『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神
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▼07-05「聖徳太子」
【前文】
聖徳太子は、寺院建築の祖神で「太子講」の本尊として大工さん
など、職人たちの守護神になっています。秩父地方に多い聖徳太
子の石碑は「太子講」の人たちが建立したもの。聖徳太子は、「十
七条憲法」を制定したことで知られます。平安時代後期の日本の仙
人37仙を解説した『本朝神仙伝』にも、2番目にあげられていま
す。
▼07-05「聖徳太子」
【本文】
聖徳太子は、寺院建築の祖神になっていて、「太子講」の本尊と
して大工さんなど、職人たちの守護神としてあがめられています。
秩父地方を歩くと、「聖徳太子」の石碑をよく目にしますが、これ
はみな、「太子講」の人たちが建立したものだそうです。
聖徳太子(574?〜622)は、日本で初めての成文法の「十七条
憲法」を制定したことで知られます。また、身分家柄に関係なく個
人の業績で昇進できるよう、冠位十二階の制度をつくりました。さ
らには法隆寺、四天王寺などの建立など、仏教にも深く帰依、「三
経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著しました。亡くなってからも「日
本の釈迦」と仰がれて、いろいろな伝説が生まれます。平安時代後
期の日本の仙人37仙を解説した『本朝神仙伝』(大江匡房)にも「上
宮太子の事」として、2番目の仙人にあげています。
太子は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれました。これ
は母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が、池辺雙槻宮(い
けのべのなんみつきのみや)の庭を歩いているとき、厩戸の前で皇
子を出産したことによるとされています。これはキリスト生誕に
もよく似ていますよね。また一度に8人もの話を、聞き分けるほ
ど聡明な人だったことから、豊聡耳(とよさとみみ)、さらに父で
ある用明天皇の宮の南、上宮の地に住まわされたので、「上宮太子」
の名も生まれたといいます。
ところで、富士山に最初に登ったのは、聖徳太子だという伝説が
あります。全国から聖徳太子のもとへ献上されてくる名馬の中に、
足だけが白く体が真っ黒な、甲斐の国の馬がいました。太子はその
馬を選び出しまたがりました。そしてひとムチあてると、黒馬は
宙に舞い上がったといいます。
『聖徳太子絵伝』という書物には、「二七歳御時、甲斐黒駒出来
(いできた)る。調使丸舎人、異国御舎人として、九月に之に乗
給。天皇に暇を申て三日三夜に、日本国を廻見給。…調使丸を轡
に之を付、虚空を飛て、富士山に到給。……富士山頂にも地獄池
有り。中に太子入給。善光寺如来、地より出給て、太子ともに語
う。日本国の神々に合い奉て……」とあります。
この黒駒に乗って日本中を一周し、富士山に舞い降り、そこで
国中の神と会ったことを手記にまとめたとしてます。西暦598(推
古天皇6)年9月、聖徳太子27歳とも25歳の時とする本もあり
ます。
富士山五合目佐藤小屋上の経ヶ岳には八角堂があり、教典を手に
した日蓮上人の像が建っています。そのわきに「推古天皇六戌午
年、秋九月、黒駒に乗りて登る御年廿五」と彫られた黒駒と、聖
徳太子の碑がならび、花も供えられています。また八合目にある
太子館は聖徳太子をまつり、「太子冨登嶽之図」も掛けられていま
す。このような聖徳太子も推古30年(622)2月22日皇太子のま
まで薨去したという。
▼【参考文献】
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重編
(名著出版)1983年(昭和58)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54):(p220)
・『日本大百科全書12』(小学館)1986年(昭和61)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)
・『扶桑略記』:「国史大系・第12卷」國板勝美ほか編纂(吉川弘
文館)1965年(昭和40)
・『本朝神仙伝』大江匡房著(日本古典全書・古本説話集 川口久
雄・校注)(朝日新聞社)1971年(昭和46)
・『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)
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