『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神
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▼07-20「安徳天皇」
【本文】
二位尼に抱かれた幼い安徳天皇は、壇ノ浦の戦いで平家一門とと
もに入水したことになっています。しかし、死んだと見せかけて、
実は生きていてひそかに壇ノ浦から脱出し、四国から中国、九州、
対馬、硫黄島にまで訪れているという伝説があります。
その根拠は『平家物語』巻十一(先帝身投)にあるといいます。
それには、身を投げたあと、はじめの記述は、「御ぐしくろうゆら
ゆらとして、御せなかすぎさせ給へり」とあります。ところがその
あと、「山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給ひて」となっていて、明
らかに、安徳帝の描写に矛盾があり、同一人物とはとても思えなく、
替え玉説が生まれる原因になっています。
安徳天皇にはこんな伝説もあります。『太平記』(巻第二十五)に、
「素盞烏尊(そさのおのみこと)の古へ、簸(ひ)の川上にて切ら
れし八岐蛇(やまたのおろち)元暦の比(ころ)、安徳天皇となっ
て、この宝剣を執(と)って竜宮城へ還(かえ)り給ひぬ」と不思
議なことが書かれています。
さてよく見るものに水天宮があります。その祭神は、源平合戦壇
ノ浦の戦いで、入水した安徳天皇とその母建礼門院(高倉平中宮)
とされています。安徳の安は安産の安、そこで「安産の神」になっ
ています。
全国の水天宮の元じめは福岡県久留米市瀬下町のもの。壇ノ浦の
戦いのあと、母の建礼門院に仕えていた按察使伊勢局(あぜちいせ
のつぼね)が、安徳天皇の霊を奉じて瀬下町まで逃れてきて、鎮め
まつったのが水天宮の最初だそうです。
また東京・日本橋の水天宮は1818年(文政元年)、三田赤羽の有
馬藩の邸内に遙拝所として勧請、明治5年にいまの所に移したもの
だそうです。
▼【参考文献】
・『太平記』巻第二十五:岩波文庫『太平記四』兵藤裕己校注(岩
波書店)2016年(平成28)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)
・『平家物語』:「平家物語」巻十一
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