『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神

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▼07-09「弓削道鏡」

【前文】

奈良時代後期の僧で、女帝孝謙天皇に寵愛された弓削道鏡も、神と
してまつられています。熊本県には、上弓削神社、下弓削神社があ
り、浮気封じの祈願のために訪れる人が多いという。また福岡県に
は「弓削神社」祭神は道鏡だという。

▼07-09「弓削道鏡」

【本文】

 奈良時代後期の僧で、女帝孝謙天皇に寵愛された弓削道鏡(ゆげ
のどうきょう)も、神としてまつられています。熊本県には、上弓
削神社、下弓削神社があり、浮気封じの祈願のために訪れる人が多
いという。また福岡県には「弓削神社」。祭神は道鏡だという。

 愛媛県にも「弓削神社」があって、海に面して鳥居があり、浜を
「法皇ヶ原」といいます。また孝謙天皇とセットでまつられている
神社や塚・祠は、全国各地合わせると70数ヶ所にのぼります。

 このふたりは山にも関係しています。南アルプス北部の鳳凰三山
はひっくるめて鳳凰山とも呼んでいます。ここもこのふたりに関係
のある山です。山名の由来に、奈良法皇からの法皇(鳳凰)山説が
あります。

 昔、奈良法皇(孝謙上皇とも弓削道鏡ともいう)が病気治療のた
め、鳳凰山のふもと山梨県早川町奈良田地区へ滞在し、この山に登
り安産を祈って地蔵を安置したというのです。

 江戸時代成立の『甲斐名勝誌』萩原元克編(巻の四・鳳凰山)に
も、「山上に黄金の衣冠をつけた3寸ばかり鳳凰権現像がある。こ
れは奈良の法皇をかたどっている。昔、法皇がこの山に登り都をし
のんだので法皇ヶ岳と呼ぶ。奈良田に住んでいた跡がいまも残って
いる」というようなことが書かれています。これが弓削道鏡だとい
うのです。

 早川町奈良田の伝説によると、孝謙天皇が病気になった時、神仏
のお告げで「甲斐の国」に霊湯ありと知り、奈良吉野を出て、当地
に仮の宮殿を造り、療養したという。奈良田には、「奈良王様」と
呼ばれる伝説が、たくさん残っていて、孝謙天皇と道鏡に関する遺
跡まであります。

 また、孝謙天皇・弓削道鏡のふたりが、すっかり当地を気に入り、
故郷にちなみ、「ここも奈良だ」といったので、奈良田の地名がで
きたともいわれます。

 弓削道鏡は、河内国若江郡弓削郷(いまの東大阪市若江)の出身。
姓は弓削(ゆげの)の連(むらじ)。出生年月不明。はじめ葛城山
にこもって苦行したという。修行中、行がうまくいかないので、仏
像に尿をかけたところ、蜂が飛んできて急所を刺され腫れあがり、
そのままになってしまったという話もあります。

 747年(天平19)、東大寺写経所の請経使となり、丹沢大山を開山
した良弁僧正の弟子になりました。762年(天平宝字6)、近江(滋
賀県)保良宮(ほらのみや)にいた孝謙女帝が病気になり、道鏡が
介護。宿曜秘法(すくようひほう)という呪法を使い、病気を治し
てしまいました。それがきっかけになり、女帝の寵愛を受けるよう
になったのです。

 やがて政治的な力を持つようになり、766年(天平神護2)には
法王という、天皇に準ずる人臣最高の地位に、昇りつめました。そ
して『続日本紀』(巻二十九)という本には、「法王道鏡、西の前殿
に居す」とあり、孝謙女帝と夫婦同然の生活までしていたようです。

 そのうち、「道鏡を天位に即(つ)かしめば天下泰平ならん」と、
宇佐八幡のご神託だといって、道鏡を皇位につけようとする動きが
おきました。

 これは道鏡の弟たちの共謀でしたが、企ては見破られ、白壁王(し
らかべ・光仁天皇)により、道鏡は下野薬師寺別当に追放。2年後
の772年(宝亀3)、そこで道鏡は死去。そしてただの庶民として葬
られたとのことです。

 法王になった道鏡も、最期は地位を全部はく奪されてしまったわ
けです。なんとも壮烈な人生でした。古川柳に「道鏡は坐るとひざ
が三つでき」とあり、その巨根説はあまりにも有名。そんなところ
から道鏡は金精神とも習合しています。蜂の一刺しが人生を変えて
しまったのです。

▼【参考文献】
・『続日本紀・四』青木和夫ほか校注「新日本古典文学大系・15」
岩波書店(1989年)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成2)
・『日本霊異記』:日本古典文学全集・第6巻「日本霊異記」中田祝
夫校注・訳(小学館)1993年(平成5)
・『仏教の知識百科』(主婦と生活社)1986年(昭和61)

 

 

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