『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第5章 仙 人

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▼05-13「足柄山の五仙人」

【略文】

富士山に近い箱根は、古くから京でも有名であり、『古事記』や、
『万葉集』、『今昔物語』などいろいろな古典にも顔を出していま
す。その昔、箱根には5人の仙人が住んでいたという。仙人たち
はお互いに食物の食べ方や、呼吸法など長寿法の話しをはじめまし
た。それを聞いていた猟師がふと気がつき、家に帰るとすでに3日
経っていたという。
・神奈川県南足柄市、箱根町、静岡県小山町との境。

▼05-13「足柄山の五仙人」

【本文】
 富士山に近い箱根は古くから京でも有名であり、また『古事記』
や、『万葉集』、『今昔物語』などいろいろな古典にも顔を出してい
ます。もともとこの山には不思議な話が詰まっています。

 有名な金太郎(坂田公時)はここの出身地。雷神の子を身ごも
った山姥は金太郎を産みます。やがて源頼光に見いだされ、頼光
の四天王のひとりに数えられ、丹波の国大江山の酒呑童子退治で
活躍します。公時(金時)は一生独身を通し、主人の頼光が他界
してからは、生まれ故郷の箱根に帰ってきて、ここで行方不明にな
ったままとされています。

 また、浦島太郎は横浜市浦島ヶ丘の生まれだという話もあります。
太郎は釣りが好きで、針にかかった亀を放してやると、亀は美しい
乙女になって、太郎を竜宮城へ案内します。夢のような時が過ぎ、
お別れの時、乙姫様から玉手箱と、聖(しょう)観音像とをもらい
ました。

 その像の告げで、まだ見ぬ父の墓がこの地にあることを知り、墓
のそばに庵を建てて住んだという。やがてここ、箱根山まできて玉
手箱を開けて、みるみる老人になったとされています。

 さらに箱根には、里にすむ人とは違う山人(やまおとこ)や、外
輪山の明星ヶ岳には、山ろくの曹洞宗の名刹、大雄山最乗寺の天
狗道了尊の伝説もあります。

 ところで、箱根には5人の仙人が住んでいたという話もあります。
「足柄山には、正覚院(しょうかくいん)・満善坊・十全院・養徳
医師と、もう一人名前が不明の5人の仙人が住んでいました。養徳
医師が江戸日本橋のほとりで医者をしていたというほかは、もと何
びとかは不明だという。

 そのころ、相模国小田原の在の鹿山という里に、水原文五郎とい
う猟師が住んでいました。その父は、水原文弥長信(ぶんやながの
ぶ)といい、北条氏康(戦国時代相模国、小田原北条氏第3代目当
主)に仕える武士だったそうです。

 ある年の冬のこと、文五郎が足柄山の雪の中で猟をしていた時、
山の上から話し声がしてきました。不思議に思って近づき、物陰か
ら見てみると、80から90歳とおぼしき老人5人が吹雪のなか、平
気な顔で世間話の真っ最中。

 はじめは山田仁左衛門長政の暹羅(シャム国)軍の話をしていま
したが、上座にいた老人が、「兎角(とかく)我等の一生は、この
界の規律に従ひて、寿命を長く保ち、人界の所為を助けて正道に導
き、天然を楽しむが第一のことぞ。方々もまた然(しか)らむ」と
話題を変えました。

 もう一人の老人が「ところで正覚院殿は、本年何歳になられつる
か」。すると正覚院仙人は「我は十ずつ九返りに二つ足らず」(88
歳)。「如何なる行を修めて、かくは長寿せしや」。「満善坊の御問ひ
なれば辞(いな)び難し。いで我が長寿せしやうを語りてむ」との
こと。

 質問したのは満善坊という仙人らしい。正覚院仙人がいうには、
「わしは14、5の時から、煮焼きしたものや穀物は口にせず、果物
を一日一回食べている。そのほかは、「天地の気」を吸っている。
晴天の朝夕、山野に出て体内の悪気(あしけ)を吐き出し、清浄な
山の気を吸って腹いっぱいにする。こうすれば食欲を忘れる。その
ほかは毎日冷水を浴びるだけだ」とのこと。

 こうして代わるがわるに長寿法の話が進みます。十全院という仙
人が話し出しました。「余は本年十ずつ八返り猶八つ余りぬ」(88
歳)。幼少の頃より体が丈夫で50歳を超えるまでは医薬を知らなか
った。五十四の頃、心地稍(やや)悪しかりしに、医者の助言で火
食を断っている」。

 この医者とは、仙人の養徳医師のことで、その助言を受けて実行
しているという。次に養徳医師が発言しました。「わしはことし110
歳なり。12歳にして江戸で。幕府の侍医(じい)某(なにがし)
について医学を修めた。のちに日本橋のほとりで医業を開いた」。

 患者たちを診察してみると、「多くは摂生(せっせい)の其(そ
の)体器(たいき)に相応せぬより。病根を起こせるものどもなり。
先(まづ)摂生の体器に相応せぬと云ふべき者、凡(およそ)三つ
あり。この内第一と第二は、雇医と雖(いえど)も診断することを
得べきも。第三に至りては雇医(ようい)の力の及ぶ所にあらず…
………」。

 養徳医師がいうには、火を通した食べ物を「人食」といい、通し
てないものを「天食」といい、人食するものは短命で、天食するも
のは長寿だというのです。更に、「天地の気」を吸うのだという。
適宜の運動をして、その身の性格を作り、また「軽飛草」という薬
草を用いて、「天食と人食とを対比して、これまた適宜を計り、自
身に飛行の調(ととの)ふを知りて、遂に仙境に入ることを得たり」
と難しいことを長々と話します。

 5人の仙人たちのこんな話を、猟師の水原文五郎が聞いていた時、
突然、山上の杉の古木の梢で笛を吹いたような風の音がしました。
文五郎がそれに気をとられている間に、仙人たちの姿はすでに消え
ていたという。文五郎が不思議に思い、手元の鉄砲の火縄を見ると、
縄は灰だけになっています。

 仕方なく獲物もなく家に帰ると、すでに3日も経っていると女房
にいわれたという。この話は、誰いうとなく語り伝わり、ついに世
の中にもれ、人々にも知られることになったという。そして回りま
わって、丹沢の住民にまで伝わり、「本伝は、相模国大山の人・逸
見(へんみ)仲三郎氏の寄贈されたるをこゝに載せたり」だそうで
す。

 これは、明治から大正時代の国学者・宮地厳夫(みやぢいづお)
著で、1929年(昭和4)出版の『本朝神仙記伝』(下の卷)に載っ
ているものです。いまは80歳、90歳、100歳は珍しくもない時代
ですが、この話を聞いた猟師水原文五郎の父は、北条氏康(1515
〜1571)に仕える武士だというから、まさに戦国時代真っ最中。
この年齢は驚きだったに違いありません。

 いまの時代のご老人には、吹雪の中の語り合い、パッと身を隠す
などこの不思議な行動はできません。それより不思議なのは、もっ
ともっと長い(3日間の)物語を暗唱するまで延々と、覚えられま
すかね?(それをいっちゃ、お仕舞いよ)ですよね……。

 以下はその詳細です。……養徳医師がいいました。「予(よ)は
今年(こんねん)百十歳なり。其(その)始め予は十二歳にして江
戸に在り。幕府の侍医(じい)某(ぼう)に就きて。医学を修め。
後(のち)に日本橋の邊(ほとり)に於(おい)て業(げふ)を開
きぬ。

 而(しか)して日々来(きた)りて診(しん)を乞ふ者を閲(け
み)するに。生来(せいらい)の強弱に因(いん)するものもあれ
ど。多くは摂生(せっせい)の其(その)体器(たいき)に相応せ
ぬより。病根を起こせるものどもなり。先(まづ)摂生の体器に相
応せぬと云ふべき者、凡(およそ)三つあり。

 この内第一と第二は、雇医と雖(いえど)も診断することを得べ
きも。第三に至りては雇医(ようい)の力の及ぶ所にあらず。我(わ
が)国神代に於(おい)ては。衣食のことありと云へども。その事
項甚だ少(すくな)きものは。天食多くして火食少(すくな)き故
なり。

 人口に漸々(やうやう)美味を覚えしより次第に人食を欲して。
天食を忘るゝ傾きを生じ。遂に人命を短縮するに至れり。今日(い
ま)にしては。習ひ性となれるが故に。人食は一日も措(お)くべ
からず。然れども生来健全なること。

 十全院の如き者は。人食のみを過ごす時は。体力の剛強と成りて。
心気(しんき)甚だ衰弱し。遂に病根をなすに至る。是(こ)れ即
(すなは)ち天食と人食との化合を失するが故なり。

 嘗(かつ)て十全院に天食を用ふべき理(わけ)を語りて。漸(ぜ
んじ)に加減せば。身体健全なるは勿論。神仙の境(さかい)に出
入するを得むと。誘導したるも全く茲(こゝ)に在(あ)りまた。
余が十全院を誘引しながら。此(この)境(きょう)に入ることの
反(かへっ)て遅かりつるものは。生来(せいらい)健全なる性格
ならざるに因(いん)す。

 予(よ)は医術上より。此(この)境(さかひ)に入(い)るべ
き法を知れるも。如何なる体格の者を。予(よ)が性格を作る標本
(てほん)とすべきかを覚(さと)らざりき。十全院を診察するに
至り。大いに覚(さと)る所ありて。その性格を作るに苦心したり。

 即(すなわ)ち清冷(せいれい)なる庭園に出て。体力を計りて
石を弄(ろう)すること数回身(み)汗ばむを以(もっ)て度(ど)
となす。之(こ)れを用ふること年余(ねんよ)にして。先(まづ)
予想したる性格を有(いう)したり。然(しか)れども。天然神仙
(しんせん)の骨相(こっさう)を有(いう)せざるが為に。其(そ
の)境(きゃう)に近くも尚(なほ)俗人を脱すること能(あた)
はず。

 依(よ)りて薬草を校(かんが)へて。軽飛草(けいひさう)を
用ふ。而(しか)して後。天食の度(ど)と人食の度(ど)とを対
比し。日常これに用意せしに。やゝ飛行(ひきゃう)の自身に調(と
との)ふを知り。以て遂に茲(ここ)に至り。十全院と此(この)
境(きゃう)に相見ることを得しなり。云々(しかじか)と語る。

 時に山上の杉の古木の梢に。笛の声の如き風音(かざおと)起こ
る。これはいかにと怪しみて眸子(ひとみ)を転じ。梢上(しょう
じょう)を注視せし間(ほど)に五老は忽ち去りて影蹟(かげ)を
留めず。其(その)行方(ゆきかた)を見失ひけるとぞ。茲(ここ)
に文五郎は。愈々(いよいよ)奇異の感をまし。手に持ちし火縄を
見るに。只灰のみになりあるにぞ。宛(さなが)ら夢の覚めたるこ
ゝちし。

 一鳥獣をだも得ずして家に帰りけるが。妻に聞くに。暫(しば)
しが間(ほど)と思ひしに。早くも三日間を経てをりしとぞ。此(こ
の)事(こと)誰云ふとなく語り伝へて。遂には世に漏れ。人にも
知らるゝ事とはなりしとかや。」とあり、次ぎに著者自身の解説と、
「気」の吸い方、天食、人食の検証、長寿法などがエンエンと続い
ています。

▼金時山【データ】
【異名・由来】
・異名:猪鼻ヶ嶽(いのはながだけ)
【所在地】
・神奈川県南足柄市、足柄下郡箱根町、静岡県駿東郡小山町との
境。JR東海道本線小田原駅の北北西15キロ。小田原駅からバス
仙石下車、歩いて1時間30分で金時山。三等三角点(1212.5m)と、
金太郎茶屋と金時茶屋がある。地形図に山名と三角点の標高の記
載あり。付近に何も記載なし
【名山】
・「日本三百名山」(日本山岳会選定):第236番選定:日本百名山
以外に200山を加えたもの。
【位置】
・三等三角点:北緯35度17分22.8秒、東経139度00分17.51秒
【三角点】
・点名:金時山
【地図】
・2万5千分の1地形図「御殿場(静岡)」&「関本(横須賀)」(2
図葉名と重なる)。

▼【参考文献】
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編相模国風土記稿・第1巻』(巻之12・村里部・足柄上郡巻
之1):(大日本地誌大系19)編集校訂・蘆田伊人(雄山閣)1980
年(昭和55)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)
・『本朝神仙記伝』(下之巻)宮地厳夫(本朝神仙記伝発行所)1929
年(昭和4)国会図書館電子デジタル

 

 

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