『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第1章 山・谷・峠の神と怪物

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▼01-07「奈良・葛城一言主神社と古事記」

【略文】

東京近郊でもよく耳にする一言主神社。この神は吉兆を一言で告
げるとされ多くの人が参詣に訪れ、神社札などを貰い受けていま
す。その総元締めは奈良県御所市に鎮座する葛城一言主神社です。
この神は役ノ行者に鬼として扱われ、行者の怒りにふれ呪術で体
を縛られ黒ヘビになって谷底に置きざりにされているという。
・奈良県御所市

▼01-07「奈良・葛城一言主神社と古事記」

【本文】
東京近郊でもよく耳にする一言主(ひとことぬし)神社。この神
は吉兆を一言で告げるとされ多くの人が参詣に訪れ、神社札など
を貰い受けています。その総元締めは奈良県御所市(ごせし)に
鎮座する葛城一言主神社です。この神が鬼扱いにされていたとい
うのです。

遠い遠い飛鳥時代、役ノ行者は奈良県と大阪府の境、奈良葛城山
(かつらぎさん)から金峰山(きんぷせん)間の空中に岩の橋を
架けるという遠大な計画を立てました。全国からモロモロの天狗
や鬼神・怪物たちが集められ、役ノ行者に突貫工事を命じられま
した。鬼神たちは無理な注文に嘆き憂えますが、行者はゆるして
くれません。鬼神たちは、自分のみにくい姿を恥じて人のいない
夜に懸命に働きますが作業はいっこうにはかどりません。

怒った役ノ行者は、いっしょに働いていた一言主の神を呼びつけ
「なぜ昼間も働かぬ」と厳しくせめます。「そんなに無理をいうな
ら、もう働きません」と一言主の神は反抗します。怒った行者は、
呪術で一言主神を縛り、谷底に閉じこめてしまいました。これを
恨んだ一言主は、都人の魂にのり移り、「役ノ行者が天皇を傾けん
としている」と朝廷に託宣させます。

驚いた天皇は行者を捕らえ伊豆の大島に流したという(『今昔物語
集』巻十一)。また、『日本霊異記』(にほんりょういき)上巻二十
八では、一言主の神はいまでも谷底で縛られたままだとしていま
す。能「葛城」でもまだ呪縛から解けないでいるとし、一言主の
神を女神の形でえがいています。

この工事がはじまったのは、ある本では695年(持統9)、また別
の記述では697年(文武元)のことだともいわれています。だい
たい一言主は、大国主(おおくにぬし)や事代主(ことしろぬし)
などと同じ「ぬし神」であり、国つ神であり、葛城山(いまの奈
良県金剛山)の神であるといいます。

『古事記』(下巻・雄略天皇条)によれば、「…天皇、葛城山(か
づらきやま)に登り幸(いでま)しし時に、……。その向へる山の
尾より(向こうの山の尾根づたいに)、山の上に登る人あり。すで
に天皇の(全く雄略帝の)鹵簿(みゆきのつら・鹵=ろ)に等しく
(同じ形で)、またその束装(よそひ)の状(かたち)、また人衆(ひ
とかず)、相似(あひに)て、傾(かたぶ)かざりき(同じだった)」。

名前を聞くと、相手も同じことをいう。怒った天皇は矢をつがえる
と、相手も同じように矢をつがえます。天皇は「お互い名乗ってか
ら矢を放とう」というと、「…あは(私は)悪事(まがごと)も一
言(ひとこと)、善事(よごと)も一言、事離(ことさか)の神、
葛城(かづらき)の一言主の大神ぞ」と名乗りました。

それを聞いた雄略天皇は恐縮し、我が大神の御姿とは存じませんで
した。そして、御大刀(おおみたち)や弓矢、また百の官人たちの
着ている衣を脱がせて、一言主神に献上したとあります。一説に
は一言主は、スサノオノミコトの子だともいいます。

これほどの神ながら、それからわずか200年後の695(持統9)年、
あの役ノ行者(えんのぎょうじゃ)に、鬼として使役されるので
すから、その落ちぶれかたはひととおりではありません。鬼だけ
でなく黒蛇になって谷に捨てられ、いまでは恨む気力もなくなり、
萎えてしまっていると書く本まであります。

『役行者本記』(えんのぎょうじゃほんぎ)という本では、その谷
こそ金剛山東方・御所市西にある「蛇谷」だとし、『本朝神仙伝』
(ほんちょうしんせんでん)では吉野山にあるということになっ
ています。

大阪府と奈良県にまたがる修験道場の中心地だった金剛山(1125
m)。その北方大和葛城山の先に岩橋山(659m)というピークが
あります。ここはまさに金峰山へ架けようとした岩の橋の山名で
す。四等三角点のある山頂南側わずかに下った所から、西へつづ
くふみあとをものの5、6分。ピークの下に、未完成の岩橋があ
ります。

あたりにはない大岩が橋のたもとらしく人工的な形で金峰山へ向
かっています。しかしその積み方は何とも投げやりで、3つ、4
つ運んできた岩を放り投げたという感じです。これでは役ノ行者
も怒るわナと思わず笑ってしまいました。

かつて葛城山(いまの金剛山)山頂にあったという一言主神社は、
いまは同市森脇地区にまつられ、参拝者に「いちごんさん」と親
しまれ、私が訪れたときも大勢の参拝者でにぎわいそのわきで「一
陽来復」ののぼりがはためいていました。

▼【参考文献】
・『役行者本記』:『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年
(平成6)
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『古事記』(新潮日本古典集成27)校注・西宮一民(新潮社版)2005
年(平成17)
・『今昔物語』(日本古典文学全集24)馬淵和夫ほか校注・訳(小学
館)1995年(平成7)
・『日本霊異記』僧景戒著:(日本古典文学全集6)中田祝夫校注・
訳(小学館)1933年(昭和8)
・岩波文庫『日本書紀(三)』校注・坂本太郎ほか(岩波書店)2000
年(平成12)
・『本朝神仙伝』(大江匡房):日本古典全書『本朝神仙伝』川口久
雄校注(朝日新聞社)1971年(昭和46)
・『神社辞典』白井永治ほか編(東京堂出版)1986年(昭和61)

 

 

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