『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神
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▼07-06「徐福と不老長寿薬」
【略文】
不老長寿の薬は日本の蓬莱山というところにあるという。「仙薬を
探せ」。紀元前218年(秦の始皇帝28)、皇帝の命を受けた徐福の船
は日本に向けて出帆。海上から霊峰にふさわしい富士山を見つけて
登り探しましたが、おしくも途中で他界したという。不老不死の仙
薬というのは高山植物のコケモモのことらしいという
▼徐福と不老長寿薬
【本文】
その昔、中国秦の始皇帝の命令で、徐福という人が不老不死の仙
薬を探しに日本にきたという話は有名で、富士山はじめ国内の各地
に伝承が残っています。
徐福は紀元前3世紀ころの中国の仙術師で、中国司馬遷の『史記』
では、徐市(じょふつ)といっているそうです。中国は秦の始皇帝
が、中国を統一し、また万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知
られる秦始皇帝陵を建設、鼻息の荒い時代でした。
不老長寿の薬草が東海の三神山(蓬莱山、方丈、瀛洲(えいしゅ
う)というところにあるという。そんな話を聞いた始皇帝は早速、
徐福(徐市ともいった)という仙術士を呼びつけて、その薬草を探
よう命じました。
徐福は日ごろから、国中の美女を集めて享楽三昧の始皇帝の姿を
見て、この国家も長くはないと考えていました。そこで徐福は渡り
に船とばかり、童男・童女や一族など1千人もの人と、始皇帝から
預かった金銀財貨を積み込んで、東海の三神山に移り住む覚悟で出
帆しました。(中国の『史記』や『漢書』による)。紀元前218年(秦
の始皇帝28)のことでした。
船は東へ東へと進み月日は過ぎていきます。そして3年目、船上
から雪をいただいた霊峰にふさわしい富士山を発見しました。あれ
は三神山の一つ蓬莱山に違いない。すぐに上陸しましたが霊峰は手
前の山に隠れて見えません。それぞれに手分けして探すうち、その
うちの一組が峰に雪をいただいた霊峰にふさわしい山(富士山)を
発見したという。
こんどこそ蓬莱山に違いない。徐福は富士山(不死山)に登り、
あちこち仙薬を探していましたが、悲しいかな、徐福は志なかばで
他界してしまったという。しかし徐福の亡きがらは3羽の鶴となっ
て舞いあがったといい伝えます。徐福の墓といわれるものが河口湖
にあり、富士吉田市には徐福碑や、徐福の鶴にちなんだ鶴塚などが
たくさんあります。
徐福が探しあぐねた仙薬の薬草というのは何あろう、高山植物の
コケモモのことともされています。室町時代、富士講で有名な、修
行者の角行(かくぎょう)が、ふもとの洞くつで千日修行をしてい
た時、猿が持ってきたコケモモを食べて大いに力を得て、大願成就
したという伝説もあります。
このようなことからコケモモは、薬種として昔から珍重されてい
たそうです。また、紀州熊野一帯には徐福の遺跡といわれる祠や塚
があちこちにあります。
そのひとつ、和歌山県新宮駅近くの徐福公園には、徐福の墓や殉
死したという7人の重臣の墓がならんでおり、中国からの観光客が
たくさん訪れています。その近くにある阿須賀神社は、徐福の上陸
地とされ、記念碑が建てられ、また社殿背後の山が蓬莱山だという
ことになっています。
さらに三重県熊野市波田須はもと「秦住」と書かれており徐福の
上陸地点だそうです。那智から産出する紙は徐福紙と呼ばれ徐福に
よってその製法をここの村人に伝え、いまでも「那智紙」「音無紙」
として知られているそうです。
またまた鹿児島県串本野の冠岳は、第8代天皇孝元(こうげん)
帝のころ(即位214B.C.〜158B.C.)、渡来した徐福が王冠を留めた
山という。
まだあります。福岡県八女市(やめし)の童男山古墳は、徐福の
船が難破し漂着、徐福の一命を救い、蘇生させたところだと伝えて
いるそうです。いまも毎年1月20日には「童男ふすべ」という行事
が続けられているということです。
またまた、徐福が船をつないだとする宮崎県延岡市の徐福岩や、
薬草を採取したという蓬莱山がここにもあるそうです。京都府伊根
町新井崎の新井崎神社一帯には、この地特産である「にいよもぎ」
が、徐福の探していた薬草だといい伝えているという。
このような伝説地が、全国にあるらしくインターネットで調べて
みたら、青森県小泊村尾崎神社から南は九州の屋久島・種子島まで
出てくるのにはびっくりしました。このような伝承は、中国後周の
ころの(「義楚六帖・(ぎそろくじょう)釈義楚著」や日本の典籍(「本
朝神社考」巻4)、(「本朝怪談故事」巻二)に語られているそうで
す。その子孫は秦氏と称しいまに至っているという。
日本の記録で最も古いものは、平安時代中期の源順(みなもとの
したごう)著の『宇津保物語』(吹上の下)だそうで、徐福と明記
していないものの、不死の薬を探す使いが蓬莱にきたという記述が
あります。
また『今昔物語集』巻第十に、「……方士ト云フ人ニ仰セテ云ク。
汝ヂ速(すみやか)ニ蓬莱ノ山ニ行(いき)テ。不死薬ト云フ薬ヲ
取テ可レ来シ」。方士(徐福のことらしい)を蓬莱山に行かせたと
あります。
さらに『太平記』にも、「……先づかれ(徐福)に大官を授け、
大禄(たいろく)を与へ給ふ。やがてかれが申す旨に任せて、年未
だ十五に過ぎざる童男丱女(かんじょ)六千人を集め、竜頭鷁首(り
ゅうとうげきしゅ)の船に乗せて、蓬莱の島をぞ求めける」(『太平
記』表藤裕己・校注・岩波文庫)はどと記載されています。
▼【参考文献】
・「新宮市パンフ」徐福
・『義楚六帖』:『日本山岳風土記・3』(富士とその周辺)(宝文館)
1960年(昭和35)
・『今昔物語集』(『国史大系第16巻』)経済雑誌社編(経済雑誌社)
1897年(明治30)〜1901年(明治34):(国立国会図書館デジタルコ
レクション)
・『太平記』表藤裕己・校注(岩波文庫)2016年(平成28)
・『日本大百科全書・20』
・『日本大百科全書22』(小学館)1990年(平成2)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本神話伝説伝承地紀行』(吉元昭治著)(勉誠出版)2005年(平
成17)
・『富士山・史話と伝説』遠藤秀男(名著出版)1988年(昭和63)
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