『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神
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▼07-21「実盛(さねもり)神」
【前文】
木地屋の祖神とされる人に惟喬親王がいます。親王は皇位争いに敗
れ出家。読経中にお経の経軸からロクロを思いつきました。ロクロ
師となった従臣の子孫は、木地屋の許可証をもち、フリーパスで全
国どこでも入山できたという。そして祖神、惟喬親王の画像をまつ
り、朝晩、その繁栄を祈ったという。
▼07-21「実盛(さねもり)神」
【本文】
いまは祭りとして、残る程度になってしまいましたが、かつては
「虫送り」という行事が、農村で盛んに行われていました。虫送り
は、わらで作った馬に「サネモリサン」というわら人形をのせて、
たいまつを灯しカネや太鼓を打ちながら、田んぼのあぜ道を練り歩
きました。これは稲の害虫を、村はずれや大きな川まで送り出すと
いう行事です。
サネモリサン(実盛さん)とは平安末期の武士長井斉藤別当実盛
のことだそうです。源氏の家人として源為義に仕えましたが、のち
平家に属し富士川の戦いに参加。1183年(寿永2)平維盛(たい
らのこれもり)に従い、源(木曽)義仲追討のため北陸に出陣しま
した。当時73歳だったという。
実盛は故郷の越前に錦を飾るべく、大将にふさわしい赤地の錦の
直垂(ひたたれ)を着用、老齢を隠すため白髪を黒く染めて奮戦し
ます。加賀の篠原の戦いでは平氏方に利がなく、軍勢はことごとく
敗走します。その中でひとりとどまった別当実盛、源氏方の手塚光
盛と一騎打ち。しかし悲しいかな老齢の身、イネの切り株にけっつ
まづいて無念、光盛に討たれてしまいます。
「洗ッたらとんだばく物手塚取り」とするのは古川柳子。首実検
で実盛の首を洗ったところ、「墨は流れ落ちて、もとの白髪となり
にけり」というわけで、あとで首を見て、その老齢に義仲をビック
リさせたという。その怨念がイナゴなど害虫になって、稲を食い荒
らすというのです。
そんなことから、実盛の霊を供養して田の害虫を追い払います。
虫送りを実盛祭りというところもあります。これは、サノボリがな
まったサナブリ(田植えが終わって田の神を山に昇らせる祭り)と、
「サネモリ」、またイナゴ類のことをいう「ベットウ」と「別当」
のゴロ合わせからきた信仰だろうともいっています。
また、虫送りで焼いた虫を埋めた塚をベットウ塚といいます。そ
れを斉藤別当実盛の塚と勘違いして、各地に実盛伝説が流布したと
いう説もあります。
実盛の奮戦記は、『平家物語』などにも記載されています。木曽
義仲は生誕の翌年、父義賢(よしかた)が、甥の源義平に殺され孤
児になりましたが、危ういところを斉藤別当実盛に助けられ、信濃
木曽谷の土豪中原兼遠にかくまわれたいきさつがあります。
そのため首実検の時、ひと目見て実盛のものとわかりました。し
かし白髪のはずの髪の毛が黒いので不審に思い、水で洗わせて見た
ら白くなりました。武人としてのそのたしなみに、源氏の武将はみ
んな感銘を受けたとあります。
虫送り行事で、田んぼの中を練り歩くときの囃し言葉も「ウン
カの神送れ」(長野県)とか、「なに虫送ればごじりむし送るわ」(新
潟県)、「実盛さんはゴショライ、稲の虫はおともせ」(兵庫県)。「コ
ージさんはど−こまで、西の国の果てまで(徳島県三好郡)」と歌
われます。
また石川県の金沢平野では、たいまつの火の粉を散らして、「送
るら送るら」などなどと行進するという。さらにはわら人形の胴
体には、食べ物を入れる箇所をつくり、また害虫を草の葉につつみ
手に持たせるところもあるそうです。
またまた、サネモリとは、女性のナニのナニが盛り上がったさま
をいうのだとの説もあります。サネモリ神は馬に乗ります。馬は男
性の雄大なモノを意味します。このふたつを合わせて、イネの豊作
(生産)を祈り予呪するのだという説です。いやはやとんだ話にな
ってしまいました。
▼【参考文献】
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本の民俗23・愛知』磯貝勇ほか(第一法規出版)1973年(昭
和48)
・『日本の民俗42・長崎』山口麻太郎(第一法規出版)1972年(昭
和47)
・『目で見る民俗神・3』(境と辻の神)萩原秀三郎(東京美術)1
988年(昭和63)
・『柳田國男全集11』ちくま文庫(筑摩書房)1990年(平成2)
・『柳田國男全集16』ちくま文庫(筑摩書房)1990年(平成2)
・『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)
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