『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神
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▼07-16「義経神」
【前文】
義経は鞍馬山が有名です。その後東北の衣川の館で自害。ところが
それは見せかけで、本当は北海道から樺太を経て蒙古に渡り、モン
ゴル人を征服。大蒙古帝国の初代皇帝、ジンギスカンと名のったと
いうのです。まさに神様です。
▼07-16「義経神」
【本文】
判官贔屓(びいき)という言葉は、兄の源頼朝にねたまれて滅び
た義経に、人々が同情したことからきているという。源義経(1159
〜89)は平安末期から鎌倉初期の武将。源義朝の九男として生ま
れ、幼名は牛若丸、遮那王丸また九郎。検非違使に任ぜられてから
九郎判官(くろうほうがん)と号しました。
義経といえば鞍馬山が有名です。父の義朝が平治の乱で敗死後、
捕らえますが助けられ鞍馬寺に入れられます。義経は、夜になると
僧正ヶ谷で武芸に励み、山の大天狗の弟子として兵法を授け、小天
狗らと立ち会わせながら、腕を磨かせたといいます。やがて五条大
橋で弁慶との対決になるわけですが、ふつうは、弁慶が太刀千本を
奪う悲願を立てることになっています。ところが逆に「武蔵坊弁慶
絵巻」などの本には、悲願を立てたのは義経だとしているから面白
いものです。
そんなこんなで家来もでき、奥州の藤原秀衡のところに身を寄せ
ます。そして兄頼朝の挙兵。京都で木曽義仲を討ち、平氏軍を一ノ
谷に破り、英雄になった義経も後白河上皇の頼朝・義経の間を引き
離そうとする策略にのせられ、頼朝の認可を得ずに検非違使・左衛
門小尉になり、頼朝の不興を買い疎外されます。
追いつめられた義経は、叔父の源行家と手を結んで反逆を企てま
したが失敗。やがてふたたび奥州の藤原秀衡のもとに逃れます。し
かし秀衡が死んだ後、その子泰衡は頼朝の圧迫に耐えきれず、1189
年義経を衣川の館に襲撃し自害させたことになっています。
ところがそれは見せかけで、本当は義経は生きていて、東北・北
海道から樺太を経て蒙古に渡り、モンゴル人を征服。大蒙古帝国を
建設して初代皇帝になり、ジンギスカンと名のったというのですか
ら話がでかい。その証拠に、各地に義経や弁慶にまつわる地名が転
々とあるのです。
岩手県江刺市にある岩谷堂は、自刃したと見せかけて、北上川対
岸の地で従臣たちが逃げ延びてくるのを待ったところだという。ま
た、山形県真室川町に弁慶岩という岩があります。青森県三厩町(み
んまやまち)三厩には竜馬山義経寺、厩岩(うまやいわ)、義経持
仏の聖観音像があり、悪天候で海を渡れなかった義経が、岩の上で
三日三晩聖観音に祈ったところだという。そして白髪の翁が現れ3
匹の竜馬をくれたので、聖観音を厩石の上に安置して、主従ともに
竜馬に乗って蝦夷ヶ島に渡って行ったといいます。
北海道松前町松城光善寺にも義経欣求院、義経石があります。こ
れは義経がこの石に座って、無事海を渡れたことを欣(よろこ)ん
だところといいます。さらに樺太から満州を経由、蒙古に行く間に
も源九郎判官義経や、武蔵坊弁慶に関連づけて読める地名などが数
多く残っています。また香川県香川町東谷や、北海道平取町の義経
神社、神奈川県藤沢市藤沢の白旗神社などは義経をまつってありま
す。
▼【参考文献】
・『甲子夜話』(4)松浦靜山著:東洋文庫「甲子夜話・全6巻」校
訂・中村幸彦ほか(平凡社)1989年(昭和64)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本神話伝説総覧』(歴史読本特別増刊)(新人物往来社)1992
年(平成4)
・『日本伝説大系・1』(北海道・北奥羽)宮田登ほか(みずうみ書
房)1985年(昭和60)
・『日本伝説大系3・南奥羽・越後』(山形・福島・新潟)大迫徳行
ほか(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『ふるさとの伝説・日本発見』(暁教育図書)1982年(昭和57)
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