『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第9章 路傍の石碑
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▼09-06「百庚申塔」
【前文】
村はずれでよく見かける石仏に庚申塔があります。これは「かのえ
さる」の日の夜を眠らずに過ごし、健康で長生きしようとする信仰
です。その供養塔がよく道ばたに建っている庚申塔です。この塔が
100個もならんでいるいるのが「百庚申塔」。江戸時代後期、なるべ
く多くの願いを得たいため、たくさんの庚申塔を建てる「百庚申」
が千葉県下総地方で流行したといいます。
▼「百庚申塔」
【本文】
村はずれでよく見かける石仏に庚申塔があります。庚申の文字を刻
んだ塔や、青面金剛(しょうめんこんごう)像を中心にして、たな
びく雲と太陽や月、「三猿」(さんざる、さんえん)を彫ったものな
どもあります。
庚申は、「かのえ(庚)」と「さる(申)」。これは十干(じっかん)
十二支(カレンダーの日にちのところにも記入されている)という
ものの一つだそうです。十干と十二支の組み合わせは60回に一度ま
わってきます。この60日に一度めぐってくる「かのえさる」の日の
夜を眠らずに過ごし、健康で長生きしようとするのが守庚申(しゅ
こうしん)とか、庚申待ちとかいわれる信仰です。
中国の道教に、人間の体には三尸(さんし)の虫がすんでいて害を
与えるという思想があります。三尸とは上尸、中尸、下尸の虫。上
尸は頭に、中尸は腹に、下尸は足にそれぞれすんでいて、人に害を
与えるという。
このやっかいな虫が「かのえさる」の夜、人の寝ている間にひそか
に抜け出し、玉皇天帝(北極星)のところに行き、その人の悪事罪
科を報告。天帝は鬼籍という台帳に書き込み、罪が500条に達する
とその人の死を決めるという。そうはさせまいとするのが庚申待ち
の行事です。
「かのえさる」の夜、お堂に集まり飲んだり食べたりし、一晩中眠
らず、三尸の虫を封じ込めようというわけです。そして庚申塔に彫
ってある「三猿」のように「見ざる、聞かざる、言わざるで頼むよ」
と三尸の虫に祈ります。
庚申待ちの信仰は、年6回の庚申のたびごとに、あるいは初庚申・
終庚申の2回だけ行うところなど地方によってさまざまです。この
眠らずに徹夜することを守庚申(しゅこうしん)といい、平安時代
初期、承和(じょうわ)5(838)年を少しさかのぽるころから行
われたという。その後、守庚申は、宮中や宮廷貴族などが、宴遊を
主に行い、鎌倉時代になると武家たちにも広まっていきます。
この塔が100個もならんで建っているのが「百庚申塔」。10基の青面金
剛像の間に庚申の文字だけの塔が9基ずつはさまったものが9セッ
ト、合わせて100基です。江戸時代後期、なるべく多くの願いを得
たいため、たくさんの庚申塔を建てる「百庚申」が千葉県下総地方
で流行したといいます。
ここ鎌ヶ谷市鎌ヶ谷の天満宮境内にも「百庚申」の塔がならんでい
ます。近郊農業と特産のナシ農家が多いところ。東武野田線、北総
開発鉄道が通じてからは急激に発展、果てしない人口増加のなかに
もこのような塔が大切に保存されています。
また印西市浦辺(うらべ)地区に入ると、ここにも百庚申塔がズラ
ーッとならび人の目を引きます。当地と隣の白井市は広大な山林原
野が残された台地。ネギ、ホウレンソウとのナシ農家が多い地域で
したが、1966年(昭和41)千葉ニュータウンに指定され、大規模開
発で近代的な街なみが出現しました。
1966(平成8)年には市制を施行、印西市になりました。ニュータ
ウンからはずれたとはいえ浦辺地区も大型ダンプが行き交います。
石塔裏の畑にいたおばさんは、いまでも地区の講中の若者が観察に
歩いているとか、学童の通学路のため歩道を造ったなどと話す姿は、
まるで自分のものように自慢げでした。
▼【参考文献】
・「あしなか・255輯」庚申信仰特集(山村民俗の会)
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)
・『日本伝説大系3・南奥羽・越後』(山形・福島・新潟)大迫徳行
ほか(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本の民俗・全47巻』(第一法規出版)昭和46(1971)年〜昭和
50(1975)年
・『日本発見 石仏紀行』(暁教育図書)1980年(昭和55)
・『日本発見・祭り』(暁教育図書)1983年(昭和58)
・『民間信仰辞典』桜井徳太郎編(東京堂出版)1984年(昭和59)
・『目で見る民俗神3』(境と辻の神)萩原秀三郎(東京美術)1988
年(昭和63)
・『柳田國男全集16』ちくま文庫(筑摩書房)1990年(平成2)
・『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)
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