『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第4章 天狗神
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▼04-20「群馬県赤城山の天狗」
【略文】
赤城山は赤き山。日光男体山の神との戦いに敗れた赤城神の血で山
が赤く染まり、その名がついたという。この日光男体山との神争い
や、榛名山との神争いの伝説は有名ですが、そのほか天狗話もあり
ます。ここにすむ杉ノ坊天狗は、和歌山県の興国寺(法燈寺)を一
晩で再建したという。この伝説は、群馬県側と和歌山県側にも伝わ
っているから不思議です。この天狗は、天狗になる前は「了儒」と
いう行者ではないかという。これは赤城山で一度も下山せずに30年
あまりも修行した神業の行者だという。
・群馬県勢多郡富士見村赤城山。
▼04-20「群馬県赤城山の天狗」
【本文】
国定忠治でおなじみの赤城山(あかぎやま・さん)は、上毛三山の
ひとつ。標高1400mあたりの新坂平一帯は、初夏、群落するレンゲ
ツツジが満開になり、その見事さは有名です。赤城山の名は、ムカ
デになった赤城山の神が、ヘビになった日光の神と戦って負傷。山
の木々が血で赤く染まったので、赤木山といったのがはじまりだと
いう(江戸初期の儒学者林羅山「二荒山神伝」)。
ここには赤城山という峰はなく、黒檜山(くろびさん・1828m)を
はじめとする外輪山と中央火口丘との総称。赤城山は平安時代初期
の大同2年(807)に、日光を開山した勝道上人というえらいお坊
さんによって開かれたとされています。
火口原には火口原湖の大沼(おおぬま、おの)と、火口湖の小沼(こ
ぬま、この)があります。大沼の東岸の最高峰である黒檜山の山ろ
くに赤城神社があります。赤城神社は全国には関東地方を中心にし
て約300社の赤城神社があるといわれる名刹。
千葉県流山市には赤城神社がまつられた小さな山があります。ここ
は江戸川沿いにあるのですが、その昔、大洪水の時、上流から赤城
山の一部が流れてきたのだという伝説があるそうです。そういえば
江戸川上流の利根川は赤城山の西ろくを流れています。市名の「流
山」はそんなことから来ているという。
それはともかく、赤城山は赤城と日光の神争いや、赤城と榛名の神
争いの伝説は有名ですが、そのほか、天狗伝説もあります。それも
そんじょそこらの小ワッパ(童)天狗と大違い。大天狗のなかでも、
赤城山杉ノ坊(さんのぼう)という名前まである大物天狗です。
赤城神社は大沼神を祭った社ですが、そのそばの飛鳥社(ひちょう
しゃ)には、天狗を祭ってあるというのです。『前上野志』という
本に「大沼大塔には本社(赤城明神)の他に、飛鳥社(天狗を祭る)、
開山堂(了儒法師とて、長楽寺(月船)?海(ちんかい)和尚に随
従せる行者を、開山と推せり)などありし」とあります。
赤城山大沼湖畔の飛鳥社は天狗祠だというのです。赤城山を開山し
たとされる了儒法師とは赤城山中で30年あまりも修行したという行
者。随従したと書かれる月船?海(げっせんちんかい)和尚との出
会いはこうです。
そもそも長楽寺月船?海和尚というのは、群馬県新田郡世良田村の
長楽寺の法照(ほっしょう)禅師のことだという。月船?海和尚は、
弘安5年幕府の命により長楽寺第5世住職となり、延慶(えんきょ
う)元年(1308)没し、朝廷より法照禅師の諡(おくりな)を貰っ
たエライ坊さん。
『赤城秘文』によると、鎌倉時代中期の弘安年間(1278〜1288)の
ころ、その法照禅師があるとき赤城山に登ると、ひとりの行者の出
迎えを受けました。
「赤城山ニ一練行(修行を熱心に練りあげること)ノ人有リ。三十
余年、影、山ヲ出ズ。木食澗飲、氷雪不凍、多クノ神異有リ。儘、
天狗ヲ友トシテ善シ。所謂魔界ナリ。タマタマ師、赤(※甚だしく)
?(※きょう・高い山)ニ陟(のぼ)リ、霊区ヲ逍遥ス。練行ノ人、
出テ迎エ、受法シテ勝因ヲ結ブ。乃チ号シテ了儒ト曰ウ。是ヨリ一
州学師ノ道者、赤城門徒ト称シ、彼ヲ以テ儒翁ノ祖ト為シ、時ノ人、
之ヲ尊ブコト神ノ如クナリ」とあります。
法照禅師が赤城山に登っていくと、一人の行者の出迎えを受けまし
た。その行者は、木の実を食べ、谷の水を飲みながら修行をしてい
るという。そんななか、30年以上も山を降りたことがなく、氷雪に
も凍えないというから 人間わざではありません。そしていつも天
狗を友として暮らしているというのです。
その行者が、法照禅師(?海(ちんかい)和尚)が登ってきたと知
って、禅師の弟子になりたくて出迎えたのだという。そこで法照禅
師は、その行者に法を授けて「了儒」という法号を与えました。開
山堂の本尊はこの了儒法師であるという。この了儒の30数年にわた
る修行の様子から、天狗研究者は赤城山の大天狗杉ノ坊は、この了
儒行者の化身ではないかと推定しています。
ところで、江戸時代中期、寛延2年(1749)刊行の著者不詳とも神
谷養勇軒著ともいわれる『新著聞集・しんちょもんじゅう』に、「天
狗一夜にして法燈寺(ほっとうじ)をつくる」という一文がありま
す。
法燈寺は、和歌山県の由良(ゆら)町にある臨済宗の鷲峰山興国寺
(じゅぶざんこうこくじ)というお寺。ここを開山した法燈(ほっ
とう)国師の名前から法燈寺とも呼ばれていました。先の『新著聞
集』によると、この寺はどうしたわけか、たびたび火災が起こるの
です。そこで仕方なく住職は、草葺きの仮の庵に住んでいました。
ある時一人の旅の僧が来て「この寺が火災にあうのは、開山した法
燈国師の文字からきている。法燈の文字は、水去り火登ると書くか
らだ。(法の字はサンズイ(水)に去る。燈は火へんに登ると書く)。
ただお望みなら、わしが建ててやってもよい。しかしそれもついに
は焼失してしまうが、護摩堂だけは残るだろう。わしは上州(群馬
県)赤城山の杉ノ坊(さんのぼう)というものだ。」と言い残し、
僧は寺から去っていきました。
しばらくして住職は再建を決意し、ふたりの若い僧を群馬県の赤城
山に使いに出しました。赤城山に着いて若い僧は、びっくり仰天。
杉ノ坊はここにすむ天狗の大親分だったのです。ビクつくふたりに、
杉ノ坊は建設の日取りを決め、若い僧たちを山伏2人の背中に乗せ
て、空を飛んで紀州(和歌山県)へ送ったという。
約束の日、村人がお寺に近寄らないようにしていました。夜になり、
数十万人もの人声がして、なにやら大工事がはじまったらしく、一
晩中物音がつづきました。夜があけてみると、見事七堂伽藍(がら
ん)が出来上がっていたという。しかし杉ノ坊がいったとおり、や
がてまた火災に見まわれましたが、護摩堂だけは残ったというので
す。
紅葉真っ盛りのころ、由良町興国寺を訪れました。地元の小学生た
ちや父兄が、参道途中の公園にならんでおやつを食べています。境
内にはいると大きな天狗堂があり、暗い堂内に日本一、二の魔除け
天狗面が、まっ赤になってにらんでいます。売店で厄よけのお札を
買いました。「えっ。天狗を調べて歩いているんですか。面白そう
ですね。」と、若い僧侶が竹箒の手を休めて笑いかけています。
それにしてもこの話は群馬県側に伝わるだけでなく、和歌山県側で
も伝承されています。由良町の興国寺のパンフレットや町の教育委
員会発行の『由良町の文化財』にも記載されているのです。当時、
こんなに離れた和歌山と群馬の間にどんなことがあったんでしょう
か。それとも山伏たちが群馬県に移り住んできてからこの話を広め
たのでしょうか。
・群馬県勢多郡富士見村赤城山
▼赤城山大沼湖畔飛鳥社データ
【所在地】・赤城山大沼湖畔飛鳥社:群馬県勢多郡富士見村赤城山
小鳥ヶ島。両毛線前橋駅の北北東20キロ。JR両毛線前橋駅からバ
ス、大洞下車、
歩いて20分で大沼湖畔飛鳥社
【位置】
・北緯36度33分09.44秒、東経139度11分00.45秒
【地図】
・旧2万5千分の1地形図「赤城山(宇都宮)」
▼【参考文献】
・「赤城・榛名・妙義の山岳伝承」都丸十九一・とまるとくいち):『山
岳宗教史研究叢書16・修験道の伝承文化』五記重編 (名著出版)19
81年(昭和56)所収
・「赤城山信仰」丸山知良:『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と
関東の修験道)宮田登・宮本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
所収
・「赤城山と榛名山」大場巌雄:『山岳宗教史研究叢書1・山岳宗教
の成立と展開』和歌森太郎編(名著出版)1975年(昭和50)所収
・「上野鎮守赤城山大明神縁起」:『山岳宗教史研究叢書・17』(修験
道史料集1・東日本編)五来重編(名著出版)1983年(昭和58)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『新著聞集』(神谷養勇軒著):『日本随筆大成第二期第5巻』日本
随筆大成編輯部編(吉川弘文館)1994年(平成6)所収
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳(三樹書房)1977年(昭和5
2)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳風土記4』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
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