話する宿、頼みもしない酒やサ
カナを出す宿など、「飲み」、「打つ」、「買う」と、風紀が乱れはじ
めます。
そんな時にできたのが、浪花講のような旅館組合です。勝負事や
遊女買い、酒盛りしての騒ぎを禁じた規定をつくり、参詣客を会員
制にしてしまいました。
宿屋も各街道ごとに選び出し、信頼のおける店を優良チェーン店
として持約。会員の参詣客は、各講の旅行鑑札を持ち、宿屋には優
良チェーンの印の招牌を掲げ、それを目標に泊まります。
これで物見遊山客をシャットアウト。また悪徳宿屋に泊まらなく
てもすみます。こうして宿屋・旅客の両方が、安心できるというの
で大好評だったという。三都講、東講など同様の講が次々に出現。
明治初期には30あまりの講があったといいます。
やがて、明治の廃仏棄釈の嵐が吹き荒れます。仏と見ればぶっ壊
す、お寺には火をつけて焼失させるとやり放題。こんな時代、まつ
っている神が神仏習合のままの金比羅大権現では、いつ襲撃される
か分かりません。そこで別当の松尾宥暁はいち早く、祭神を「大物
主命」と「崇徳天皇」に変更しました。しかし民衆は相変わらず、
金刀比羅宮は金毘羅サンとして崇めつづけ、祭神とは関係なしに、
金毘羅さまは全国に683社、小祠も入れれば数知れずという隆盛を
みるのでありました。
▼【参考文献】
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)
・『世界大百科事典11』(平凡社)1972年(昭和47)
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