『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第5章 仙 人

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▼05-04「浦島太郎神」

【前文】

竜宮城へ婿入りした太郎はにわかに故郷が恋しくなり、戻りますが
玉手箱を開けてびっくり、太郎はたちまちおじいさん。「浦島はは
ぐきをかんでくやしがり」。開けて口惜しき玉手箱……。なんとも
歯ぎしりしたいところですが、太郎も歯が抜けたご老人。土手をか
み合わせるだけだったということです。
・長野県上松町

▼05-04「浦島太郎神」

【本文】
 おなじみの浦島太郎も仙人です。あの『日本書紀』の(雄略二十
二年の条)には瑞江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)の名前で載
っています。

 「丹波の国余社郡菅川(よざのこおりつつかわ)の人、瑞江浦嶋
子が舟に乗りて釣す。遂に大亀を得たり。便(たちまち)に女(を
とめ)に化為(な)る。是(ここ)に、浦嶋子、感(たけ)りて婦
(め)にす。相逐(あいしたが)ひて海に入る。蓬莱山(とこよの
くに)に到りて、仙衆(ひじり)を歴(めぐ)り観る」とあります。
島子が亀の化身の美女と夫婦になり、海に入って「蓬莱山」に行き、
多くの仙人に会ったという話が載せられています。

 同じころできた『丹後国風土記』逸文にも次のように記されてい
ます。「丹後(たにはのみちのしり)の国の風土記に曰はく、與謝
(よさ)の郡(こほり)、日置(ひおき)の里。此の里に筒川(つ
つかは)の村あり。比(ここ)の人夫(たみ)、くさか(日冠に下)
部首等(くさかべのおびとら)が先祖(とほつおや)の名を筒川(つ
つかわ)の嶼子(しまこ)と云ひき。うんぬん……」。

 つまり、与謝郡・日置里・筒川村の水江の浦島子が五色の亀を釣
ると、亀は美しい女性に変身、島子を海中の御殿に連れて行き夫婦
になります。3年ほどたってから故郷に帰ってみると、なんと、地
上ではすでに300年がたっていました。

 島子が妻からもらった玉匣(たまくしげ・櫛などを入れる美しい
化粧箱)を開けるとみるみる老人になってしまいました。悲しんだ
島子は、生き別れになった亀姫と歌をかわしあうというストーリー
です。

 この話は『万葉集』にも登場するから有名な話です。その他平安
初期には『浦島子伝』、平安後期に『本朝神仙伝』(大江匡房)など
いろいろな古書に登場します。

 『本朝神仙伝』は、日本の仙人37人をピックアップした本で、ト
ップに倭武命(やまとたけるのみこと・日本武尊)をあげ、次に上
宮太子(聖徳太子)、武内宿禰(たけのうちのすくね・記紀などに
見える人物)の次の4番目に浦嶋子(浦島太郎)を登場させていま
す。以降、役ノ行者、徳一大徳、泰澄大徳、久米仙人とつづきます。

 それによると浦嶋子は、丹後の国水江の浦(京都府与謝郡の西、
京丹後市(旧竹野郡網野町)の北の浜を水江という)の人だとあり
ます。ある日、大亀を釣ったがそれは婦人(たをやめ)の変身した
ものでした。

 閑(うるは)しき色雙(なら)びなくして、即ち夫婦(めおと)
となりぬ。そしてやはり蓬莱の国に行き、神通力を得て長生きでき
るようになったとあります。まだ浦島太郎の名は出てきません。

 室町時代にできたといわれる「御伽草子」になって、はじめて浦
島太郎の名があらわれ、次第に話に尾ひれがつきはじめたとされて
います。それによると、ある時、浦島太郎がいじめられている亀を
逃がしてやりました。翌朝、釣りをしていると、小舟が海に浮かん
でいて、舟に美しい女性が乗っていたのです。

 ふたりは一緒に、舟で沖へ出て女性の故郷へ行きました。そこは
竜宮城で、浦島太郎は大歓待を受けます。ふたりは夫婦になって毎
日を楽しく暮らしました。女性は以前助けた亀だったと告白しまし
た。こうして3年が過ぎてから、太郎が故郷に帰ってみると、あた
りはすっかり荒れ果て、虎でもすむような野原になっているではあ
りませんか。

 そのあたりの家の老人に事情を聞くと「そんな話は700年前にあ
ったそうです」とのこと。太郎は悲しみのあまり亀にもらった箱を
開けると紫の煙が立ち上りたちまち太郎は老人に変わり果ててしま
いました。そして浦島太郎は鶴の姿になって大空の飛び立っていっ
たのでした。のち、丹後国(京都府)に浦島の明神としてあらわれ、
亀も一緒に夫婦の明神となったという。めでたし、めでたしで、こ
のように鶴や亀はめでたい事のたとえにいうようになりました。

 この浦島太郎をまつる所は、京都府丹後半島の各地に多く、とく
に与謝郡伊根町の宇良神社が有名だそうです。また長野県上松町の
木曽川沿いにある景勝地「寝覚ノ床」にも浦島伝説があります。

 1930年(昭和5)刊行の『山の伝説』(青木純二)によれば、こ
こが浦島太郎が玉手箱を開けたところだというのです。竜宮城へ婿
入りした太郎は「月日の経つのも夢のうち」でしたが、ある時、遠
くからかすかに聞こえてきた鶏の鳴き声に、にわかに故郷の父母や
友だちを思い出しました。

 そこで浦島は乙姫の父王に帰国を願い出ました。「夫婦そろって
なら里へ参るがよかろう」との言葉に喜んだ浦島と乙姫は、新道を
たどり、ふるさとに急ぎました。この世から竜宮城まで通じる道が
あったわけです。

 しかし、やがて浦島たち出たところは見知らぬ場所。生まれた里
と似ても似つかない深山幽谷の川辺にたどり着いたのでした。乙姫
は、谷川の流れ、咲き乱れる草花、小鳥がほがらかなさえずり、や
わらかにしっとりと吹く風に大満足して喜んでいます。しかし月日
がたち、乙姫が土地になれるに従い、浦島は乙姫に対する態度がつ
れなくなり、言葉も荒々しくなっていきました。

 ふたりは次第にけんかもするようになり、ついに怒った乙姫は、
竜宮城に帰ってしまいました。仕方なく竜宮城に迎えに行った太郎
は乙姫を連れ戻し、再び竜宮城へ帰れないよう近道を大石でふさい
でしまいました。さあ怒ったのは乙姫さま。こんどは浦島が竜宮か
ら帰ってきた穴に、呪文を唱えて水がふき出るようにしてしまった
のです。そして「私はこれでおいとまします」というが早いか、紫
の煙となって浦島がふさいだ大石の裂け目から吸い込まれるように
消え、竜宮城へ帰ってしまいました。

 驚いた浦島は、乙姫の名を呼びながら泣き叫びますが、姫の姿は
帰ってきません。浦島はなお乙姫が恋しく谷川を歩き回りました。
そんな時、ふと岩陰に乙姫が持っていた玉手箱を見つけました。喜
んだ浦島は思わず玉手箱のふたを開けてしまいました。玉手箱から
立ちのぼった紫の煙が顔を覆ったせつな、浦島太郎はたちまち600
歳余まりの老人と変わり果てていたのです。ここでは600歳になっ
ています。

 竜宮城の華やかな夢からいま覚めた浦島太郎。そこにささやかな
庵を結び若き日の想い出にふけりながら孤独に余生を送ったという
ことです。浦島太郎が現世に目覚めた場所、それがここ木曽の「寝
覚ノ床」だったというわけです。

 また、江戸時代後期の天明8年(1788)、京都の大火で炎上した
東本願寺の再建のため、浜松の齢松寺の僧侶が遠山に材木を探し求
め伐り出した時、いろいろな不思議なことにあったことを記したと
いう『遠山奇談』(浄林坊辨惠著)にも「寝覚ノ床」のことが載っ
ています。

 「阿倍末の寝覚ノ床は土俗傳へて浦島太郎が住ける地なりといひ、
また三帰翁となんいへる隠者の住みける処ともいふ。……三帰翁は
私に思ふに三喜翁にあらすや。「雍州府志」に寛政年中武蔵国河越
に……(漢文で三喜翁について説明)……。此人の乱世を厭ひてこ
の深山の中にかくれ終はられしも知るべからず。今みかへり翁と唱
ふるは、三喜を三帰となし……。再按するに、三喜翁を土人推して
神仙となし、これを假稱して浦島なと呼たりしを、遂に此兩人を住
せしとあやまり傅へしにあらずや」とちょっと違った見方をしています。

 「寝覚ノ床」の河原の大岩の上に、浦島太郎が弁財天像を残した
といわれている浦島堂が建っています。「寝覚ノ床」のある木曽川
の崖の上に臨川寺というお寺が建っています。ここには、浦島太郎
の別の後日譚が伝えられています。

 竜宮から玉手箱と弁財天像と、「万宝神書」を持ち帰った太郎は、
神書の中の秘法を読み、飛行術や長生の術を会得し諸国を遍歴しま
した。その途中、木曾まで来て寝覚ノ床の風景が気に入りました。
太郎はここに住みついて、好きな釣りを楽しみながら暮らしていま
した。

 ある時、里人に竜宮の話をしていましたが、ついそのついでに玉
手箱を開けてしまいました。するとたちまち、地上の年齢の300歳
の老人になってしまったのです。浦島太郎爺サンは、平安時代の天
慶年間(938〜947)にいずこともなく立ち去ったと伝えられていま
す。里人は、あとに残されてしまった弁財天像を祠にまつり、崖上
に寺を建てました。これが臨川寺で、太郎の「姿見の池」や、太郎
愛用の釣り竿などがあります。

 さらにや神奈川県横浜市にもあります。横浜市神奈川区浦島ヶ丘
に、明治初年廃寺になった「観福寿寺」という寺があって、俗に浦
島寺と呼ばれています。ここの寺伝によると太郎は、三浦の人浦島
太夫の子で、父が公用で丹後の国に赴任している時に生まれた子だ
という。

 この子が大きくなり釣りをしていると、大きな亀を釣り上げまし
た。それを海に放してやると、亀は美しい乙女に変身し、太郎を竜
宮城へ案内します。別れの時に亀姫は玉手箱と聖観音像(しょうか
んのんぞう)を太郎に預けました。その仏像の告げで太郎は父の墓
がこの地にあることを知り、墓のそばに庵を建てて住んだという。

 一説に、玉手箱を開いて老人になったのは箱根山だともいわれて
います。『江戸名所図会』では、観福寿寺の本堂に浦島明神と、亀
化(きげ)大竜女とがまつられ、堂の前には浦島太郎の墓や、足洗
の井・腰掛け石などがあるとしています。

 観福寿寺が廃寺になったあと、正観世音像は、近くの慶雲寺に移
され、浦島父子の供養塔は蓮法寺、太郎が竜宮を恋しがって涙を流
した涙石(腰掛け石)は成仏寺と、分散して伝えられているという
ことです。

 川柳にこんなのがあります。「浦島ははぐきをかんでくやしがり」。
開けて口惜しき玉手箱……。なんとも歯ぎしりしたいところですが、
太郎も歯が抜けたご老人。土手をかみ合わせるだけだったというこ
とです。

▼【参考文献】
・『御伽草子集』:日本古典文学全集「御伽草子」(校注・訳大島建
彦)(小学館)1974(昭和49)年
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『丹後国風土記』風土記逸文:日本古典文学大系2『風土記』秋
本吉郎校注(岩波書店)1987(昭和62)年
・『遠山奇談」華誘居士:「日本庶民生活史料集成16・奇談奇聞」編
集委員代表・谷川健一(三一書房)1989年(平成元)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本神話伝説伝承地紀行』(吉元昭治著)勉誠出版(2005年)
・『日本書紀』巻第十四(雄略天皇)条:岩波文庫『日本書紀(三)』
校注・坂本太郎ほか(岩波書店)2000年(平成12)
・『日本伝説大系8・北近畿』(滋賀・京都・兵庫)福田晃ほか(み
ずうみ書房)1988年(昭和63)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成2)
・『本朝神仙伝』大江匡房:「日本古典全書・古本説話集」川口久雄
校注(朝日新聞社)1971年(昭和46)
・『山の伝説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930年(昭
和5)

 

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