『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第7章 偉人・英雄神

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▼07-10「畠山重忠」

【本文】
 畠山重忠(しげただ)は鎌倉初期の武士で、武蔵の国秩父氏の一
族で畠山荘の畠山重能(しげよし)の子。治承4年(1180)、源頼
朝が兵を挙げた時、父の重能が平氏に仕えていたため、平家方に味
方して三浦氏を攻めていましたが、のちに源氏方に味方し、平家の
追討軍に参加、各地を転戦したといいます。

 源頼朝没後、頼朝の妻政子の父北条時政は、あとを継いだ頼家
を殺し、後妻の牧の方の娘婿平賀朝雅を、将軍にたてようと画策。
その陰謀に巻き込まれた畠山重忠の子、重保(しげやす)は、鎌
倉の由比ヶ浜で時政に殺されてしまいます。父重忠は、すぐさま
鎌倉に遠征しますが、武蔵の国二俣川(いまの神奈川県横浜市旭
区保土ケ谷区)で、北条義時の軍と戦って戦死しました。1205年
(元久2)、重忠42歳のことだそうです。

 その遠征の時、峠で妻と名残を惜しんだのが、埼玉県奥武蔵に
ある妻坂峠で、峠名の由来もそこからきていると伝えます。山麓
には「名残惜しいや妻坂峠……」という里謡も残っています。

 畠山重忠の武勇伝は広く知られ、ひよどり越えの坂落としでは、
愛馬をいたわり背負って崖を降りたとか、阪東一と自称する長居
という大力の相撲とりを押さえつけ肩の骨を砕いてしまったとい
う。武蔵の国二俣川で、北条義時と戦った最期の時も恐がり近づ
く者がなく、自害して自ら果てたといいます。

 また、秩父・三峰山の太陽寺にはこんな伝説もあります。その
昔、太陽寺を創建した、髭僧大師(ひげそうだいし)のところに
美しい娘が住みつき、やがて大師の妻になり子を産みます。産屋を
見るなといわれていましたが、だめだといわれれば見たくなるのが
人情です。

 3日目になり、我慢できずのぞくと、3日目に我慢できずのぞく
と、大蛇がとぐろを巻いて赤ん坊をあやしています。腰を抜かして
いる大師に、「正体を見られてはもうここにはいられません。どう
かこの子をお願いします。」大蛇は泣く泣く、子どもを残して、風
を起こして雲に乗り、大空の彼方へ消えて行きました。

 髭僧大師は後悔をしました。しかし、大蛇の子を寺におくわけに
いきません。断腸の思いで、生まれた子供を菰に乗せて、大血川に
流しました。流された大蛇の子は、母親の魔力に守られ、流れ流れ
て畠山庄の地にたどり着きました。これを見つけた畠山の館の主が、
育てることになったという。

 この子こそ、のちに、寿永3年(1184)の「宇治川合戦」で溺
れかけた、烏帽子親(元服の時の仮親)の大串重親を、向こう岸
へ投げ上げたり(『平家物語』)、また、ひよどり越えの逆落としに
は、愛馬をいたわって、これを背負って下りたり(『源平盛衰記』)
して活躍する、畠山重忠だったということです。なお、髭僧大師
といい、畠山重忠といい、年代的には合致しています。

▼【参考文献】
・『奥秩父の伝説と史話』太田巌著(さきたま出版会)1983年(昭
和58)
・『源平盛衰記』(国民図書)1927年(昭和2)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『増補ものがたり奥武蔵』神山弘ほか(金曜堂出版部)1984年(昭
和59)
・『平家物語』巻の九:日本文学全集7『平家物語他』井伏鱒二(河
出書房新社)1960年(昭和35)

 

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