『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神

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▼07-08「蜂子王子(能除仙)」

【本文】
 東北の出羽三山を開いたとされる蜂子王子(はちこのみこ)も謎
の人物です。蜂子王子といえば羽黒山開山堂などにあるように、異
様に大きい目玉、目尻は髪の毛の生え際まで延び、ひときわ長い鼻、
耳まで裂けた口に赤黒い顔と奇怪な姿です。

 その容貌からまるで天狗のようにも見えます。事実、天狗研究者
では羽黒山開山天狗とし、天狗界の取締役に位置づけています。ま
た別名は能除仙ですから当然仙人でもあります。さらに口の裂け方
から山の神ともされるオオカミの擬人化ではないかとする人もいま
す。

 蜂子王子は32代崇峻(すしゅん)天皇(即位・587〜592年)
の第一王子で、聖徳太子の従兄にあたります。しかし、崇峻天皇は
臣下ある蘇我馬子との対立で暗殺されてしまい、蜂子王子も命をね
らわれる立場です。王子は従兄の聖徳太子の勧めで仏門に入り、法
名を弘海、一名参払理(さんふり)大臣と名乗って飛鳥の地を逃れ
旅に出ます。

 593年(推古天皇元)、出羽国由良(山形県鶴岡市由良)に到着、
翼が八尺(2.4m)もある3本足の大きなカラスに案内され羽黒の
阿古屋(阿古谷)にやってきます。王子はここで観世音菩薩を発見、
カラスにちなんで羽黒山と名づけそこを修行の地と決め、激しい修
行を続けます。

 やがて羽黒の大神が出現、さらに苦行を続けると、大神のお告げ
がありました。その年の秋、月山に登り月山大神を拝します。その
後湯殿山にも登り、湯殿山大神の霊を受け、出羽三山を開いたとさ
れています。王子はふだんは、人と一切話しもせずに修業し、何か
いわれてもいつも「般若心経」の章句の「能除一切苦、能除一切空」
を唱えるかり。そのため人から能除仙人と呼ばれたという。以上は
江戸中期の『羽黒月山湯殿三山雅集』に載っている伝説です。

 ところが参払理(さんふり)大臣と、聖徳太子の弟子の弘海、そ
して能除仙人(大士)の3人は別人だと記載している本が多いある
のです。能除は、以前羽黒山の開山として開山堂にまつられていた
行者で、王子より後の代の人で、弘海や参払理大臣はさらに後代の
人だというのです。

 羽黒山の初期のころは、能除大士を開山として、蜂子王子のこと
はいわれなかったという。それがいつのころからか、「能除仙人」
イコール「蜂子王子」としてまつられはじめ、能除堂も単に開山堂
または蜂子神社と呼ばれるようになっています。

 出羽三山神社入り口の左側には蜂子王子のがあります。ここは、
東北唯一の皇族の墓であることから、いまも時どき、皇族の参拝が
あるそうです。蜂子王子は1823(文政6)年、朝廷から「出羽三
山開基照見大菩薩」の称号も贈られています。

 なお、先の『羽黒月山湯殿三山雅集』では、蜂子王子は崇峻帝の
第一王子ではなく、第3王子だとし、一名参払理といい、父が殺さ
れる前から顔貌が醜怪だったために、日本海浜に追放されましたが、
王子に出家の意思が深かったので、聖徳太子を師として「弘海」と
いう法名を授けられたとあります。舒明天皇13(641)、能除(の
うじょ)は自像を彫って、弟子の弘俊に授け、昇天したということ
です。91歳だったという。

▼【参考文献】
・『山岳宗教史研究叢書5・出羽三山と東北修験の研究』戸川安章
編(名著出版)1975年(昭和50)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『羽黒月山湯殿三山雅集』(野衲東水選)宝永7年(1710)成立
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・「歴史と旅」臨時増刊号(秋田書店)1994年(平成6)

 

 

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