『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神
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▼02「木地屋さんの祖神・惟喬親王」
【前文】
木地屋の祖神とされる人に惟喬親王がいます。親王は皇位争いに敗
れ出家。読経中にお経の経軸からロクロを思いつきました。ロクロ
師となった従臣の子孫は、木地屋の許可証をもち、フリーパスで全
国どこでも入山できたという。そして祖神、惟喬親王の画像をまつ
り、朝晩、その繁栄を祈ったという。
▼木地屋さんの祖神・惟喬親王
【本文】
大工さんなど木匠(ぼくしょう)の祖神は、聖徳太子だとされて
崇められています。同じように、お椀・お盆など丸いくりもの木地
を作る工人、木地屋(きじや)さんの祖神とされている人に惟喬親
王(これたかしんのう)がいます。
木地屋はロクロ師、ロクロ挽(ひ)き、木地挽き、挽き物師とも
呼ばれます。名高い会津漆器、吉野塗、竹田椀などの起源は、木地
屋の技術に源を発しています。
木地屋はロクロという特殊な工具を使うため、ロクロ師とも呼ば
れます。そのロクロを発明したのが惟喬親王(これたかしんのう)
というやんごとなき方とであるという。
惟喬親王(844〜897・平安初期)は、第55代とされる文徳(も
んとく)天皇の第一皇子です。右兵衛督紀名虎(うひょうえのかみ
きのなとら)の女(むすめ)静子を母としています。ところが皇后
の藤原明子に、第四皇子の惟仁(これひと)親王が生まれ、その皇
位争いは藤原良房などの陰謀が渦を巻き、相撲で決着させようとな
どといい出す始末。
「位争ふ角力とは下卑(げび)たこと」、「御位はたった一番勝負
なり」という古川柳もあり、庶民からもからかわれれています。結
局、皇位争いに破れた惟喬親王は、比叡山ろくの洛北小野に隠棲(い
んせい)します。やがて近江愛知川をさかのぼり、滋賀県愛知郡小
椋(おぐら)村、(いまは東近江市)に移ります。
親王に従うもの太政大臣藤原実秀(さねひで)、のち小椋大臣実
秀、さらに大蔵大臣惟仲(これなか)ほか数人。いずれもこの地に
住みつきました。ちなみに、木地屋には小椋、小倉、大蔵、大倉姓
を名乗る人たちが多いのはこのせいなのだそうです。
その後、貞観(じょうがん)14年(872)になり出家。読経中に
法華経の経軸から、ロクロを思いつきました。早速、その技術をい
までは隠棲の地小椋庄の住民になっている臣従に伝えました。
その後、ロクロ師となった従臣の子孫は、木地屋の許可証をもち、
全国をめぐるのも山中に入るのもフリーパス。こうして各地に散ら
ばった木地屋たちは、山岳地で祖神惟喬親王の画像をまつり、朝晩、
その繁栄を祈ったということです。
この特殊技術を持つロクロ師は、その血筋と、宮廷への奉仕に服し
た由緒によって、各地を自由に往来して、木地職渡世できる特権を
得ます。
すなわち、全国往来自由の関所手形、各地のいかなる山にでも入
山して用材を伐採できる権限です。そして、その「木地屋文書」と
いう「由緒書」、特権付与の勅許(許可状)は、この地で亡くなっ
た惟喬親王をまつっている祖廟(びょう)と称する神社の別当院か
ら発行されます。
別当院は持っている人別帳と照らし合わせ、めったな人には発行
しません。当然ながら、この許可状なければ、大名や豪族が支配す
る領国を歩けませんし、ましてその山に入って自由に林木を伐(き)
ることもできません。
この「木地屋文書」は身分を保証するものであり、と同時にロク
ロ師のすべては、惟喬親王を祀る氏子であり、氏子になることによ
って許可状を貰い、生業が成り立つものといえます。氏子といえば
惟喬親王の、かの地小椋村の人々であり、広くいえば小椋村ゆかり
の木地職人とかぎられるわけです。(のち、すべてのロクロ師が小
椋村所属になっていたわけでないようですが)。
この氏子組織であるロクロ師を、惟喬親王さんの神社が支配、全
国に散らばっている木地屋を統括して、それを守り維持します。一
人前のロクロ師になるためには、この神社に奉仕し、神前で烏帽子
着(えぼしぎ)の式をとり行って、職の免許状を得るのだといいま
す。
また「氏子狩り」といって、神官が各地のロクロ師を歴訪して、
神役代銭を取り立て、神像や神札を配り、時には烏帽子着料を徴収
して神社の維持をはかっていたという。
そうした課程で、神さまもおカネや免状のような、この世のしが
らみがまとわりつくといろいろとややこしくなります。発生地の小
椋村で本家筋がふたつに分かれてしまったのです。つまり東の君ヶ
畑、西に蛭(ひる)谷にと分裂。
君ヶ畑は、「高松御所」と称し、大皇(おおぎみ)大明神をまつ
り、金竜寺を営みます。一方、蛭谷は「筒井公子所」といい、筒井
八幡宮をまつり、帰雲庵を営んだのです。両所ともども、自分が本
家だということを主張してゆずらず、その上、君ヶ畑には吉田、蛭
谷には白川という両神道家がバックについて、木地屋の支配を争い
ました。
そして両神社とも、全国に散らばっているロクロ師のもとへ行き、
それぞれの木地師としての許可状、鑑札、祖神画像、お札を領布し、
「氏子駈け」とか「氏子狩り」など称して、各ロクロ師を自社の氏
子にとり入れようと争うのでした。
江戸時代末の文化13年(1816)には、筒井八幡造営奉加に36ヶ国
から3600人が応じ、もう一方の大皇大明神所属の木地屋は、明治5
年(1872)に529戸を数えたという。
務め制度も、大皇大明神では、「一年神王制」をとり、氏子が毎
年順番で神役を務める制度で、たとえ他国へ渡り歩いてロクロをま
わしていても、当番にあたるときだけは村に帰り、神役を務めるの
だという。
蛭谷の筒井八幡宮でも、惟喬親王の従臣だった太政大臣藤原実秀
(さねひで)、のち小椋大臣実秀の末裔(えい)と称する大岩氏が、
神主になる慶安年代までは常神主はいなかったという。
このふたつの本家争いは、明治時代に入って、大明神を木地師祖
神、筒井八幡宮を轆轤(ろくろ)師鎮守にすることにして一応妥結
します。このようにして、全国津々浦々の山岳地に散っている氏子
たちの心根は、ひとつだということになりました。
しかし、年に一度の「小椋村もうで」は、遠隔地のこともあり、
そうはままなりません。そこで、各家々、その場で祖神惟喬親王の
神像、神札をまつり朝な夕なに拝み、木地稼業の繁栄を祈る形にな
っていったのです。
時代が進むにしたがい、とりわけ近世末に入ると、地元村の山林
利用についての反発が起こります。さらに明治時代になると、山林
所有権が確立するに至り、木地職の山渡りに終止符がうたれる結果
になります。それとともに、かつてのロクロ師は、山に住みついて
農業へと移行したり、またある者は都市へ出て、木工業を営むよう
になります。
このようなことから、小椋村の筒井八幡と、大皇大明神の両神社
も、ロクロ師の運命を象徴するようにいまは神官もいない社になっ
てしまいました。しかし、椀や盆など、木地にたずさわる人々から
は、惟喬親王は相変わらず熱心に崇拝されていいます。
ちなみに、木地屋の本源とされる滋賀県旧小椋村の蛭谷集落に筒
井八幡神社が、君ヶ畑集落には太皇大明神と、その祖廟といわれる
神社が2つの社あります。以前は、それぞれ木地屋の許可状や祖神
の画像の頒布していたのですが、いまはさびれて、神官もいないよ
うな神社になってしまいました。
▼【参考文献】
・『世界大百科事典・7』(平凡社)1972年(昭和47)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本大百科全書・9』(小学館)1986年(昭和61)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)
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