『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第4章 天狗神
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▼04-08「日本第一の天狗・京都愛宕山栄術太郎坊」
【略文】
京都愛宕山には日本一の大天狗「愛宕山栄術太郎坊」がいることに
なっています。その元の姿は、聖徳太子の学問の師であった日羅(に
ちら)(6世紀朝鮮半島の百済の王に仕えた日本人)だとも、イン
ドからきた魔王天狗を従伏したときの縁で、泰澄大師(雲遍上人)
がこの天狗に変身したなどの説もあります。
・京都府京都市右京区嵯峨愛宕町。
▼04-08「日本第一の天狗・京都愛宕山栄術太郎坊」
【本文】
京都の愛宕山は924mと標高こそ低いですが、山上に火伏せの神で
ある愛宕神社があり、一般庶民の信仰が厚い山です。愛宕神社は本
社と若宮があり、それぞれの祭神は、本社に伊弉冉尊(いざなみ)
・天熊人命(あめのくまひとのみこと)・稚産日命(わくむすびの
みこと)など5座。
ちなみに天熊人命は、天照大神の命で保食神の死体から生えた五穀
を刈り取り、進上した神(『日本書紀』巻第一、神代上第五段、一
書第十一・『岩波文庫1』。稚産日命は、穀物の生育を司る神とされ
ています。
また若宮の祭神は、雷神(いかづちのかみ)・迦具槌命(かぐつち
のみこと)・破旡神(はむしん)の3座。この中の迦具槌命は火の
神で、この神を生んだとき母親の伊弉冉尊(いざなみのみこと)は
大事なところを焼かれたために死に、黄泉国(よみのくに)へ下る
という話は有名です。そんなところからこの神は火伏せの神になっ
ています。
また破旡神とは聞き慣れない神ですが、丹波国の国史現在社4所の
ひとつ。破旡神の意味ははっきりしませんが、雷神や火伏の信仰と
のかかわりから鎮圧・予防の意に通じる神とされています。
愛宕山は、阿多古、愛宕護、阿当護、阿太子とも書かれます。また
白山(はくさん)、朝日(あさひ)峰、白雲(はくうん)山、など
とも呼ぶ(雍州府志)そうです。明治の神仏分離令以前、愛宕神社
は愛宕山白雲寺といいました。
愛宕神社の社伝によると、愛宕山白雲寺は701年(大宝1)に役小
角(えんのおづぬ)と泰澄大師(雲遍上人)が洛北高(鷹)ヶ峰(た
かがみね)に創祀。781年(天応1)6月に和気清麻呂が勅命を受
け、高(鷹)ヶ峰から「愛当護大権現」を迎え、堂宇を造営したと
いう。平安時代となってからは王城の乾(いぬい・北西)の守護神
となり、愛宕権現とよばれ、崇敬されました。
ここは中国の五台山に模して、山中の5山に5寺があり、神仏習合
の修験道場。明治時代の神仏分離や廃仏棄釈までは愛宕権現と呼ば
れ、真言密教の行場として栄えました。
一方、平安時代に制定された『延喜式』神名帳に、「阿多古神社」(丹
波国桑田郡)というのが載っており、これが愛宕神社を指すともい
われていますが、桑田郡は主に亀岡市であり、そこには「元愛宕」
(同市千歳町)と呼ぶ神社があるという。
ちなみに天正10年(1582)、明智光秀が本能寺で、織田信長を討つ
前にここ愛宕山で、連歌の会での百韻「時は今 あめが下知る五月
哉」と詠んだという話もありますよね。
「あたご山」、どこかで聞き覚えのある名前です。それもそのはず、
全国に900以上の分社がある神社です。東京でいえば、港区のNHKの
前身の東京放送局(JOAK)のあった愛宕山、また、奥多摩駅前の愛
宕山などが有名です。その総本山の京都愛宕神社は、まだ歩く前の
幼児を背負ってお参りし、シキビを供えて、祈祷してもらえば、そ
の子は一生火の災難からまぬがれるともいわれています。
こんな山ですから不思議な話の1つや2つ、ないわけがありません。
この山には日本一の大天狗「愛宕山栄術太郎坊」がいることになっ
ています。「白雲寺縁起」(『山城名勝志』所収)には、「九億四万余
天狗有」と記されたり、インドの魔王天狗が、日本に渡ってきて愛
宕山にすみつき、悪さをして住民を悩ませていたのを、役ノ行者と
泰澄に従伏させられて、心を入れかえて、愛宕山を守る天狗太郎坊
になったとされる話もあります。
このほか、文徳天皇の女御である藤原明子(染殿后)に一目惚れ、
焦がれ死んだ真斉上人という人の怨念が、凝って太郎坊になったの
だとか、また、聖徳太子の学問の師であったとも伝えられる日羅(に
ちら)(6世紀朝鮮半島の百済の王に仕えた日本人)だとも、イン
ドからきた魔王天狗を従伏したときの縁で、泰澄がこの天狗に変身
したという説もあり、諸説が交雑しています。しかし、日羅や泰澄
のような賢人が魔界に入り込んでいるとは考えられず、太郎坊の元
の姿はやはり愛宕の山神か、あるいは地主神と見るのが穏当だろう
と専門家はいっています。
また『太平記』巻二十七(雲景(うんけい)未来記事)に、こんな
話が載っています。出羽国の雲景という山伏が諸国行脚の途中、京
都で、ひとりの老山伏と知り合い、白雲寺本堂の僧坊へ案内されま
した。中ではなにやら会合が行われています。部屋の上座には敷物
を二畳敷き重ねた上に大きな金色の鳶(とび)が、そしてその右脇
には、大弓、大太刀を携えた大男が、左の席には天皇の礼服の上に
日月や星々を織り出した上着を着て、金の笏を手にした方々が何人
も座っています。
雲景は「この方たちは?」と尋ねると老山伏は、「上座の金色の鳶
が崇徳上皇(すとくじょうこう)であられる。右脇の大男が筑紫八
郎為朝、左の席の上から、淳仁天皇、井上皇后、後醍醐院、右の席
は諸宗のすぐれた徳のある高僧たち、玄ム(げんぼう)、真斉(し
んぜい)、寛朝(かんちょう)、慈慧(じえ)、頼豪(らいごう)、仁
海(じんかい)、尊雲(そんうん)などの方々が、悪魔王の棟梁と
なられて、今ここに集まり、天下を乱そうとご相談なされておる」
とのこと。魔の世界に入った身分高き人々が一堂に集まり、天下を
乱れさせようとの陰謀を相談をする「愛宕山天狗評定」の話も残っ
ています。
そのほか、愛宕山にまつわる伝説には、『今昔物語集』巻二十 第十
三 愛宕護の山の聖人野猪に謀らるる語第十三(あたごのやまのし
やうにんくさゐなぎにたばかるることだいじふさむ)もあります。
愛宕の持経者(お経の読誦をする者)が毎夜、イノシシが化けた普
賢菩薩を伏し拝んでいた話で、あるとき、猟師がしばらく聖人の所
にご無沙汰したので、食糧袋にしかるべき果物などを入れて持って
いった。
すると聖人が普賢菩薩があらわれるのを今か今かと待っています。
急に部屋の中が月の光がさし込んだように明るくなりました。見れ
ば、白い色の菩薩が白象に乗ってしずしずと降りておいでになりま
す。聖人は感激で涙を流しうやうやしく礼拝。猟師に「どうだ、そ
なたも拝みなされたか」という。猟師は首をかしげ、「しかしわし
らなど、お経も読めないような者の目にも見えるとはどうも怪し
い」。
猟師は矢を弓につがえ普賢菩薩めがけて放つと、見事命中しました。
聖人は驚き大騒ぎ。夜が明けて菩薩立っていた所に行ってみると、
たくさんの血が流れています。それをたどっていくと、谷底に大き
なイノシシが死んでいました…。たとえ聖人であっても、知恵のな
い者はたぶらかされ、動物を殺して罪ばかり作っている猟師でも、
思慮があればイノシシの化けの皮を剥ぐことができるのだ。…とい
うことです。
▼【参考文献】
・「愛宕山の山岳信仰」アンヌ・マリ ブッシイ:『山岳宗教史研究
叢書11・近畿霊山と修験道』五木重編 (名著出版)1978年(昭和53年)
・『角川日本地名大辞典26・京都府・上』(角川書店)1991年(平成
3)
・『国史大辭典11』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館))
・日本古典文学全集24『今昔物語3』馬淵和夫ほか校注・訳(小学
館)1995年(平成7)
・『神社辞典』白井永治ほか編(東京堂出版)1986年(昭和61)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和5
2)
・『太平記』巻二十七(雲景未来記事・うんけいみらいきのこと):
新潮社版『太平記4』(山下宏明校注)(新潮社)1991年(平成3)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説大系8・北近畿』(滋賀・京都・兵庫)福田晃ほか(み
ずうみ書房)1988年(昭和63)
・『日本歴史地名大系27・京都市の地名』林家辰三郎ほか(平凡社)
1987年(昭和62)
・『本朝神仙伝』大江匡房著(日本古典全書・古本説話集 川口久
雄・校注)(朝日新聞社)1971年(昭和46)
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