『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神
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▼07-13「都良香」(みやこのよしか)
【本文】
都良香(みやこのよしか)(834〜897)は、平安時代初期の漢詩
人で、漢学者でもあります。幼少の時から仙道に打ちこんでおり、
日本の37人の仙人を紹介した『本朝神仙伝』では、24番目の仙人
に挙げられています。
また良香が富士山について記した「富士山記」は有名で、当時の
人たちが、富士山についてどんな考えを持っていたかを知るのに、
貴重な資料になっています。
そもそも富士山に最初に登ったのはだれか。神話伝説はいろいろ
ありますが、記録として初めては「富士山記」に書かれてあるもの
が最初です。これには登った人でなければ分からない地形や、火口
内にある虎の形をした虎岩のことまで書いてあり、富士登山者第一
号は、都良香に話した人だろうといわれています。
都良香は、はじめ名を、言道(ことみち)といっていましたが、
貞観14年(872)、良香と改めました。都良香には、神異にかかわ
る逸話が多く、ある時、誘われて琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に
行き、竹生島明神社の前で目の前の絶景に見ほれ、「三千世界眼前
尽」と吟じると、神殿が鳴動して、社の中から気高い神の声が響き、
「十二因縁心裏空」という対句がつけられました。一緒にいた人た
ちは目の当たりに聞く、神の声にみなひれ伏したという。また、羅
生門の鬼が、良香の一句に感心した話などもあり、詩作にも優れた
才能があったことを伝えています。
『本朝神仙伝』によれば、都良香は菅原道真の先輩で、道真が対
策の試験を受ける時、良香が試験官になったくらいでした。しかし、
官界に入ってからは、道真の昇進が抜群に早く、あれよあれよと良
香を追い抜いてしまいました。都良香は面白くありません。
そんな良香のエピソードが『太平記』に載っています。対策(た
いさく)の試験に合格した菅原道真に対して、学問には優れていて
も弓道うまくあるまいから、矢を射させてあざ笑ってやろうと思い
ました。ある時、良香の家で酒宴がありました。良香は、宴に同席
していた道真のそばに、弓矢を置いて矢を射るよう無理強いしまし
た。
でも菅原道真の矢は「矢所(やつぼ)一寸も除(の)かず、五度
の十(つづ)をし給ひければ、都良香、感に堪へかねて、自ら下り
て御手を引き、酒宴数刻に及んで、様々の引き出物をぞせられける」
だったという。道真はすべて命中させてしまったので、良香は、自
ら道真のところへ行き手を差しのべたという。
そんなこんなで都良香は、怒って官職を捨てて山に入ってしまい
ました。そして「仙を求め法を修し、大峰(奈良吉野大峰山)に通
うこと三ヶ度、終わるところを知らず」と仙人になってしまったと
いうことです。
それから百余年あと、ある人が大峰山に詣でた時、岩窟の中で行
をしている人を見つけました。名前を聞くと「われは都良香なり」
という。様子を見ると「顔の色変わらず、猶し壮んなる年の如くな
りきといへり」だったとあります。しかし、記録では大内記、文章
博士(もんじょうはかせ)など歴任したあと従五位下で元慶3年
(879)没となっています。
▼【参考文献】
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『太平記(二)』兵藤裕己校注(岩波文庫)2017年(平成29)
・『日本大百科全書・22』(小学館)1990年(平成2)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『富士山記』(都良香著):「本朝文粹註釋」「巻第12・富士山記」
柿村重松註(注釈あり)(内外出版)1992年(平成4)
・『本朝神仙伝』大江匡房:日本古典全書「古本説話集」(p277・「本
朝神仙伝」)川口久雄(朝日新聞社)(昭和46年)
・『柳田國男全集・8』柳田國男(ちくま文庫・筑摩書房)1990年
(平成2)
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