『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神

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▼07-01「弘法大師空海」

【前文】
弘法大師の石像もよく見かけます。これは大師の「大師講」などが
建てたもの。また真言宗のお寺にも「南無大師遍照金剛」の文字塔
もよく見ます。弘法大師は、平安初期の僧で真言宗の開祖。大師に
まつわる伝説は塩井戸伝説や弘法清水などの形で、全国各地にそれ
こそ数限りなく伝わっています。

▼07-01「弘法大師空海」

【本文】
 弘法大師の石像もよく見かけます。これは弘法大師の命日(ふつ
うは21日)に行われる「大師講」や、「念仏講」で供養のために立
てたもの。ふつうは座っている像で、左に念珠、右手に金剛杵(し
ょ)を持っています。また真言宗のお寺の入り口や、境内に「南無
大師遍照金剛」(へんじょうこんごう)とか、「大師遍照金剛」と彫
られた文字塔もよく見ます。

 弘法大師は、平安初期の僧で真言宗の開祖。空海のおくり名で、
お大師さんとして民俗神にもなっています。また、四国八十八ヶ所、
また和歌山県北部に高野山の聖地を開いたことでも知られます。大
師にまつわる伝説は、塩井戸伝説や弘法清水などの形で、全国各地
に、それこそ数限りなく伝わっています。

 ある人が、そうした伝説地や大師が開いた山、開基のお寺の縁起
や市町村地誌を集め、どこで何年ここで何年と合計したところ、800
年以上になり、さらに伝説も入れると1600年は越える勘定になる
という。そういえば空海は、仙人でもあり平安後期の『本朝神仙伝』
(日本の仙人37仙を解説)には、第16番目に名を連ねています。

 弘法大師空海は774年(宝亀五・奈良時代)、いまの香川県善通
寺市の善通寺で生まれたという。18歳で大学に入学、在学中に一
人の修行者に会い、虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)とい
う教えを授かりました。何を思ったか、以来大学と決別、阿波(徳
島県)の大滝岳、伊予(愛媛県)の石鎚山、奈良吉野金峰山(きん
ぷせん)などで修行をはじめました。

 24歳で名誉といわれる『三教指帰』を著し、31歳で唐に渡り2
年間留学、816年(弘仁7・平安時代)、43歳の時、高野山を国家
・修行者のために開きたいと上奏、46歳の時、伽藍(がらん)建
立に着手したとあります。

 伝説によれば、弘仁6年(815)、聖地をさがしていた弘法大師が
山の中で、黒白2匹の犬を連れた猟師に出会った。その猟師こそ高
野山の地主神・狩場明神(かりばみょうじん)で明神の使者である
黒白2匹の犬の先導で、無事高野山にたどりついたという。

 しかし、『今昔物語集』(巻第十一第二十五)では「弘仁七年ト
イウ年ノ六月ニ……一人の猟師ニ会イヌ。大小の黒キ犬ヲ具セリ」
とあり、年も1年遅く、連れていたのは黒い大小の犬だという。
百科事典などでも説明と図版ではかなり混乱が生じているところ
です。しかしその辺はまあまあ、伝説の世界のこと、ご容赦くだ
さい。

 奈良県五條市の転法輪寺(てんぽうりんじ)に、狩場明神をま
つる神社があります。ここが弘法大師と狩場明神が、はじめて出
会った所だといい、境内に明神の出会いの図と説明文が掲げられ
ています。また黒白2匹の犬は、神社の狛犬として鳥居のそばに
控えています。犬をつれた明神の画像は、高野山の金剛峰寺(こん
ごうぶじ)や、京都東寺にも収蔵されているそうです。

 この時、弘法大師が狩場明神と交わした「土地借用書」の話があ
ります。明神の神領地である高野山を大師が「十年間」借り受けて
返す約束でしたが、のちにこっそり「十」の上に「ノ」の字を付け
加え「千年」してしまったというから面白い。また「千」という字
のところを白ネズミがかじってしまい、何年かわからなくなってし
まったという。

 突然ですが、「弘法も筆のあやまり」ということわざがあります。
『今昔物語集』(巻第十一第九)に、京の大内裏(だいだいり)の
応天門の額を書いたとき、いざ門に掲げてみると、「応」の最初の
点がありません。驚いた大師は、筆を投げつけて点をつけたという。
大勢の人はそれを見て、手をたたいて感嘆したということです。「弘
法の投げ筆」という言葉はここから来ており、「弘法も筆のあやま
り」もここからはじまったという。

 そのほか弘法大師伝説は、各地の山にもあります。奥秩父の瑞牆
山に「弘法大師文字」という不思議な文字があるという。大正15
(1926)年に、大正〜昭和時代前期の登山家大島亮吉が、雑誌『山
岳』に寄稿した「瑞牆山・小倉山」にその文字について記してい
ます。それによると、「弘法大師文字は、山の南側流れる天鳥川左
岸の、小岩峰に2字2行に刻まれているというが、道が分からず
現場に行けなかった」とあります。

 また、洞ヶ岩の洞くつの奧にも、弘法大師が彫ったという梵字
(カマンポロン)があり、梵字は大日如来不動明王の意だという。
いまでも山中に「大日岩」があり、その背後に不動明王が祀られ
ているいうと聞きます。洞くつ内には修行したあとも残っている
らしい。

 そういえば、この山は平安時代初期に、弘法大師空海が開山し
たという伝説があります。空海は霊場をもとめて全国を行脚。や
がてここでしばらく修行していましたが、あたりには霊場をつく
るのに必要な、「八百八谷」がないためあきらめて、和歌山県北部
の高野山に大霊場を開いたとされています。瑞牆山の山頂西峰に
は、大師の名の弘法岩もあります。もし条件があっていれば、瑞
牆山が「高野山」の代わりになっていたかも知れなかったわけで
す。

 弘法大師が諸国行脚のエピソードも全国に残っています。弘法大
師にちなんだ井戸や清水の話は有名です。その一話です。首都圏
でおなじみの丹沢・塔ノ岳登山口。ふもとを流れる水無川の水は、
大倉集落付近で消えてしまいます。その昔孝行息子が父の危篤の
知らせに急いで帰ってきましたがお金がなく、強欲な船頭にいく
ら頼んでも川を渡ってくれません。

 仕方なく歩いて渡りはじめましたが深みにはまり死んでしまい
ました。これを聞いた弘法大師が船頭を諭しますが、船頭は反省
するどころか、竿で殴りかかるしまつ。身をかわした大師は、錫
杖を川に突き刺しました。すると川の底に穴があき、たちまち水
が干上がり、それからというもの、水無川になってしまったとい
うことです。

▼【参考文献】
・『今昔物語集1』馬淵和夫ほか校注・訳(小学館・古典文学全集)
1993年(平成5)
・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験道』月光善弘編 (名著
出版)1977年(昭和52)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本山岳風土記3』田部重治、辻村太郎監修 宝文館 1960(昭
35)
・『日本石仏事典』庚申懇話会(雄山閣)1979年(昭和54)
・『日本伝説大系9』(みずうみ書房)1984年(昭和59)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『本朝神仙伝」:日本古典全書「古本説話集」川口久雄校注(朝日
新聞社)
・『民間信仰辞典』桜井徳太郎編(東京堂出版)1984年(昭和59)

 

 

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