『新・ふるさとの神々』(上)加筆
第4章 天狗神

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▼04-28「高野山の天狗たち」

【略文】

弘法大師空海が開いた霊地・高野山には、多くの山神や地主神、
天狗たちがすんでいたという。なかでも高林坊という天狗は、こ
れらををとりまとめる首領。その前身は、弘法大師をここに案内
した狩場明神だとされています。このほか弁天岳にすむ妙音坊天
狗という女性天狗などがいることになっています。
・和歌山県高野町

▼04-28「高野山の天狗たち」

【本文】
 弘法大師空海が和歌山県北部に開創した高野山は、真言宗の根
本道場として、総本山金剛峰寺を中心に18平方キロmに広がる聖
地です。開山は平安初期の弘仁年間(810〜824)だという。密教
普及のための聖地を探していた空海が、狩場明神(かりばみょう
じん)の化身の狩人に出会い、案内されたところだという。

 また山中で、狩場明神の母・丹生明神(にうみょじん)から教
えられたともいいます。一説に、高野山一帯は丹生都比売(にう
つひめ)神社を祭った広野社の社地で、当時、土地の名族・天野
祝(はふり)の所有地でありました。そこへ弘法大師がやってく
ると、祝(はふり)は弘法大師に帰依、その所有地を寄進したと
いう。

 高野山の奥の院には高林坊という天狗と、弁天岳に妙音坊(みょ
ういんぼう)という天狗がいることになっています。奥の院の高林
坊は、以前からこのあたりにすんでいた多くの山神、地主神、天狗
たちをとりまとめていた総帥天狗。天狗になる前のその正体は、
空海を霊地に案内した地主神・狩場明神ではないかとされていま
す。

 空海と高林坊(狩場明神)との出会いについて『今昔物語集』(巻
十一第二十五)に、「……、『我ガ唐ニシテ擲(な)ゲシ所ノ三鈷
落タラム所ヲ尋ム』ト思テ、弘仁七年トイウ年ノ六月ニ、王城ヲ
出テ尋ヌルニ、大和ノ国宇智ノ郡ニ至リテ一人ノ猟ノ人ニ会イヌ。
其形、面赤クシテ長(たけ)八尺許リ也。青キ色ノ小袖ヲ着セリ、
骨高ク筋太シ。弓箭ヲ以テ身帯セリ。大小ノ黒キ犬ヲ具セリ」と
あります。

 つまり、「自分が唐にいるとき投げた三鈷の落ちた場所をさがそ
う」と思い、弘仁7年(816)という年の6月に都を出て捜し求め
ているうち、大和の国宇智郡(うちのこおり)まで来てひとりの
猟師に出会いました。その姿を見ると、顔赤く背丈は八尺ほどで、
青い小袖を着ており、筋骨たくましい。身には弓矢を帯び、大小
2匹の黒い犬を連れている。とあります。

 連れていたのは黒い大小の犬になっていますが、犬の色につい
ては、ほかの本でも白黒とか、説明と図版で違っていたりかなり
混乱が生じています。しかし、それはソレ、遠〜い昔のこと。あ
まり気にしないでいきたいものです。

 もう一狗の妙音坊は、不動坂を登りつめ、向かい側の細い階段
を登り、30分くらいで着く弁天岳の弁財天社にいる天狗。妙音坊
とは女神である技芸天女弁財天を守るための天狗です。紀伊国の
当時の名勝地を記した案内書『紀伊続風土記』に、昔、弘法大師
が奈良県吉野郡天川村にある「天川弁財天」に千日参籠をした時
に用いた宝珠を埋めて弁財天を勧請したとあります。ここにある
古木の一本杉にすむ妙音坊天狗は、いつもこの岳山と祠を守護し
ているというのです(弁天岳祠の立て札から)。

また『図聚天狗列伝・西日本』によれば、『紀州名所図会』にも、
「弁天山に、嶽(たけの)弁財天があり、境内に金剛童子社、荒神
社が祭られている。その嶽弁財天に「昔、大師来世の福田のために、
如意珠を此峰に埋(うず)み、宝瓶(ほうびょう)(真言宗で灌頂
かんじようの水を入れる器)を安置し、天女を勧請して財福を乞ひ
給ふ。其ののち天狗妙音坊この嶽を守護すといふ」とあります。

 妙音坊とは、女神の弁財天を守る天狗だけあって、さすがにや
さしい名前ではありませんか。地元の民話にも「嶽の弁天さんの
「妙音」という天狗がおって、夜な夜な笛の音が高野山に流れて
くるっていう。いまでもあそこへ行くと「ヒュー」という音がし
ますよ」と言いつたえられています。

 そのほかに幕末の紀伊藩の地誌『紀伊続風土記』などには、高
野山小田原谷にある金剛三昧院毘張社にいるという毘張坊(ひち
ょうぼう)天狗、同来迎院鼻長社の鼻長天狗(※寺の場所不明)、
同持明院の真誉阿闍梨、同南谷遍照か岡覚海廟の覚海上人などの
天狗の名がでてきます。

▼@毘張坊天狗は、口碑に明暦(めいれき・江戸前期。1655〜1658)
のころ、寺主某法会に趣きけるに(ママ)、俄に雨降り出けるに、蓑
笠の支度もなけれと、如何かしへきと思ひ煩ひけるに、不思議にも、
寺主の衣装一滴も湿(※る)ことなし、あやしみて顧みるに、所従
の僕、羽翼を伸(※ばし)て是を覆へり、寺主驚きて、汝はいかな
る者なれは、かゝる怪しきことをばなさるやと問ひけるに、答(※
え)て曰(※く)、今は陰し申すへきにあらす、

 僕は魔界に住める者にて侍るか、ありかたき秘密の印明をも授か
り、魔界の苦患(※くげん・苦悩)を免れ侍りなんとて、形をかへ
て師に仕へ奉れり、願わくは、慈悲を垂て、抜苦与楽(※ばっくよ
らく・仏の慈悲により苦しみを除き楽を与えること)し給へと、泣
(※く)泣(※く)語(※り)ければ、寺主も哀(※れ)に其(※
の)志を感して、祓苦(※ふつく)の呪印を授けけり、僕拝謝して
曰く、鴻恩(※こうおん・大恩)報するに他なし、願わくは斯(※
この)寺を守護して永く火災の畏れなからしむへしと誓ひて後、
行方しらすとなりぬ、其後小祠を建て是を祭り、毘張房と称す、
寺伝に地蔵菩薩を本地仏(ほんじぶつ・神になっている本当の姿
の仏)とす、(『紀伊続風土記』四・三九一上、その他同書五・二
九三上、三三八上)にあります。

▼Aまた鼻長は、第九世全海の時、異僧来たりて許可を乞ふ、因
りて密印を授く、時に異僧の曰(※く)、吾は鼻長と号して下品(げ
ぼん・極楽浄土に生まれる人を、能力・資質の差によって上・中
・下に3分したもの)の悉地(しっち・成就)を得たるものなり、
今日許可報恩には、誓ひて永く当寺を守護せむ、又吾愛する所の
楓樹あり、今宵当寺の門前に植ゑて我(※が)言の空しからさる
を示しへしといひ畢(おわ)りて、空を凌(※しの)きて去る、
翌朝果(※た)して門外に一大楓樹生す、其木今に繁茂せり、全
海即(※ち)小祠を祭祀す(後山に鼻長の社あり、是なり)、(『紀
伊続風土記』五・総分一八五上)。

▼Bさらに真誉阿闍梨は、(持明院)真誉持明房の開基也(中略)、
この直誉阿闍梨、高野に天魔の障碍多(※き)をうらみ、自(※
ら)誓願して天狗となり、其(※の)列に入(※っ)て魔障を鎮
め給ひ、三会(さんえ・三大説法会)の下生(げしょう・極楽に
往生するもののうち、上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品
(げぼん)と分けた、それぞれの最下位)を待ち、今に毎日飛行し
給ふとかや、当山にをいて即身成仏し給ふ人證(※証)をかたれ
ば、持明房も其一人也と旧記に載せられたり、(『通念集』巻七・
一九三上)。

▼Cさらにまた、南谷遍照か岡覚海廟にいるという覚海上人は、(遍
照ヶ峰)八葉の一にして、世俗覚海山とといふ、峰中に覚海尊師
の祠並(※び)に看経所等あり、覚海師は(中略)、修羅即舎那、
魔羅即法界の覚悟を得、俄然として大身に現じ、両腋に羽翼を生
じ、直(※ち)に大虚(※たいきょ・虚空)に向(※かっ)て飛
(※び)去り、永く当山の鎮護となり給ふ(中略)、今山上に於て
不慮の危難に値ふものハ、必(※ず)尊師の祟りなりとて、大(※
い)に恐れをなすといふ、(『紀伊名所図会』中・六九三、その他
『高野春秋』一四四下、『紀伊続風土記』四・三三七下)と、それ
ぞれ解説しています。

▼高野山奥ノ院弘法大師廟【データ】
【所在地】
・和歌山県伊都郡高野町。南海電鉄極楽橋駅からケーブル高野山
駅・バスで奥ノ院。地形図に弘法大師廟の文字と建物記号のみ記
載。
【位置】
・奥ノ院弘法大師廟:北緯34度13分22.95秒、東経135度36分20.71

【地図】
・2万5千分の1地形図「高野山(和歌山)」

▼【参考文献】
・『花園の民話』
・『紀伊国名所図会』文化8年(1811)出版(高市志友ほか撰)臨
川書店(1996年(平成8)
・『紀伊続風土記』仁井田好古ほか編1839年(天保10):幕末の紀
伊藩の地誌
・『角川日本地名大辞典29・奈良県』永島福太郎ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『今昔物語集』巻第十一:日本古典文学全集24『今昔物語集』(1)
校注・訳:馬淵和夫ほか(小学館刊)1993年(平成5)
・『山岳宗教史研究叢書・16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名
著出版) 1981年(昭和56)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)

 

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【とよだ 時】 山の漫画文著作
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ゆ-もぁ-と制作処【時ノ坊】
山のはがき画の会

 

 

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