『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第5章 仙 人

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▼05-06「久米の仙人」

【前文】

奈良県吉野北方の竜門岳は久米の仙人が修行した山。奈良天平年代、
久米川で洗濯をしている女性の太ももを見て雲から墜落。二人は結
婚、普通人として暮らしていました。東大寺建立の時、人夫にかり
出された仙人は仙術で材木を運搬。感激した天皇は免田を与えたと
いう。それを元手に建てたのが、橿原市にある久米寺だという。

▼05-06「久米の仙人」

【本文】
ヤマザクラの名所奈良県吉野山の北方に竜門岳という山がありま
す。標高904.1mと低山ながら、竜門山地の主峰で、神仏のすむと
ころと考えられ、蓬莱山的仙境として、山岳信仰の対象にされてき
た山です。山頂には1等三角点補点の石標と、岳ノ明神と呼ばれる
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)をまつる小祠があります。

南山麓の村には、旧暦3月に当番の家が餅をついて、山頂の岳神社
に参る「ダケノボリ」の風習が、いまも残っているそうです。登山
口にある吉野山口神社は、徳川家光寄進の石灯籠や、天然記念物の
ツルマンリョウ自生地になっています。登山口からしばらく登ると、
竜門寺跡があり近くの竜門滝もあります。

この滝は落差25m、元禄元年(1688)、吉野を訪ねた芭蕉がここに
立ち寄り、「竜門の花や上戸の土産(つと)にせん」の句も残して
います。この山は有名な久米の仙人に関係の深い山だという。

そもそも久米の仙人(毛竪(けだち)仙人ともいう)は、大阪と奈
良の境にある金剛山の奈良県側の葛城の里に生まれた人だと伝えら
れています。奈良時代、天平年間(西暦729〜749年)のころ、久
米の仙人は、宇陀市と吉野町の境の竜門岳(904m)の吉野町側の
山ろく竜門寺で修行するようになります。

物語はこんな具合です。この竜門岳の岩窟にこもって仙人の修行を
する3人の坊さんがいました。大伴(おおとも)仙人、安曇(あず
み)仙人、毛堅(けだち)仙人(久米仙人のこと)の3人です。(『今
昔物語集』には「今昔(いまはむかし)、大和国(やまとのくに)、
吉野ノ郡(こほり)、竜門寺ト云(いふ)寺有リ。寺ニ二(ふたり)
ノ人籠(こも)リ居テ仙ノ法(ほふ)ヲ行ヒケリ」とあり、安曇仙
人と2人になっています)。

それはともかく、3人はすでに飛行の術を会得していたため、世間
の人は飛仙と呼んでいました。毛堅仙人は竜門岳の頂から山神たち
のいる葛城山の間を行ったり来たりしていました。

ある日、雲に乗って飛んでいると、竜門岳西方、いまの高市郡明日
香村の桧前川(ひのくまがわ・久米川)(『今昔物語』などでは吉野
川になっている)で洗濯をしている女性が見えました。その太もも
の色が目に入った仙人は「愛心たちまちに発(おこ)り、通力立ち
どころに滅(き)えて、大地に落ち果てつ」(『本朝神仙伝』)とあ
ります。

また、別の話では、仙人は吉野川の女にも心を惹かれましたが、な
んとか芋洗川(いまの橿原市久米町、芋洗地蔵尊のあたり?)まで
飛んできました。しかし、そこにもまた白い脛の若い女が見えます。
仙人はとうとう、その女の前に落ちてしまったとする本もあります。

この体たらくに、江戸時代の川柳子も「馬鹿仙人がと空雲(からぐ
も)かへる也」(仙人を乗せてきた雲があきれかえって空しく「か
へる也」)とか、「女湯の番をしたなら久米即死」とまで詠まれるあ
りさまです。

その後、久米仙人はその女性と結婚し、俗人して貧しいながら平和
に暮らしていました。たまたまそのころ、聖武天皇が東大寺を建立
するため、久米の仙人も里の賦役として奈良の都に行って人夫とし
て働くことになりました。担当の作業奉行が人夫の中に、普通の人
とは違う男に気づき、素性を尋ねたところ、雲から落ちた久米仙人
だと分かりました。

そこで奉行はあざ笑って「その方が久米の仙人か。いま吉野の山に
伐り出された材木が、山のように積まれている。それを都まで運ぶ
のに莫大な国費がかかり、天皇も頭を悩ましている。その方の神通
力がまだ残っているようなら、吉野の山にある材木を一晩で都に運
んでみよ、どうじゃ。」と、からかい半分にいいました。

久米仙人ははじめは断ってはいたものの、あまりのしつこさに、そ
れではと吉野の方に向かって、鉤招(こうしょう)の印(諸仏を招
じて、鉤、索、鎖、鈴などを使って、物を引き寄せたり、縛ったり、
つないだり、呼び寄せたりする呪法の一つ)を結んで、7日7夜、
一心不乱に仏を念じました。すると8日目の朝、南の空から木材が
次から次に飛んで来て、1夜のうちに作業場の周囲に山のように積
み上げられたという。

これを知った天皇はいたく感心。「久米仙こそ真の仏意に副(そ)
える仙人なり」といい、田んぼ30町歩を贈与したという。仙人は
それを元手に橿原市に久米寺を再興したと伝えています。その後、
弘法大師がこの寺で大日経を感得、中国への留学を決意したという
ことです。久米仙人はその後、ますます行を積み、ついには雲を呼
び妻とともに、いずこの空にか飛翔し去ったという。

一方、『久米寺流記』という文書では、材木を運んだ後、久米仙人
が「忽然としていずかたへか飛び去った後、残された妻は久米を恋
い慕って死(みかまり)し、七箇日に当たる日、久米が帰って妻の
ために呪願すると、妻は蘇生し、夫妻とも西方を指して飛び去った。」
とあります。さらに、その仙室の跡はいまもあるという。

また「世に伝えて云わく、仙人は十一面観音、嫗は大勢至菩薩なり」
としています(『本朝神仙伝』も同じ記述で(『和州久米寺流記』久
米仙人経行事によるとしている)。

また、『橿原市史』では洗濯をしていたところは、畝傍山(うねび
やま・橿原市)の南、深田池の近くの芋洗川(いもあらいがわ)で、
芋を洗っていたのだという。また一説には、芋を洗う女性ではなく、
妹(いも)の洗濯だとも、また、いもは芋ではなく依物の布だとも
いわれています。また、白い脛(はぎ)についても、脛ではなく萩
のことで、白い萩の花の咲いている原の中だということです。

ここのように『和州久米寺流記』(わしゅうくめでらるき・平安時
代)、『扶桑略記』(ふそうりゃっき・平安後期)、『本朝神仙伝』(ほ
んちょうしんせんでん・平安後期)、『今昔物語集』(平安時代末期)、
『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ・鎌倉時代後期)、『本朝列仙伝』
(江戸時代)など、書物によって少しずつ違って記載されています。

▼【参考文献】
・『橿原市史』:(橿原市史編集委員会)
・『角川日本地名大辞典29・奈良県』永島福太郎ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『久米寺縁起事』:『大日本仏教全書』(寺誌叢書第3)所収
・『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)・巻18』(神仙5・久米仙):(虎
関師錬著)鎌倉時代後期(元享2・1322年):『元享釈書』新訂増
補(『国史大系・31』吉川弘文館(昭和58年)に所収)
・『今昔物語集』(1120年(保安1年・平安時代後期):『今昔物語
1』(日本古典文学全集21)校注訳・馬淵和夫ほか(小学館)1993
年(平成5)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本神話伝説総覧』(歴史読本特別増刊)(新人物往来社)1992
年(平成4)
・『日本神話伝説伝承地紀行』(吉元昭治著)(勉誠出版)2005年(平
成17)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『日本伝説大系9・南近畿』(三重・奈良・大阪・和歌山)渡邊省
吾ほか(みずうみ書房)1984年(昭和59)
・『扶桑略記・第廿三』(延喜元年八月古老相伝の條)阿闍梨皇円(?
〜1169(仁安4)年・平安後期)
・『本朝神仙伝』平安後期の1097(承徳元)年ころ成立。大江匡房
(おおえのまさふさ)
・『和州久米寺流記1』(わしゅうくめでらるき)

 

 

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