『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神

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▼07-17「義仲神」

【略文】

義仲神は木曽義仲のこと。義仲をまつる寺社は各地にあり、長野県
木曽福島町に興禅寺、滋賀県大津市の義仲寺などもあります。備中
水島で平氏に敗れ帰京後、孤立した義仲は、頼朝代官として上洛
した源義経・範頼の軍に敗れ、都を逃れますが近江国琵琶湖畔の
粟津で敗死しました。

▼「義仲神」

【本文】
 義仲神は木曽義仲のこと。突然ですが中央アルプス空木岳の北
側主稜に「木曽殿越」という鞍部があります。ここは標高2480m、
北アルプス立山の一ノ越、槍ヶ岳西鎌尾根の硫黄乗越(のっこし)
についで3番めに高い乗越だそうです。源平の合戦の時、木曽冠
者(木曽殿)・源義仲はいとこの源頼朝の旗揚げにこたえ挙兵しま
した。

 平安末期の治承4(1180)年9月、義仲は大軍を従え、馬もろ
ともにこの乗越から太田切本谷を下り、伊那谷に侵入していった
というのです。一方、伊那の平家方・小笠原平五頼直の軍は義仲
の兵の勢いに恐れをなし逃亡した…ということです。(『吾妻鏡・
巻一)。以後、ここを木曽の殿越と呼んだといいます。

 木曽義仲(1154〜84)とは源義仲のことだそうです。平安時代
の武将で、通称木曽冠者とも。義仲をまつる寺社は各地にあり、群
馬県北橘村の木曽三社神社、長野県木曽福島町に興禅寺、滋賀県大
津市の義仲寺などもあります。父は源為義(八幡太郎義家の孫)の
次男義賢(よしかた)という人らしい。

 義仲が生まれた翌年、父は甥である源義平との戦いで殺され、孤
児になりましたが、畠山重能(しげよし)、斉藤別当実盛(さねも
り)らの計らいで、義仲の乳母の夫である信濃の土豪中原兼遠(か
ねとお)のもとにかくまわれ、成長しました。木曽の山中で成人
した義仲は27歳の時(1180年・治承4)、以仁王(もちひとおう)
の令旨(りょうじ)を受けて木曽に挙兵、先述の中央アルプス木
曽殿越を越えて小笠原頼直を破り、さらに上野(こうずけ・群馬
県)に進出しました。

 そこからは信濃から越後に進み、1183年(寿永2)、越中・加賀
国砺波山の倶利伽羅峠では、4500頭の牛の角に松明を燃やして、
平家の陣に追い入れ、平維盛らの大軍を大破して近江に入り、平
氏が逃げたあとの京に入りました。直ちに後白河法皇から平氏追
討の命を受けて、無位無冠から従五位下左馬頭(さまのかみ)越
後守、ついで伊予守と急出世したのでした。

 しかし、兵糧不足や軍兵の無秩序、それに公家一流の見下し方
で、礼儀作法を心得ない義仲に都人は冷たくあたりました。かく
て院をはじめ、都人の心をつかみかねた義仲は、ともに戦ってきた
源行家(ゆきいえ)とも対立して、備中(岡山県)水島(いまの岡
山県倉敷市玉島)で平氏に敗れます。帰京してみると、法皇は頼
朝に「寿永二年一〇月宣旨」を与え、頼朝との接近を策略してい
ます。

 孤立した義仲は11月にクーデターを敢行、翌年1月、自ら従四
位下征夷大将軍(※せいいたいしょうぐん)となって、「旭日将軍」
(ママ)と称したが、頼朝代官として上洛した源義経・範頼の軍に敗
れてしまいました。

 都を逃れた義仲は、乳母子の今井四郎兼平と打出の浜で行き会い、
最愛の巴御前を無理に去らせます。兼平と主従2人になった義仲は、
「日来(ひごろ)は何ともおぼえぬ鎧が、けふは重うなッたるぞや」、
といったという。こうして義仲は北陸に落ちる途中近江国琵琶湖
畔の粟津で敗死しました。

 木曾山中育ちの、無骨で野卑なふるまい、もの言いから、京都の人心
や武士社会にも受け入れられず、没落していった義仲。松尾芭蕉は、こ
んな義仲をこよなく愛し、滋賀県大津市の義仲寺には芭蕉の墓もありま
す。

▼【参考文献】
・『吾妻鏡』龍 粛訳注(岩波文庫)1997(平成9)年
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成2)

 

 

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