『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神
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▼07-18「物くさ太郎神」
【前文】
物くさ太郎は物草、物臭、物苦などとも書かれます。この男が尋常
でない不精者。ただ寝ているばかりで人が恵んでくれた餅を取りそ
こねても、拾いにいくのが面倒で3日も人が来るのを待ち取っても
らうありさま。通りかかった地頭職が妙に感心し村人に太郎を養う
ように命じます。
▼07-18「物くさ太郎神」
【本文】
物くさ太郎は、室町時代の物語。「御伽草子」に「東山道陸奥(と
うせんどうみちのく)の末、信濃国十郡のその内に、筑摩郡(つか
まのこほり)あたらしの郷といふ所に、不思議の男一人侍りける、
その名をものくさ太郎ひぢかすと申し候ふ」。この男が尋常でない
不精者。ただ寝ているばかりで人が恵んでくれた餅を取りそこねて
も、拾いにいくのが面倒で3日も人が来るのを待ち取ってもらうあ
りさま。通りかかった地頭職が妙に感心し村人に太郎を養うように
命じます。
ある時、京から村に長夫(ながぶ)(公用に長期的な労役を課す
こと)がかかりました。村人はそれを太郎に押しつけ京に上らせま
した。京に行った太郎はまめまめしく働き、長い夫役も終えました。
帰京の際、妻にする人を探そうと清水寺に行き、貴族の美女を見初
め、言い寄って連歌のかけ合いをします。女も太郎が見かけによら
ず和歌の道に通じているのに心を許し結婚しました。
やがて太郎が仁明天皇の第2皇子の深草天皇の子で二位の中将と
いう人の子(つまり仁明天皇の3代の孫)であることが分かりまし
た。この二位の中将がかつて信濃に流された時、善光寺の如来から
授かった申し子が太郎だったのです。帝は太郎を信濃の中将に任じ
甲斐、信濃の国を与えました。こうして帰国した太郎は百二十歳ま
で生き、死後はおたがの大明神、妻はあさひ(あさい・朝日)の権
現となってあらわれ、長生きの神としてまつられています。
おたがの大明神の「おたが」とは、愛宕(あたご)とか御多賀(お
たが)のことだといわれてきました。松本市出川町に、長生きにご
利益のある多賀神社というのがあり大明神はここのこととの説があ
ります。しかし普通は「おたが」は穂高の訛りだというのが一般的
な説になっています。穂高神社は長野県穂高町にあり、安曇一族の
祖神をまつってあります。
江戸時代の松本藩の総合書「信府統記(しんぷとうき)」に穂高
神社は「文徳天皇ノ御宇、信濃中将ト云ヒシ人ニ勅シテ、当社ヲ造
営セシメラル。…此中将ハ仁明天皇ノ三代ノ孫ナリ。俗ニ物苦(モ
ノグサ)太郎ト称ス。今当社ノ内ニ若宮大明神ノ宮アリ、此中将ヲ
祝ヒシトナリ、中将ハ其比当国ノ国司ニヤ」とあり、いまでも穂高
神社を物ぐさ太郎の宮といい、太郎の塚もあります。
北アルプス奥穂高山頂には穂高町と上高地にある穂高神社(穂高
大明神)の山宮の祠が建っています。まつる神は綿津見命(わたつ
みのみこと)とその子穂高見命(ほたかみのみこと)、瓊瓊杵尊(に
にぎのみこと)となっていますが、ちまたではもっぱらあの物草太
郎をまつっていることになっています。
▼【参考文献】
・『日本の民俗20・長野』向山雅重(第一法規)1975年(昭和50)
・『御伽草子集』日本古典文学全集(校注・訳大島建彦)(小学館)
・『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『山の伝説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930年(昭
和5)
・『柳田国男全集・10』柳田國男(ちくま文庫)(筑摩書店)
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