『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神

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▼07-11「普寛行者」

【前文】

木曽御嶽山の王滝口を開いた普寛行者は、関東一円と長野県、愛
知県、岐阜県、山梨県などの各地に御嶽講を組織しました。その
講中が建てた「木曽御嶽講碑」が、御嶽山の山内や各地の御嶽神
社、その他の神社の境内で見受けられます。埼玉県大滝村の普寛
神社は普寛行者をまつっています。

▼07-11「普寛行者」

【本文】
 埼玉県大滝村というところに普寛神社があります。ここは木曽御
嶽山(3067m)を霊山とあがめる、御嶽教の教祖である普寛行者を
まつっています。普寛行者は、高山植物のコマクサからつくる腹
痛の霊薬「木曽百草」の創始者でもあります。

 この神社の奥ノ院は神社背後の秩父御岳山の山頂にあります。
山頂には祠があって、そのわきには、釣り鐘があって、時々ハイカ
ーがつく鐘の音が響きます。普寛行者は江戸中期の修験者で、長
野県の木曽の御嶽山の王滝口を開いた人としても知られます。

 普寛行者は普寛神社のある大滝村落合の生まれ。幼名を木村好
八丸といい、三峰山に登って剣道の修行をしていました。30歳で
伯父法性院白忍を頼って江戸に出てのち、八丁堀同心浅見家に婿
入りし、浅見好八と名のります。好八は剣道を修行、町道場を開
くまでになりました。彼は門弟たちを指導するかたわら、時々伯
父の白忍の元へ通い、教典や書籍を借りて読むことが多かったと
いいます。

 好八は毎月のように浅草観音や、上野の寛永寺を参拝していま
したが、1764年(宝暦14)4月11日帰宅の途中、突然、霊感を
得て修験者になることを決意します。伯父の修験者法性院伯忍の
もとで、出家して修験道を学びました。

 その後ふたたび故郷に帰り、三峰山の日照僧正のもとで、天台
密教をみっちりと修行。奥義をきわめて、名前を正本山本明院普
寛と改めました。

 さらには、「日本六十余州」の遍歴を思い立ち、三峰山の奥ノ院
から武甲山、上州武尊山、越後八海山、木曽御嶽山王滝口などを
開山、三笠山、筑波山、羽黒山、戸隠山、立山、白山、阿蘇山、
国見岳、桜島などにまで足をのばしていきます。

 こうして全国の霊山を巡歴し、ついに52歳の時、伝燈大阿闍梨
(あじゃり)というくらいにまで登りつめました。普寛行者は1801
(享和元)年に入寂するまで、江戸、武州、上州などをまわり、
法話などをしたという。

 群馬県上州武尊沖武尊という峰の山頂には「御嶽山大神」の石
碑がありますが、これも普寛行者にちなんでいます。また沖武尊
南東にある剣ヶ峰には、普寛行者の霊神碑もまつってあります。
これは修行を積んだ行者が亡くなった後、霊神を名のり碑を建て
る「御嶽講」独特のものだそうです。その他普寛行者の名は各地
の山々でよく耳にします。

▼【参考文献】
・『奥秩父の伝説と史話』太田巌著(さきたま出版会)1983年(昭
和58)

 

 

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