『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第3章 鬼 神
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▼03-04「長野県・有明山魏石鬼」
【略文】
平安時代はじめ、長野県の有明山に「魏石鬼」という鬼が住んでい
たという。魏石鬼は自らを八面大王と名乗り、妖術を使って悪行を
重ねていたという。朝廷の勅命で坂上田村麻呂は、早速八面大王を
退治にやってきました。栗尾山満願寺の仏からのお告げで山鳥の尾
羽で作った矢でやっと退治できたといいます。
▼03-04「長野県・有明山魏石鬼」
【本文】
平安時代はじめのこと、北アルプス・中房温泉近くの有明山(2268
m)に「魏石鬼」(ぎしき)という鬼が住んでいました。魏石鬼は
自らを八面大王(はちめんだいおう)と名乗り、妖術を使って悪行
を重ねていたという。朝廷の勅命を受けた坂上田村麻呂は、早速八
面大王を退治にやってきましたが鬼は空を真っ暗にし、ふもとに大
きな石を雨やあられのように降らせます。
田村麻呂が光る魏石鬼の目をねらって矢を放ちますがさっぱり当た
りません。田村麻呂は、なんとしても魏石鬼を退治したいと長野県
栗尾村(いまの安曇野市穂高牧字栗尾)にある栗尾山満願寺(真言
宗豊山派)に祈願します。満願の夜、仏からのお告げがありました。
「山鳥の33の節がある尾羽で作った矢で射てみよ、必ず大王を退治
できるであろう」。
そこで田村麻呂は、住民に公布して山鳥の尾を探しはじめました。
その話を聞いた矢村の若者が、妻からもらったという33節ある尾羽
を持参、田村麻呂に献上しました。聞けばこの若者は、父親を魏石
鬼に殺された身の上だといいます。
甲子(きのえね)の年の甲子の月、甲子の刻の生まれといいます。
若者はかつて、猟の際捕らえたヤマドリを助けたことがありました。
その後そのヤマドリが、女性に姿を変えてやってきて若者のもとへ
嫁いできました。
それから3年、田村麻呂が、魏石鬼との戦いで苦戦しているという
話を聞いた妻は、若者に33節あるヤマドリの尾を田村麻呂に献上す
るように差し出しました。田村麻呂はさっそくその尾で矢を作り、
やっと八面大王を退治できたといいます。魏石鬼退治ができて喜ん
だ田村麻呂は、若者に矢助という名を与え、一生の生活を保障する
恩賞を与えました。
しかし、その翌日から妻は姿を隠していました。33節の尾羽はヤマ
ドリの妻の尾だったといいます。『日本伝説集』という本では、矢
は13節で、矢助は地元の有明村(いまの穂高町)に住む老人という
ことになっています。
切断された八面大王の体は、一緒に埋めると生き返るという。そこ
で死骸は切り離されてバラバラに埋められ、いまでも頭を埋めた大
王の宮、耳を埋めた耳塚(穂高町)、首を埋めた首塚、足を埋めた
立足などの地名が残っているといいます。
燕岳(2736m)登山道途中の合戦尾根の休憩所合戦小屋には側面には
鬼の顔が掘った臼があり、立て札に地名の由来も書いてあります。
退治されたその魏石鬼の子分に、常念坊という念仏を唱える鬼がい
たという。常念坊は親分が戦いに敗れるのをみると、光の玉になっ
て空を飛び、まゆみ岳という山に逃げたという。
やがて年の暮れになり、村に市が立ちました。市は、大勢の人たち
で賑わいました。ある日、日も暮れて商人たちが店をたたみはじめ
るころ、変わった身なりの坊さんが酒を買いにあらわれました。み
るとボロボロの衣に髪の毛を背中までたらして杖をついた老僧で
す。5合徳利を差し出し「5升入れてくれ」というのです。
「お坊さんご冗談をおっしゃては困ります」と酒屋の親爺。「いい
から入れてくれ」「こぼれても知りませんよ」。半分やけ気味に親爺
が酒をついだところ、不思議なことにこの徳利に5升の酒が入って
しまいます。坊さんはカラカラ笑うと闇の中に消えていきました。
それからは村に市がたつと、きまって老僧が酒を買いにあらわれる
ので、村人は山の鬼か化け物だろうとうわさしあいました。ある年
のこと、2人の若い衆が坊さんの後をつけ、居所を突き止めようと
しました。しかし暗がりの急な山道を年寄りとは思えない早さで、
霧の岩山へ消えていきました。
「あれは八面大王が討たれたとき、まゆみ岳へ飛んできた常念坊に
ちがいねえ」「そういえばまゆみ岳へ行った猟師が、念仏の声を聞
いたっていっておった」。それからというもの、村人はいつのころ
からか、まゆみ岳を常念岳(じょうねんだけ)と呼ぶようになった
ということです。
いまでも常念岳(2857m)山頂には、常念坊をまつった祠(ほこら)
があり、かつては中に常念坊の石仏がありました。しかし、たびた
び盗難にあい、いまは何代目かのものが鞍部にある常念小屋に保管
されています。
常念岳には春、常念坊という呼ばれる雪形が出て、ふもとの安曇野
の人たちに親しまれ、農作業の目安にもされています。雪形は、前
常念の東面に黒くあらわれ、左向きの姿で、よく見ると手に托鉢用
の鉢を持っています。4月初旬〜中旬、長野県安曇野市(豊科、穂
高)付近で見られます。
▼【参考】
・『北アルプス白馬連峰 その歴史と民俗』長沢武(郷土出版社)1
986年(昭和61)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)1
990年(平成2)
・『信州山岳百科1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説大系7・中部』(長野・静岡・愛知・岐阜)岡部由文ほ
か(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』一志茂樹ほか(平凡社)1
990年(平成2)
・『柳田國男全集6』柳田國男(ちくま文庫/筑摩書房)1989年(昭
和64・平成1)
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