『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神

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▼07-07「為朝神」

【本文】
 JR中央線の初狩駅から右手に三つのピークをもつ滝子山(1590
m)が目立ちはじめます。その北側直下に鎮西ヶ池という池があり
ます。そばに白縫神社があり鳥居の向こう側に賽銭箱を前にした
祠があります。鎮西池というとおりここは鎮西八郎源為朝にゆか
りのあるところ。

 父に九州へ追われた為朝がのち、保元の乱に敗れ伊豆大島に配
流されます。その為朝がひそかに伊豆に上陸しここまでやってき
たというのです。また一説には、大島の為朝を慕って九州での妻
・白縫姫(しらぬいひめ)が子の為若を連れて訪ねきて、この池
のほとりに庵を結んで3ヶ月ほど住んだとされます。

 ここでの生活物資は、西麓の田野地区から運んだといわれ、「米
背負の辻」と呼ばれる所や馬の世話をした「御馬冷やし場」、「菜
畑」という名の所もあります。その後里に降りた東麓の恵能野(え
のうの)地区には為朝の末裔といわれる人もいて、白縫姫や為若
などを祭ってある為朝大神の祠もあります。

 鎮西ヶ池から白縫姫、またはその侍女のものらしい古い鏡が出
てきて大騒ぎになったこともあったという。干ばつの時はこの鏡
を水に浸して雨乞いをするとか。「歴史は昔鎌倉の 保元の乱に負
い追われ 逃れし人ぞ為朝と 白縫姫は幼子 隠れて甲斐の滝子山
……」。山麓にはこんな歌も伝わっています。

 源為朝は平安末期の武将で父は源為義でその八男、幼少のころか
ら大変な乱暴者。もてあました為義は、為朝が13歳の時、鎮西(九
州)に追放します。持ち前の猛威さで当地の菊池氏を味方につけ、
3年もしないうちに九州全域を統治下に治め、勝手なふるまいをし
ていました。この目に余る狼藉ぶりに九州の豪族たちが訴え出まし
た。

 朝廷は為朝に召還の命を出しますが応じないため、父為義の判官
の官職を取り上げます。さらに翌年、太宰府に対し以後為朝に味方
するものがでないようにとの勅が下されした。為朝は仕方なく召還
に応じて上洛しましたが、折りもおり、保元の乱(1156年)が勃
発しました。

 ほとんどの源氏の郎党は、後白河天皇方についたのに対し、為朝
は父為義とともに崇徳上皇方につきました。父為義が為朝を代官に
するよう推薦した時の紹介文に、為朝は身長7尺(2.12m)を超え
(普通の人より2〜3尺高い)、左手が右手より4寸も長く強弓を
簡単に引くなどとあります。為朝は先手をうって夜討ちを進言しま
すが取り上げられず、逆に天皇方の夜討ちにあいあっけなく敗退、
父為義は死罪に処せられてしまいました。

 為朝は近江(滋賀県)まで逃れましたが捕らえられ、両肩の腱を
抜かれて伊豆大島に流されます。大島についてからも為朝はわがも
の顔で、次第に大島から近くの島々を自分の配下にするような勢力
になっていきます。朝廷も放っておけず、狩野介茂光を為朝追討に
向かわせます。押し寄せる大軍に、為朝はもはやこれまでと自殺。
首は京に送られて獄門にかけられたということです。

 しかし、自殺したのは偽物で、本物の為朝は伊豆の大島をこっそ
りと抜けだして、九州に行き、勢力を盛り返し清盛討伐をねらい、
船で東上。しかし途中台風にあい、琉球国に漂着してしまいました。
琉球はおりから内乱のまっ最中、為朝はこれを鎮めるなど大活躍し
たというのです。のち、為朝が昇天すると息子舜天丸(すてまる)
が琉球の国王になり、為朝は琉球王朝の祖となったとしています。

 伊豆大島で為朝が悪魔を払いまつった為朝の木像が疱瘡のたたり
をするというので、疱瘡神にもなっています。為朝神社は、伊豆大
島や、神奈川県横須賀市、山梨県神山町などにあります。

▼【参考文献】
・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11年):大日本
地誌大系45『甲斐国志2』佐藤八郎ほか校訂(雄山閣)1982年(昭
和57)
・『角川日本地名大辞典19・山梨』竹内理三編(角川書店)1991年
(平成3)
・『日本大百科全書22』(小学館)1990年(平成2)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本の神々・多彩な民俗神たち』戸部民夫(新紀元社)1998年
(平成10)
・『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)

 

 

 

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